(6)論理学論理との違い―― その二

 論理を対象から切離した・とはどういう事ですか。そこが四句と論理との第二の違いだ・と今・言われましたが……

 論理学というものは、思考心理学の様に<認識の事実>を研究するのではなくて<認識の妥当性>を研究するのが目的ですから、この学の不定人称の形式記号式というものは、可能的には相応しい何事をも正しく表現出来るが、現実にはまだ何事をも表現していない状態に置かれている訳です。この事は数学の方程式を考えてみれば直ぐ判ります。そこで、形式論理は、現実の認識事実から・詰り対象から・切離されている訳です。

 空は非有非無と表現されますが、仏法では何物何事かに就いて空なりと判断しますから、これは対象から切離されてはいません。然し説明して「空は非有非無なり」と言う場合は対象から切離されています。メタ言語化しています。非有非無は空の形式表現として<対象から切離された状態での説明>に成ります。空という判断事態の形式説明に成ります。

 そういう事です。空や中に就いてのそこの所を調べてみよう・というのがこの章での目標です。この事はさて置いて、因明というインド論理学に就いて「形式化が未発達だった」と言われていますが、確かにそうなのですが、この事も<事実と理論とをなるべく分けない>というインド古来の諸学の・特に仏法での伝統の然らしむる所でもあったのです。

 形式化という事に就いては、四句分別の場合それが一層顕著で、四句の列挙・羅列以外に形式化は何も見られません。

 形式化に就いては、四句分別は形式化が未発達・というよりも、現実と論法との両方へ跨っている事それ自体が四句分別の特徴だったのです。仏法の場合は<論法であると同時に生(なま)の事実の指摘>で<直接把捉のレンマ>なのです。両方を兼備えている訳です。又形式化を進め様としても・四句を列挙する以外には・原理上出来ない筈です。

 仏法の場合、論法と事実とが切離されずに一つに成っている事を、観察した諸行無常から考察を進めて<縁起→無自性→空>と展開する仏法の基本的な反省認識の中に指摘する事が出来るでしょうか。

 出来る・と思います。まず事(こと)の基本から説明して参ります。<縁起>は仏法の出発点であり大枠でして、大枠としては小・大・権・迹・本・文底、悉く縁起法門でない法門は有りません。一切法皆縁起法でして、そうでない諸法など有得ません。縁起しない法は無く、妙法も又縁起している訳です。

 それは昔から既に仏教としては常識に成っている事です。この常識が無ければ仏教徒とは言えません。

 <縁起>は推理知識(比量)ですから、何を推理したか・という源が有ります。詰り出発点たる感覚知識としての現量が有ります。それは<一切諸法は変る>という事、<諸行無常>という事です。ですから論じられる主語は<諸行>で、述部が<無常−縁起−無自性−空>なのですが、一般に、主語を省略し最初の<現量>(無常)も省略して、<縁起−無白性−空>と示している訳です。述部の<比量と思量>という<諦>(俗諦と真諦)だけを示したのです。

 諦(サトヤ・真理)だけを示したのだ・という認識は、案外に見逃され易い所だ・と思います。

 私が「無常−縁起−無自性−空」と述べた所、或る教授は「無常からはストレートに縁起−無自性−空は出て来ない」という御意見でしたが、その御真意はどうも私には判りません。必然的に出て来ないと可怪しい・と思うのですが……。

 寧ろ本来は<諸行は、無常−緯起−無自性−空−中>なのですが、竜樹の中観派の般若部での学説なので<中>を省略し、最初の現量も省略して<縁起−無自性−空>と述べるに留まっているのです。意味する所は「<縁起−無自性−空>の全体で中道だ」という事です。中道論なのです。八不がその儘中道である・という竜樹の主張が、アビダルマ有部や外道向けに「縁起−無自性−空」と述べられたのです。本来は、空でストップしてしまっては何にも成りません。破折だからストップしたのです。

 空は仏法の初門です。仏法は空から始る・と言われます。空だけならば声聞ばかりでなく独覚でも分々に会得出来ます。然し「二乗・菩薩は空病なり」(『止観』)で、空見の穴へ堕ちて沈空盡滅という結果に成るのは、空から先へ進んで中道へ入らないからです。これは悪取空に成ります。

 外道と内道とでは世界認識に大差が有ります。外道ならば主語対象を観察して<個在−実体(本質=自性)−真実在>と考えた所を、仏法では<縁起−無自性−空>と述べているのです。個在を破して縁起を述べ「それは縁起体(仮有)にすぎないではないか」と訂正を要求している訳です。自性(スヴァブハーヴァ=本質・実体)を破して「無自性だ、そうではないか」と反省を促しているのです。「真実在など有るものか、空だ」と外道の見惑を打破して「目を覚せ」と言っているのです。

