(5)論理学論理との違い―― その一

 ここ迄来ますと・大学で習った論理学では手が届かない事に成ります。そこの所をこれから解明して行かなければ成りませんが、まず、四句分別と論理学論理とでは・基本的に何処が違うのでしょうか。

 それは二つ在るのです。その第一は、論理学論理は世俗の通常の学問の枠内に在る・という事です。仏法でも確かに四句の第一と第二レンマとの<無>と<有>とで<世俗>を論じておりますが、でもこれは<勝義>へ導いて行く前段階・準備段階としてなのです。

 序でながら、世俗(純世俗と俗諦)に非ざる義・サトヤ・悟り・真理を、<勝義>とも<真諦>とも<第一義諦>とも言いますが、真諦と言うと、権・迹・本・文底と深まる<究極の第一義諦>(中道第一義諦――然もこれにも四重に浅深の区別が有る)と間違えてしまう事も有るので、この章の対話では、単に<世俗対仏法>という大枠のものとして<勝義>の方を使って行きたい・と思います。勝義は天親の『アビダルマ倶舎論』の漢訳以来使い出したそうてすが、それはそれとして勘弁して貰いましょう。

 勝義・真諦・第一義諦・は、サンスクリットの同一原語に対する漢訳が分れただけ・だそうです。四句分別の第一と第二との<無と有>は世俗を論じた場合で、この範囲に於いては東西一般の諸哲学とほぼ合致する訳で、一般の哲学からの批判はそこ迄は届くけれども、その先には届かない事に成りますね。

 第一と第二とが世俗・第三と第四とが勝義・と成りますが、仏法に於ける<有・無>は、主に第一、第二レンマの<無と有>なのではなくて、主として、それを踏まえた上での第三・第四レンマの<有・無>なのです。この有・無・は、叙述の肯定否定とも違った反省の肯定否定の意で、存在判断の<有・無(…が有る・…が無い)ではありません。

 という事は、有の裏に無が・無の裏に有が・付いているのです。この点は叙述でも反省でも共通しますが、更にその上に、反省把握の重層有・重層無なのです。第一・第二レンマ・の世俗の<無と有>では、本来有るべきその裏付への自覚が欠けている訳です。言わば月に対する月影……池月の様なもので<正体無き判断>と言わざるを得ません。だから<仮りの有>(仮有)と言い、世俗(俗諦)は<虚妄>と言われたのです。<一番低級な分別虚妄>です。

 「世間虚仮・唯仏是真」の<虚仮>ですね。現量も比量も<虚仮>です。単なる存在判断・感覚知・詰り・現量は仮有であって、<その存在判断は果たして正しいかどうか>の検証はまだ加えられていません。そこで叙述で検証し――検証後の比量もまだ虚仮である――正分別ならば更にこれを第三・第四レンマで反省し内観して行く・という事に成りますが……。

 論理学での非有は無に一義決定してしまいます。所が反省論法では非有は・無か空か中か・の三通りで、そのどれなのか・は文の論脈で選ぶ必要が有ります。普通の論理学論理なら「非有非無」と言って最初の有(a)を否定し更にその否定を否定すれば、二重否定の結果は最初の有(a)を肯定する事に戻ります。だが反省の四句分別では違うのです。二重否定をしても最初の有(a)へは戻らないのです。反省としての重層有の有(A)へ行ってしまうのです。

 有(a)は虚妄有・有(A)は建立有です。この有(a)と有(A)とは当体は一つで、前者は現量・後者は思量です。然も当体の置かれている<脈絡の状況>が違っているのです。世俗と勝義という<心の脈絡>の舞台が違っているのです。

 脈絡の話は前章「仏法と論理学」でも少しは出ましたが、<心の脈絡>の状況が違う・とはどういう事ですか。

 結果から一口に言えば、有(a)は九界の感覚知存在として仮立して有り・有(A)は反省後に仏界の知の対境として存立して有る・という事です。<美醜や苦楽や嬉しい悲しい・淨穢・快不快・尊卑・聖俗・……>といった感覚は、眼耳鼻舌身に拠る前五識の肉身感覚ではない訳で、意根の奥に属する法感覚な訳です。

 これを<心の脈絡の感覚>と言い、「冷い世間で人情が身に染みた」と言うのは、本当は人情が<身の触感覚>に染みたのではなくて・心(意根)の<脈絡の法感覚>に染みた訳です。「身に染みてしみじみ有難味を感じた」というのも、有難味を意根の<脈絡の法感覚>に感じた訳です。

 九界・仏界も感覚面から言えば脈絡法感覚な訳です。<在る法>に即した<知る法>な訳です。この脈絡感覚に思想性が絡付いて融合っているのが思量の特徴です。現量仮有はその対境を為しているのです。十界を知る対境・という事です。

 但・思量なら何でも好いのだ・という訳には参りません。思量にも仏界の方(かた)の思量から地獄界の人の思量迄十種類有ります。凡夫がマイナスに思量すると地獄界を得てしまったり、三悪四悪趣を現じてしまいます。

 四条抄に「釈迦仏と法華経の文字はかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあ(会)ひ進(まい)らせたりとおぼしめすべし」と教えられています。菩薩界の人に対して、思量量知に由る勝義覚了を教えて居られるのです。

 思量の内でも「釈迦仏を……或いは悪人は敵と見る」……こういう酷いのも在ります。これは地獄界の衆生の思量です。こういう思量は、次の機会には、その人には再び反射的に現量として噴出し現前します。

