(7)『涅槃経』に就いての理解―― その一

 この四句偈は、文として全く寸分も違わない同文が、阿含部の経にも法華部の経(『涅槃経』は法華部所攝)にも出て来ているという事は、大いに注意しなくては成らない事ですね。

 そうです。文が同じならば内容も意味も同じだ・と考えるのは偏見です。「是法」とか「実相」という様な文・用語はどの経にでも出て来ますが、阿含部での<是法>は縁起仮法、般若部での<是法>は空法、華厳部では中法、法華部では一般には九界で・悟れば妙法・という様に指示内容や意味する所が全く別物に成ります。主語「是法」は述語されて始めてその内容が決るからです。

 「実相」も経毎に、理実相やら偏真実相やら中道実相やら、各々その<体>が違って参ります。仮名に騙されてしまって「文が同じなら中味も同じ」と考えるのは短絡です。雪山童子の四句偈も、同文でありながら、阿含部と法華部(『涅槃経』の事)では、教えている思想内容に天地雲泥の差が有る訳です。この事を踏まえて特に『涅槃経』での四句偈を取上げよう・というのです。

 この「諸行無常是生滅法」を高校生に読ませると、必ずと言って良い程「……しようめつほう」と読まずに「しょぎょうむじょうぜしょうめっぽう」と読みます。こう読むのは大学生でも随分居ます。「諸行無・是生・減法」の積りで居ます。「全ての人は必ず死ぬ、ソクラテスは人である、故にソクラテスは死ぬ」という三段論法と同じだ・と思い

「全ての人(是生)は必ず死ぬ(滅法)のだから、浮世の努力(諸行)は果敢なく空しい(無)……だから世俗を捨てて出家すべきである」

こういう主張だ・と思っています。鬼神から偈を聞く以前の雪山童子もこう思っていました。この事は松野殿御返事に詳しく出ております。

 それならばお笑いで済ませられますが、次に続く「生滅滅己寂滅為楽」に就いて「生滅の法に固執する心を滅し己わって、到達する寂滅・涅槃の世界に、無上の安楽がある」 ―― (某出版物所載記事)という、小乗義その儘で、然もその小乗義での解釈としてさえ間違ってしまい、如何にも尤もらしくて曖昧極まる誤った解釈が、大手を振って罷通っています。こんな好い加減な話を通用させては成りません。

 私も・これは可怪しい・と思います。正しく解説してみて下さい。

 まず、漢文を読むには注意が要ります。漢語(中国語)という国語は、名詞も動詞も・自動詞も他動詞も・過去形も現在形も未来形も・皆一緒くたで、単語や熟語を見ただけでは<用語・同>の為に区分けが付きません。これらは「話脈・文脈に従って<見分け>る」という約束(語用習慣)に成っております。文法は欧米語と同じでありながら、この点で欧米語と大差が有ります。

 こういう国語なので、昔の中国では、インドの<声明>(しょうみょう)が<言語学・文法学>である事を正しく理解出来ず、<声明>を<音韻学>であるかの様に誤解してしまい、誤解の儘又日本へ伝わって、真言宗の御詠歌や念仏各宗の和讃に成ってしまいました。ですから漢訳経典を読む時には、以上の点――文脈に従って見分ける約束――に気を付けていないと混乱してしまいます。

 その事を具体的に示して頂きたい・と思います。

 一例を挙げてみますと、法華結経『普賢経』 の

 「於無量世 眼根因縁 貪著諸色 以著色故」

の文を今の或る真訓両読経では

 「無量世に於いて、眼根の因縁をもって諸色に貪著す。色に著するを以っての故に……」

と訓じておりますが、これは漢文の約束を知らないからなのでして、こんな馬鹿な<訓>は有るものではありません。

 この文は、仏法として常用の<因縁説>として<眼根の因縁>を説いた文です。原文は確かに「眼根因縁」が主部となり、「因縁」が主語で、「眼根」はその形容副詞に成っていて、以下が述部に成っています。ですからこの文は