 論じられた時の時代背景や相手に思いを致さないと、無味乾燥な理屈だけの話に成ってしまいますね。切離しは危険千万……。

 そうなのです。外道の思想と仏法の悟りとを較べてみれば次の様に成ります。

 主語存在−個在−自性(本質・実体)−真実在………外道

 無常諸行−縁起−無自性――――――空……………仏法

ここが<内外相対>上・決定的に異る所です。主語の無常諸行……詰り諸行無常は現量、縁起と無自性とは比量ですから、<縁起−無自性>は・外道に対すれば仏法ではあっても、仏法のなかから見返してみると、実はこれは唯の<俗諦>にすぎないのです。詰り、外道と仏法とは、<俗諦>に於いて既に決定的に真相把握・見解が分れていたのです。<−空>迄来て初めて仏法だ・という事に成ります。何故なら外道の無や空(悪取空)とは違って、仏法の空は反省判断の思量だからです。仏徒でも否定性だけに拘泥れば悪取空に成ります。

 <無常−縁起−無自性−空>を説明してみると、無常は現量・縁起は比量・無自性も比量・空は思量で、知識としては<現量−比量−比量−思量>という事ですね。

 詰り・知識としては、縁起は理因、無常は理果です。これで判る通りに<縁起の故に無常>なのであって、<無常の故に縁起>なのではありません。理運上、客観上の存在事態は<縁起→無常>と現れていて、これを経験→理解の時は<無常→縁起>と悟って行く・という事です。然も<無常−縁起−無自性>は現量と比量との繋がりであって、一括して<メタ現量>な訳です。

 してみると、<無常−縁起−無自性−空>は<メタ現量−空>を言っているのであって「一切法皆空」と同じ事ですね。いきなり<縁起−無自性−空>では出発点不明という事に成らざるを得ません。それなのに出発点を省略したのは<諦>だけを述べたからなのですね。

 そうです。無常を比量しても悟りは生れない道理でして、それを・空なり・と思量して始めて仏法が成立します。無常−縁起−無自性・迄は俗諦、次の空が真諦。俗諦から真諦へ、俗諦→真諦というコースで仏法が成立します。そこが<縁起−無自性−空−中>で、省略して<縁起−無自性−空>と述べられたのです。この三つ全体で中道です。

 その点は判りました。私が提起した問題は「論法と事実とが切離されずに一つに成っている事を、縁起−無自性−空・のなかに指摘出来るか」という事です。

 それは次の様に成っているのですが、もう少し寄道をしなくては成りません。釈尊の場合、一番最初に、阿含部からして「諸行は無常なり、是れ、生じては滅する法なり」と始りますが、この現量は万人誰に取っても共通で、直接に「諸行は常住なり、是れ、生ぜず滅せざる法なり」と<感覚する>事は、神様でもバケモノでも出来ません。

 ですから「諸行無常是生滅法」は、これは仏様としても悟りではなく、現実の世界がそう成っているので、事実に対する一般的な認識の端的な表明にすぎません。万人共通の認識であって、俗人・外道・釈尊・そして後世の子々孫々・洋の東西を問わず<不変の事実・共通の認識>です。これは<仮>(眞なる虚妄仮)です。

 人の対話というものはこうした<共通項への同意>に拠ってのみ可能になります。そこにこの句の大切さが有るのだ・と思います。それなのにまず・句の読違え・が多いです。

 人間が経験し得る世界の現実を端的に見詰めてみれば、「変るべからず」と梵釈が命令しようとも諸行(諸法)は必ず変り、常無いのであって、無常ならざる物事は無い・と言うので、これは、仏法は何も入っていない俗諦です。変る諸行の因縁仮和合が<生>・因縁離散が<滅>という事です。

 「諸法は現量に如かず」 (諸法を知るに就いては現量がまず優先する)と言う通り、「諸行無常」は現量で「是生滅法」は一般法則を直接に推理把捉した比量です。個々の行の個々の生や個々の滅を感覚した現量ではない訳です。ですから以上の上半偈で俗諦を形成していて六道の<虚妄仮>です。後に双照されれば・仏界体内の何界か・という仮諦に成ります。仮は必ず十界で、ここでの虚妄仮は六道・仮諦は仏界です。

 次の下半偈に成って初めて仏法に成ります。阿含部のそれも全く同じなのですが 『涅槃経』の文で言うならば、以下の・詰り・「生滅滅己(空)寂滅為楽(中)」は、分別としての思量・と無分別です。「生滅減己寂滅」迄が二重反省に由る<因行>、「為楽」は<果徳>です。雪山童子は、真諦である下半偈(空諦と中諦)を求める為に一身を賭けたのです。


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