 大体以上の様でして、九界は現量(或いは比量)の儘で迷い、縦(よ)しんば思量しても迷いです。仏界は思量仮でこれは双照建立されていて悟りです。九・仏は六根→六識の法感覚に大差が有るのです。現量は誰に取っても事実ではあるが、当人に取ってさえも決して真実ではないのです。虚仮です。虚妄です。

 現量仮有は・単なる事実・であって真実ではない。では真実は何か・という事に成ると・世俗では比量に真実を求めます。デカルトもそうしました。世俗の真実は比量止まりが大半で、これが俗諦という世法の悟りに成っています。然し、これに不足を感じて思量に真実を求める哲学……例えば<生の哲学>なども在りますし、キリスト教もそうだ・と思います。でも彼等のは、本当は思量ではなくて情量です。

 一般に、宗教や倫理や<美学>と称する態度などは皆そうだ・と思います。

 <状況の違い>とは、結局は九界と仏界との違い・という事に成る訳ですね。有(a)を対境として仏界を会得するには、否定に否定を重ねないと有(A)へは行けない。九界が闇雲に否定をすると有(A 1A9)へ行く……。

 その否定は、論理学的な推理上の横型での否定ではなくて、反省としての縦型での否定です。その様に反省の否定を重ねて行くと次の様に成ります。

 最初の有(a)は感覚で知った縁起現量仮有の有。この有を二重否定(双遮)と二重肯定(双照)という四個の否定を経た結果の有は、反省量としての思量有(A)という重層有へ行く・という事です。

 これが仮諦という悟りです。現量の儘では<虚妄仮>であって<諦>ではありません。比量量知してもこれは俗諦であって仮諦ではありません。この<現量→思量>という反省路線では、<現量・待・思量>の相待関係は、横型ではなくて縦型に成っておりますから、これは<縦型縁起>な訳です。

 有(a)と有(A)とは何処迄も一法なのだが、有(a)は現量・有(A)は思量だ・という事に成りますと、<沙羅の四見・や御本尊の現量と思量>の話を想出して貰えば良い・と思います。

 御本尊は、現量は<紙と墨文字>、比量は<七字の題目と十界の列衆>、ここ迄は万人共通で、思量は<十界の衆生毎に分れる>訳です。

 仏 界の方の思量では<久遠無作報身如来>

 菩薩界の人の思量では<尊過無上の無量法門>

 二乗界の人の思量では<理空存在>

 天 界の人の思量では<無色(しき)有色(無色にして有色)の嬉しい宝集>

 人 界の人の思量なら<神秘的で何となく有難そうなもの>

 修羅界の人の思量では<何となく腹立たしく煙たいが軽蔑すべきもの>

 餓鬼界の人の思量では<何でも好いから何か授けて欲しいもの>

 畜生界の人の思量では<見当も付かない(痴)ものだが恐ろしく怖いもの>

 地獄界の人の思量では<むらむらと怒りが込上げて来て破り捨てたいもの>

ざっとこんなものでしょう、上品の十悪が地獄・中品の十悪が畜生・下品の十悪が餓鬼・下品の善心は修羅・中品の善心は人・上品の善心は天・以上が六道輪廻の衆生です。あとは四聖です。現量や比量と思量との違い……有(a)と有(A)との違いをこれで会得して貰いたい・と思います。

 仮有は、非有非無を通じた先では、有の当体は一つでも、脈絡結果が違って別体の様に成るのですね。

 例えば、同じ御飯でも茶碗に盛って食膳に出せば人が食べられますけれども、残飯ポリバケツに入れてしまえば豚の餌にしか成りません。この様に、有(a)と有(A)とは、当体は全く同じでも使用の用途・役割が違ってしまいます。何かそんな風な違い目を生ずるのです。<亦無亦有>の二重肯定の場合でも同じ事です。

 以上の様に、直接把握のレンマ法である自覚の為の反省の縦型四句分別は、思考認識の論理学理法とはまるで違うのです。論理学公式(同一律・矛盾律・排中律)が当嵌まらないのです。何故か・と言うと、思量は比量ではないからです。

 そこで、<勝義>に就いて、無・不・非・否・等と否定の言葉がいっぱい附いた文章が並んで来る事に成りますね。この・否定の連続・という事から、西洋の(そして日本の)或る仏教学者・哲学者達は、四句分別も弁証法や帰謬法の応用の一種ではないか・と見たのでしょう。『中論』もそうですが、天台の『止観』も、弁証法や形式論理学で判断したのでは、見当も付かなく成ってしまいますね。

 そうです。『中論』も『止観』も<四句百非>で否定に否定を重ねて見せますが、だからと言っても弁証法ではないし、その否定は、反省させる為に行っているのであって、蹴飛ばして見捨る為に否定しているのではないのです。拒絶否定ではなく抱擁否定です。

 盛んに四句分別が使われていますが、これは帰謬法でも演繹法でも弁証法でもないのです。四句分別の反省論法を根幹にして、その内容を表現し叙述化するに就いて、帰謬法とか・類推法(これは多い)とか・弁証法とか・演繹法などが使われて、これが文面としては目立つのです。

 この四句分別と論理学論理とのもう一つの大きな違いは、<四句分別の非形式化・論理学論理の形式化>という点です。四句分別の形式化は基本のそれ以外は後全く見当りません。形式化という事は、論ずべき対象から論理を切離した・という事です。


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