 「無量世に於ける眼根の因縁は、諸色に貪著し色に著するを以っての故に……」

でなければ文意が通りません。この文の以下でも「為此弊使 盲無所見」を

 「此の弊使を為(も)って盲(もう)にして見る所なし」

と訓じていますが、この訓では「盲」は名詞として扱われています。所が動詞なのです。「所見」は<能見>に対する<所見>として、常に多用されている熟語でして、ここでは<四聖(二乗・菩薩・仏)の慧見・法見・仏見の三見識>を「所見」の一語で示したのですから「見る所」ではない訳です。詰り正しい<訓>は

 「此の弊使(貪使・愛使・見使の三使)の為(ため)に盲(めし)いて所見(三見識)無かりき」

です。「無」も、上来の文脈を受けた過去形としての使用だったのです。漢文は全てこうですから、雪山童子の四句偈も余程注意して掛かりませんと、短いだけに尚更大変なのです。上二句は現量と比量で仮、下二句が思量で、第三句が空・第四句が中です。

 その点は判りました。この四句偈の取扱いですが、それにはまず、何が問題にされているのか・という事を掴まなければ成りません。涅槃は悟り、覚者の死は般涅槃、両語は全く違った事です。

 この経は『涅槃経』ですから<涅槃>(智法)を問題にしている……これは自明です。然し<仏入般涅槃>(釈尊入滅)の説明をしている訳ではありません。釈尊の入般涅槃の有様は此の経にではなくて阿含部・結経『遺教経』(小乗涅槃経)に説いて在ります。此の大乗『涅槃経』では、一般問題としての涅槃の説明をしているのでもなくて、<どの様にして涅槃(智法)を実現す可きか>を説いているのです。従ってこの四句偈も全文が智法としての<迷悟問題>であって<境法問題>ではないのです。「涅槃」も<知る法>であって<在る法>ではありません。

 詰り・<境法>という<存在問題>ではなくて、自覚への<反省問題><修行論>なのです。このテーゼを取違えては成りません。僅か十六字の短文にすぎませんが、短いのは問題内容が煮詰められているだけに却って難しいのです。これから私が述べる所は相当に難しくなりますが、好き好んで勿体振るのではなくて、本来難しい事だからなのです。

 ニルバーナを音訳したのが涅槃という漢字です。意味は仏法では<不生不滅>とされています。元々の日常用語は<火を吹消す>という事で、吹いて消すので<滅する>と成り、仏法では<煩悩害を滅する>から・ネハン=悟り・と成った・そうです。この四句偈に三つも出て来る「滅」はこの意味この用法なのでしょうか。

 この文の場合はそれとも違うのです。この三つの「滅」は思量行為としての<反省否定>の「滅」です。前見(見解)を否定反省して正しい後見を立てる<見滅の滅見>の意です。<(誤りを)滅する見><滅してしまう見>です。滅すれば「二辺寂静」(『止観』)です。

 従って原文は「生滅の法(境法)に固執する心を滅し已わる」のでもなければ、「寂滅・(詰り)涅槃の世界」という<境法>に言及しているのでもありません。前掲出版物所載記事は、のっけからして誤っているのです。原文はその上更に小乗義を許さないのです。「二辺の無明の諸悪を防止」する寂滅・寂静は「(有無・生滅等の)二辺(二辺見)を遠離する」(『止観』)事です。行為です。

 教理教門の上でも「法華折伏破権門理(法華は折伏にして権門の理を破す)」(『玄義』)と言う様に、法華以前の経は摂受門の経、法華部を構成する『法華』『涅槃』の二経は折伏門の経です。抑もこの経での「寂滅為楽」の話は、『華厳』も『阿含』も『方等』も『般若』も『法華経』も説き終った後の『涅槃経』に出て来る実大乗説なのです。この経は『法華経』に対しては摂受門でも法華の流通分としては<折伏門の円教>です。従って実大乗折伏義で解すべき文です。

