(3)非有非無(空)から非空非有・亦無亦有(中)の帰結へ

 単に<重層有・重層無>と言うと、必ず、叙述判断としての・論理学論理の<肯定・否定>の話だ・と受取られる・と思います。詰り「肯定の裏には必ず否定が付いており・否定の真には必ず肯定が付纏っているものだ。相対性のものだ」という話だ・と受取られる・と思います。説明して置かないと誤解される事は必至です。

 それでは困ります。反省が重々に深く累(かさ・重)なって行くから<重層無>に成り、自覚が重々に深まって行くから<重層有>に成るのです。思量の否定・肯定は、比量の否定・肯定とは全く内容が違っているのです。論理学の同一律及び矛盾律・排中律とは関わりの無い舞台・関わりの無い脈絡の中で使われているのです。縦累の有・無です。

 詰り反省判断での否定・肯定は、同一律や排中律・果ては矛盾律・の束縛を全く受けない性格の否定肯定な訳で、この事を理解するのが大変に困難なのです。この事を理解するには、理論で考えるよりも事例で会得し理解した方が早い・のではないでしょうか。

 前には思量の事例として<沙羅の四見>を取上げました。沙羅林(林土)は現量では青々としている林土、比量では樹木の集りと土地その他の客観的な条件、思量では観者の果報毎に穢土・方便土・実報土・寂光土と分れた……という話でした。

 四土は<不一不異>で四土一土な訳です。これならば思量は同一律・矛盾律・排中律の支配を全く受けていない事が判るでしょう。然も反理でも背理でも詭弁でもなくて正理(ユクティ・ニャーヤ)なのです。「我(日蓮)が如く正理を修行し給え」です。叙述判断の正理以上の正理です。

 判ります。そういう有・無・ならば仏法の<有・無>には特別な注意が必要に成ります。<不一不異=同一でもなければ異りもしない>という事は既に<AAである>という同一律の支配を全く受けていない事を示しています。あとの二律に就いても同様です。

 確かに、仏法のなかには<有>とか<無>とかいう喧(やかま)しい議論がいっぱい在る訳です。けれども、現に仏様という方が居て、この方が色々と言説をしたり・説法をして、その通りに修行せよ・と言って、そこに菩提・涅槃・悟り・が有ります。仮りに<無>を悟ったとしてもこの悟り自体は<有>です。又出発点としてその基盤となる世俗(世法・生活)というものが在ります。これも<有>です。

 ですから、仏法としてこの面から見た場合、論理にせよ反省にせよ、まず分別の<有>から出発し て、当然・或る意義・或る意味・或る色合・の<有>という事が最終の結論に成らざるを得ません。この事は純世法でも仏法でも同様です。論理も反省も必ず<有に始り有で終り>ます。<無>で終れば安息所(安心して拠り止どまれる所。依止所)詰り最終的肯定局面が無く成って「虚無化してししまいます。 「定んで無なるは妄なり」(『止観』)です。

 という事は、四句分別で言えば、山内教授の主張通りに第三・第四を入替えて、新しく第四番目になる所の<亦有亦無>(有でもあり無でもある)が結論に成る・という事ですね。然も第四句のなかはまだ<無>が後に成っているから、これも前後を入替えて<亦無亦有>としなければ論法としての筋が通らない・という事ですね。

 そうです。<非有非無=有でもなく無でもない>という<空>が帰結に成る訳でまなく、<空>は途中なのです。だが、<中>という帰結が出る為には、帰結に至る迄迄の道程・道筋が必要でしょう。その道筋として説かれる部分が<空>詰り<有でもなく無でもない>というレンマなのです。

 そうすると、理論的に考え直せば、山内教授が・三番目と四番目との順序を引繰返すべきだ・と言うのは当然の事だ・と思います。

 第二句の<無>でまず生活無分別を否定して分別に入り、初め仮の有(第二から出発して空(第三……元は第四)を説明し、次にこの空(第三……元は第四)に拠って中(第四……元は第三)が説明可能に成るのですから<仮→空→中>の順序にレンマが整理されるべきで、山内さんの主張はこの観点からして筋が通っているのです。

 『法華経』の方から見て、その事が端的に、一番良く出ているのが『無量義経』「徳行品第一の偈・と言っても好いでしょうね。

 そこでは<法身の体>を説いて

 「大なる哉大悟大聖主」

 と在って、内証の法身の体を

 「其の身は」(智法内の境法の面)

 と、まず立てているでしょう。これは<有>なのです。有なのだけれども唯の有ではない訳です。だ から、一番最初に

 「其の身は有に非ず」

 から始って、その次に

 「亦無にも非ず」

と言っています。これは二つで<非有非無=空>を現すレンマです。それから次に、円融仏の法身は本来・無分別体で、因果法そのものではないのですから

 「因に非ず縁に非ず」

と説いています。これは、因とか縁とかの各支が実体ではない事と、各支が独自に勝手に働くもので はない事を示し、<縁起>を現しています。法身は所顕法・因果は能顕法・でして、仏の法身自体は 単なる<因>や<縁>ではない。「体は即ち因(因と縁との合称)に非ず果に非ず…因果に非ずと雖も因果によって顕る」(『止観』)でして、中道の法身は<在る法>ではなく<知る法>としての自然法 (じねんぼう)の身なのです。因果法で<知る>べき・自然法爾の仏身・な訳です。詰り非因非果中道 の法身なのです。そして次に

