(4)レンマを繋ぐ否定関係

 以上の視点を踏まえて、四句分別を反省自覚用のものとして、縦型に整理し直してみるとどう成りましょうか。

 昔からそう使って来た様に、叙述用に模型に用いるのならば既存の儘――『宗鏡録』に出ている通り――で好い訳です。詰り

1に 有   2に 無    3に 亦有亦無   4に 非有非無

で良い訳です。所が自覚の為に反省用として縦型に使おう・とすると整理し直さなければ成りません。そこで・これは私見に成りますが、次の様な三句論式に整理すれば、立派な論式として使用出来るし、又寧ろこの方が道理に合うし、判り易くはないでしょうか。

順序・内容

在り方の型

表現形式

種別

対応事態

無・有

無か・有で・ある

選言

世俗(仮)

非有非無

有でもなく無でもない

連言

勝義(空)

亦無亦有

有でもあり無でもある

連言

勝義(中)

〔一の無・有・の選言は、世俗の生活無分別(現量)を取るか分別(比量→メタ現量を取るか・という選言〕

そして問題は・ここから更に整理を進めて行けば良い訳です。第一句と第二句とを入替え、更に第三句・第四句の順序を入替え、更に新第四句は元の上下を入替えて在ります。これから以後はレンマのナンバーは全て新ナンバーを用いて参ります。これを四句論式に書直せば次の様に成ります。まず迷蒙無分別の否定から始ります。

1.無   (無である)無分別を否定……否定   (未観) 量計

2.有   (有である)分 別を肯定……肯定   (未観) 現量

3.非有非無(有でもなく無でもない)……両否定・双遮(内観) 思量

4.亦無亦有(無でもあり有でもある)……両肯定・双照(内観) 思量

 新しい第三レンマですが、応用は別として、基本的には<同時>に<有でもなく無でもない>でしょう。同時ならば、叙述では<無でもなく有でもない>と言っても全く同じ事に成り、こういう表現も成立するのではないか・という疑問も出て来そうです。

 今の二つは指示する論理的順序の点でやはり異ります。<非無非有>は反省としても立派に成立しますが、成立する事と・それが何事であるか・とに就いては後述します。まず<非有非無>から申し上げます。

 前に挙げました『無量義経』「徳行品第一」の偈ですが、冒頭に、仏の「其の身は」と主語を立てた以上は<有>です。<無>い主語は立てられません。そうして置いて「有に非ず亦無にも非ず」と言って<有>の方を先に否定(理反省行)しているのです。その否定された<有>(法感覚有)というものは、単なる世俗の<単純有>(仮有)です。次に否定された<無>も又世俗の<単純無>(仮無)です。単純無を否定したこの「非」も反省行為です。教理を反省した判断です。

 所が、順序を逆にして「其の身は無に非ず」と言って、いきなり有論へ入って好いのでしょうか。これではアビダルマの有論への逆戻りになるでしょう。「其の身は」と掲げた以上は兎に角まず<有論>でしょう。尚且つ「其の身は無に非ず」と言ったらトートロジー(同義反覆)で、二重に有論を立てる事に成って可怪しく成ってしまいます。同じ理由で、この偈の結論も<有>(重層有・肯定)で「……に非ざる種種色なり」の筈です。

 何を論ずるにせよ、文の主語になる主語的対象というものを経験的に立てる以上は、これは世俗の<有>(感覚認知・肯定)と成りますね。

 ですから、仏の内証法身は、世俗の現量の<有>ではないぞ・という事で「有に非ず」と言って否定して掛からなければ成らないのです。この意味で「有に非ず」が先に成らないといけないのです。

 然しながら世俗で考えている<比量の無>でもない。この「有に非ず亦無にも非ず」という判断を<空>と名付ける・という事に成るのです。不定人称の演繹論理ならば、有に非ず・は無に成りますが、自覚の反省論式では、そうではないぞ・無でもないぞ・と示すのです。

 今度は、第四レンマの亦有と亦無との先後関係に就いて、前と同様にして、<無でもあり有でもある>又その順序を逆にした<有でもあり無でもある>のいづれの表現でも、全等で、良いのではないか・という疑問が生じます。叙述では全等に成る筈です。

 この一句だけならそういう疑問も出るでしょうが、四つの反省連句として成立っているのですからそうは成りません。例えば、因果倶時ならば果因倶時と言えるでしょうか。倶時ではあっても、事象上そして論理構造上、因が先で、果は後です。この事を踏まえた上では<亦無亦有>も<亦有亦無>も成立します。<亦有亦無>が何事であるか・はこれ又後述します。

 それでも『止観』を見た限りでは、「正観章・第四破法遍」では、盛んに<亦有亦無>という順序で使われていますが……。

 叙述に用いているからそれで良いのです。反省の四つの連句として使う場合は、論法構造上、<無でもあり>が先でないといけません。そうでないと、<従空入仮>の意味がはっきりしません。空から再び仮へ照入(しょうにゅう)して「有でもあるぞ無でもあるぞ」と言っても、これでは空から出た事に成らないし、何の説明の発展も引出せないでしょう。