 『涅槃経』は釈尊一代五時説法の最後に説かれ最後に位置し、一代説法を締括る役割を担った経ですから、権大乗でもなくて実大乗説です。経内に『阿含』や『般若』等の諸経の説が再説されるのは、実大乗義で再消化し返す為です。この句も阿含部で説き出されていたのを更に持出して再説されているものです。『雑宝蔵経』や『地蔵経菩薩発心因縁十王経』などに出ている句を、その儘そっくり『涅槃経』に移し出したものです。そして・実義で円融三諦を説いた・のですね。

 まず『増一阿含経』ですが、この経は、外道も六道の因果を色々に説いて諸説紛々としているのに対して、まず六道の内の<人天の因果>を正しく明かした経文です。

 そこでこの「諸行……為楽」の四句――四句分別の四句ではない――に就いて順序を立てて言ってみると、元来この四句偈は阿含以来説き示されていた句です。この内・上半偈の「諸行無常是生滅法」というのは、『増一阿含経』に説かれた所の、<人天の因果を明かす>為の<主語主題>を二句で示したものです。勿論この二句は<仮>です。「諸行無常」は現量、「是生滅法」は比量、「生」は仮有、「滅」は仮無です。

 従ってこれは又『長阿含経』に説かれた所の<外道を破す>事の準備にも当り、正しい因果論として・外道の人天因果論を破する為に、「是生滅法」という・俗人や外道の比量に拠る<断見>をも挙げている事でもあります。目的がはっきりしているのです。この様に背景が二重に成っているのです。後半偈はこの<バックの二重構造>を踏まえて説出されている訳です。

 文の前後の事情や目的や時代の事情背景などを抜きにして、唯・抽象した文だけを理論的にばかり考える態度、まずこれがいけないのですね。文に封じられてしまう……。

 そうです。唯・理走りしてしまう行方・学校で科学を習って身に着いた<抽象癖>・を棄てないと仏法は判らないのです。こういう行方や抽象癖を<思惑>と言うのです。見惑も怖いが思惑も恐ろしい事を知らなければ成りません。自身の心中に巣喰う大敵なのです。出版物所載記事の執筆者は癡と慢との思惑熾盛のまんまこの記事を書いたのです。

 行動のこういう傾向を仏法では宿習とも余習とも言い、心理的には余残気分です。唯識説では薫習種子と呼んで、第八アラヤ識(蔵識)を出入する厄介者扱いにしています。この思惑は、前業が凝固まってその人にこびり着いてしまったもので、当人に取っては、何度でも繰返して出て来る事に成ります。本人が、俺は思惑熾盛なのだ・と常に反省自覚しない限り、自己の思惑は退治出来ません。この反省が仏道修行というものです。

 文の前後事情や時代の事情背景に就いてですが、<仏法は理論と事実とを分けない>というのは、こういう所にその大事さが出て来ている・と思います。

 そうです。その上で下半偈に入るべきなのですが、天親の「涅槃経本無今有偈論」には、下半偈に関して

 「若し能(よ)く未来をして応(まさ)に法を生ずべくして而も生ずるを得ざらしむるは――ここ迄が因行――乃(すなわ)ち楽と為すべきのみ――ここが果徳。最初からここ迄が修行論。これから後の文は約智約教〔境ではない〕解釈――寂滅為楽とは即ち其の義なり、後の一句は涅槃――智法の果徳――を弁ず、是れ無為法――智法所得の・智法という自然境法――なるが故に常住なり」

と説き、能弁(わきまえる)の智を以って所弁(わきまえられる)の自然法を示した約智約教解釈をしておりますが、これは、阿含以来の伝統義ではこうなるぞ・と示しているのです。この釈は正しいし、実教義と衝突もしていませんが、さりとて実教義が現れている訳でもありません。


トップへ戻る ●目次へ ●←前ページへ ●次ページへ⇒
inserted by FC2 system