  「自他に非ず」

と述べているのです。「自他でもない」というのは、自身(自の実体身)でも他身(他の実体身)でもな い・そういうプドガラ(後述)的な個在ではない・更に他人の法身の理とは全く別な特殊な法身でもない(理は自他共通無区別)・という事で、もっと更には分別をし尽くした無分別の境涯を指しています。分別をし尽くして無分別へ入った寂照の境涯、そこには自他は無いです。分別は無いです。分別上でだけ・自は他に即してのみ有ります。他も自に即してのみ有ります。後は

  「方に非ず円に非ず短長に非ず

  出に非ず没に非ず生滅に非ず………………………。」

と色々「非ず」が続き、今度は他の色(いろ)を言って、更に<四句百非>の手続を進め

 「青に非ず黄に非ず赤白に非ず紅に非ず紫に非ずして種種色たり」

と結んでいます。現存の経文和訓は「紅に非ず紫種種の色に非ず」と読ませていますが、これは恐らく和訓の際の読違えだろう・と思うのです。これでは切角<法身の体>を説きながら、結論が無くて、「四句百非安息所無し」という事に成らざるを得ません。

 文が否定だけで終って最終肯定が文面から欠けていたら「定んで無なるは妄なり」(『止観』)でして、これは国会での首相の所信表明演説が途中で打切られて・その儘にされてしまった様なものです。文の全部の意図が全て失われてしまいます。

 ですから本文は「紫に非ず(して)」と来てその次に「種々色たり」と来るのが本当で、「種種色」だけ<非ず>は附かないのではないか・と思うのです。この真訓両読経の後の方の「普賢経」の和訓はもっと目茶苦茶ですし、この事に照らしてみても、ここの和訓は誤りだ・と思います。「種種色」だけ<非ず>は附かない筈です。法身色は非色色です。

 少なくとも文意……文の元意に於いてはそうである筈です。そうでないと中道法身の体が説かれない儘に終ってしまいます。「……紫に非ずして種種色たり」か「紫にも非ざる種種色なり」かでないと文も完結しないし意味も失われてしまいます。

 「徳行品」のこの後にも、法身の説明を完結する文章は在りませんでした。

 要するにこの文は、爾前の単法身を説いているのではなくて、実教の中道理法身を説いているのですから、双遮(破=遮遣)の面では否定表現を取り、双照(立=建立)の面では肯定表現を取る事に成る訳で、「青黄赤白等の種々色のなかの個々色には非ずして(破)然もそれら種々色の個々の色を現ずる(立)」と言うのでないと文意が通りません。そうでないと<非色の色>には成りません。

 結論が否定で終るのでは、話を途中で中断し・且つ・放棄した事に成り、文章が文章に成りません。若干の意義の方は残るにしても<意味>の方は全部無く成ります。前迄・最初迄遡及して全て無く成ります。

 この様に、具体的な個々の色ではなくて然もそれらを現す・と言うのなら「一色一香(境)無非中道(智)」(境智法)などと道理がピタリ合うので、以上の様に読んでみました。浄穢色ではなくして迹せば浄色穢色を現す法身の中道無記色なら、結びは「種種色なり」でないと可怪しいです。非色色の元意から読むべきです。

 これはもう当然、世俗の議論ではなくて、勝義の・詰り・真諦の方の論ですね。

 ですから「徳行品」第一に「其の身は」と在る仏身というものは、単純な<有>ではないのです。無でなくて有である・という<単有>ではなく、無でもあり有でもある・という<重層有>なのです。

 という事は<無でもあり有でもある=亦無亦有>が帰結として<反省四句分別>(縦型縁起法)の最後に位置しなければ成らない事を示していますが、非常に微妙で、仲々判り難い所ですね。

 そうなのです。<空仮中の三諦>という点から言えば、この<亦無亦有=無でもあり有でもある>というのは、表現上では、中道の”モト(素)”でしょう。この”モト”という訳は、中道という事を理論的に説明出来る<言表の形式根拠>という事です。

 ですから、亦無亦有の無・有・は、単無・単有・ではなくて、重層無・重層有・詰り・重層否定・重層肯定・という事に成りましょう。この前提を抜きにして中道を論じても、恐らく、はっきりした中道観は出て来ないでしょう。中道というのは、理解の面としては実に厄介で難しいのです。

 中道は、<事法で示されて受取る場合>は別に厄介とも難しいとも思いません。行ずるに就いてもそうです。然し<理解しよう>とすると途端に困難に成ります。

 その訳は色々在るにせよ、重要な一つは、<反省という点へ思いが届かない>事に在ります。一般に、比量化して……比量詰り推理の線で捉えようとし、それしか方法は無い・と思込んでいるからです。この見思惑が邪魔をしているのです。そこで<現量→思量>という反省操作が在る事さえ判れば、その困難は段々ほぐれて来る・と思います。


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