 無でもあるが(従空)と断(ことわ)って、然る後に、有でもあるぞ・と<再反省有の有論>を展開する(入仮)のでなくては、何の説明展開も出来ません。化導は<反省有論>に立ってだけしか可能に成りません。ですから<有でもある>が後です。<亦有亦無>ですと<空の双照レンマ>(後述)でしかないのです。

 四つの連句を構造的に繋いでいる否定関係に注目すれば、第三レンマに於ける<非有>と<非無>との先後関係・又これに続く第四レンマの<亦無>と<亦有>との先後関係・がはっきりして来ますね。

 その辺がはっきりしない人は、全て・事態を道理に法(のっと)って考えないからなのです。詰りは自己の信仰に対して真剣でないからはっきりしないのです。

 第三レンマと第四レンマとを「しこうして」と繋いでみれば好いのです。<「有でもなく無でもない」しこうして「無でもあり有でもある」>と成ります。だからこういう事なのです。(0)をオリジンO(オー)として

(0)有  (存在判断・現量)……世俗有の仮立―― 仮

(1)非有 (有でもなく)…………(0) の 否定―_

(2)非無 (無でもない)…………(1) の 否定―― 空

(3)亦無 (無でもあり)…………(2) の 否定―_

(4)亦有 (有でもある)…………(3) の 否定―― 中

 ((1)の<(0)の否定>は叙述否定を含んだ反省否定。(2)(3)(4)の<(1)の否定・(2)の否定・(3)の否定>は反省否定)

以上の様に成ります。これが分別(反省分別)の内容です。(3)と(4)とは形の上では肯定形ですが、能く・前句の後半及びこの二句・の繋がりを見ると<否定>で繋っているのです。この面から言うと仏法の四句分別は徹底した<否定の論法>です。横型の場合でもそうです。だから<否定弁証法>と混同され易いのです。

 「非ず・非ず・非ず……」と・ずうっと否定に否定を重ねて・最後に出て来る<肯定>(最後の重層有)は<仮→空→中→空→仮>の<妙法>なのです。<四句百非>というのはこれなのです。然もこの<否定>は叙述上のそれではなくて、反省行為としての否定なのです。思量上の否定です。

 然も九界に属する否定――九界の衆生が行う反省としての否定行為――ではなくて、仏界に属する、仏様だけの思量・としての否定行為であって、衆生には、その事を唯信じて真似する以外には、実現不可能なのです。衆生が指針(仏の教え)も持たずに闇雲に反省すると<天界>へ行ったり、良くても<独覚>へ行くだけに成ってしまいます。ですから仏法では・無教の行・は誡められています。

 してみると直ぐ判る様に、上の(0)〜(4)の表は横に書並べはしましたが、これは正しくは縦型に書貫ねるべきものです。(0)〜(4)の表は縦型縁起法に由る縦型反省法だったのです。そこから下の仮空中の表を整理してみると次の様に成ります。表としては横型に書くしか有りませんが、言うも無く機能は縦型縁起反省法です。

0)有 (感覚受容に依る現量仮有の単純肯定)…………………………………虚妄仮―――――仮

1)非有(反省内容=遮破=現量をその儘真実有として認める事は出来ない)……(0)の反省否定―_

2)非無(反省内容=遮破=真実有ではないが真無と認める訳には行かない)……(1)の反省否定――空

3)亦無(反省内容=照立=真無と認めないだけでは事態は尽きない。

       事態の尽きない否定は更に反省され否定されるべきである)………………2)の反省否定―_

4)亦有(反省内容=照立=事態の尽きない否定も反省され否定されたら、

       更に反省して再生の肯定に判断の終局を求めるべきである)…建立仮―(3)の反省否定――中

以上から次の様に成って来ます。

  有→亦有=虚妄仮 ―――→建立仮…………………仮 ――

  非有非無=双遮・破=非反省肯定非反省否定………空 ―― |―― 円融三諦

  亦無亦有=双照・立=亦反省否定亦反省肯定………中 ――

以上の様に(仏様の)思量である建立仮・建立空・建立中・の三つで円融三諦が組立てられます。

 これを行の上で追及し体現しよう・というのが円融頓悟の大止観行……<円頓止観>という大禅定行なのです。これが天台大師の極意・出世の本懐なのですが、今の我々には立行として修行上体得する事は不可能です。

 然し<事の一念三千>の説明・事行の下種妙法の<理合(りあい)>として・智解・理解する事は充分に出来ます。理解しないと下種妙法が存在論に成ったり実体論に成ってしまったり……現に過半がそう――信而不解に――成ってしまって居り、甚だ憂うべく恐るべき事です。この事は下種妙法を六師外道法のなかへ摧尊入卑してしまう大非法で、口に妙法を唱え掲げながら実際は六師の法を広める事なのです。内外一致の邪義大悪法に成ってしまいます。


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