(2)四句分別と山内得立氏の正論

 所で、四句分別を抑もの初めから整理してみたいのですが……。我々が最初に聞くのは、非有非無(空)の方だけですね。有と無とは四句以外にも在りますから……。

 大体そうです。四句分別そのものは、四論と言って仏教以前から用いられて来た過程では、その順序には拘泥(こだわ)っていなかった様です。詰り、一に有、二に無、は変りませんが、<両否>と<両肯>とが後に成ったり先に成ったりして、その順序は決っていなかった・様です。

 そして或る教授の説ですと、釈尊の時代迄来ると順序は決っていて・ほぼ竜樹の時代に成ると又決っていなかった・そうです。元々論理学を目指したものではないから、人に依って第三番目と第四番目とが逆転しているのです。そこで昔は一般に次の様に整理されていました。

 一、有     (肯定)

 二、無     (否定)

 三、亦有亦無 (有でもあり無でもある。両肯定・二重肯定)

 四、非有非無 (有でもなく無でもない。両否定・二重否定)

この四論及至四句分別のなかの<有・無>は、単に物事が有る無いの<…がある・…がない>ばかりではなくて、寧ろ「有る方が良い」「無い方が良い」という意欲から出発して遂には<肯定・否定>へ・と高まったものですから、論理としては、<有>は「…である」(肯定)・<無>は「…でない」(否定)・という叙述判断を表明する繋辞(コプラ)です。判断詞です。

 <亦(やく)>は<且つ>という接続詞で・コプラ共々論理語ですから、四句は<指示する実物をまだ持たない>形式論理としての<記号>(仮名)という事に成ります。要するに論法の形式記号の連鎖なのです。詰り・四句の中には<概念は一切含まれていない>訳です。四句はどれも<概念>を示すものではなくて<判断>であり、要するに繋辞の連鎖・判断の連鎖なのです。四句は<判断の四形式>なのです。

 山内得立氏(京大名誉教授)はその著『ロゴスとレンマ』の中で「四句分別の第三番目と第四番目との順序を逆にすべきだ」と主張しています。論理構造の上から見て、どうしても第四番日の<非有非無>を第三番目に据え、その次に第三番目の<亦有亦無>を第四番目として据えなければ、論理の筋が通らない・という事を根拠にしています。

 それは正論です。極めて正しい意見です。ヤスパースなどが四句分別を四刀論法や弁証法で解釈しょうとするのに対して、山内氏が四句分別をそれらとは違う独自のものと認め、四句分別そのものとして取上げた事は、着眼としても優れているし、学者として世間に対する一つの大きな貢献に成るでしょう。日本人がとっくの昔に忘れ去ってしまった事を再び思出させて呉れる役割を果たしています。この貢献は大きい・と思います。

 忘れ去った・というよりも、初めから覚えなかった・と言う方が当っている・のではないでしょうか。

 そうかも知れません。どういうものか・中国と日本とでは論理学思想が発達せず、無関心でした。中国古来の<正名>(せいめい)も「名を正せ」という事、<言葉の概念を正しくする>という事で、<正名>という論理学の芽生えは在りましたが、何時の間にか立消えてしまい、<正名>も倫理化されてこれ又何時の間にか<大義名分>という事に成ってしまいました。

 中国人も日本人もこういう風潮の民族なので、論理方面には兎に角無関心なのです。確かに初めから覚えなかった・と言う方が当っているでしょう。山内教授は四句分別をそれとして取上げて警鐘を打鳴らしたのですから、これは貢献に成ります。

 確かに、論理としての体系の正しさを求めて行けば、山内教授が主張している様に、まず二重否定の方が三番目・二重肯定の方が四番目・という構成でなければ、一連の論式として成立しないし使えません。

 この事は昔から<非非><亦亦>の句内部の<有無>の所へ・概念を持つ単語や熟語・を入れて使っていた応用型の使方がいけない・という事ではありません。昔からの応用型での使方ならその儘で良く、変更する必要は全く有りません。第三両肯・第四両否で結構です。

 山内教授の言う所は、第三<亦有亦無>・第四<非有非無>をその儘……横型その儘に、然も反省判断の為にではなくて叙述判断の為に使おう・という考えですから、どうしても三番目と四番目との順序を入替える必要が有る・と言うのです。

 これはそういう立場ならば妥当です。私も賛成します。論理ではなく論法の場合でもそうでなければ成りません。この方が遥かに優秀に成ります。

 さて、山内教授はその上で<空=非有非無>を叙述文の中に繰込んで立論して行こうとします。そこでは空も叙述命題のものとして取扱おうとし、現にそうしました。空が概念なのか判断なのか・は明らかではありません。これに対して、私達の方は、空仮中は反省判断である事を既に詳しく立論して来ました(第一巻・第一章参照の事)。これは、私達には決して曲げられない事です。

 <仮>は始りに於いては現量であり・又はメタ現量としての比量であり、双照後は思量であり、<空・中>は思量であり、円融の空仮中は一括して反省判断である……これは曲げられません。

 然も山内教授は空や中を――実際には空しか説明していないが――叙述命題と考えて叙述で説明しています。然も殆ど成功しています。そこで我々としては、山内氏説に触れながら話を進めて行くには、次の注意が要る事に成ります。それは、比量としての形式の話と・思量としての形式の話とを分ける事です。単純化して言うならば

 (1) <仮→空→中>そのものは反省判断である。

 (2) <仮→空→中>の説明は叙述判断である。この事は可能である。

この二つを混同しない事……これが必要な注意です。これから以下に私が述べる所は(2)の立場を示すものである事に注意して参りたい・と思います。

 ではどういう事に成りますか。

 そうすると、山内氏説の通り、句の順序は、二重否定の方が先・二重肯定の方が後・でなければ成りません。<三諦論の場合>には、更にこれに加えて、二重肯定の中味を<亦無亦有>と訂正すべきです。詰り元々の句内の上下を入替えるべきです。

 理由は、まず仮(有)に由って反省して空を得かつ説明し、その後にその説明された空を再反省しないと<中>は出て来ないからです。その<中>は最終の帰結が<肯定>(有)でなければ成らないからです。こうした・空から中への連関・は前章「仏法と論理学」の所で述べた通りです。

 一般の哲学ならば<有>と<無>とだけで論理を構成しますから簡単ですが、仏法の場合は、その<有>が単純な有ではない訳ですね。縁起仮有・分別有・無分別有、現量有・比量有・思量有……と必ず条件が附いています。「定んで有なるは邪なり」(『止観』)で、単純有は邪として退けられています。

 この事は非常に大切な事です。仏法の<有>が単純な有ではない・という事は思量有だからです。<無>に就いても同様です。仏法では全て判断を<有・無>の二語で済ませていますので、存在か叙述か反省か・読む方がこんがらかるのです。正しく理解するには整理して掛かる事が必要です。 殆どが存在判断ではないのです。

 「仏法と論理学」の章で説明した通りに<判断>には三種類が在ります。然も<有・無>の語用には、<存在の有る無し>と<叙述の肯定・否定>との二種類が在ります。そして更に<反省上の否定・自覚上の肯定>と在って・以上で三種です。

 (1)存在判断(…がある・がない)。(2)叙述判断(…である・でない)。(3)反省判断(現量や比量を相手取って反省してみて、そうではない・こうである)。この三つですね。

 (1)と(2)との話は論理学の初歩ですから誰にでも判ります。然し(3)が判り難いのです。(3)での有・無・詰り・肯定・否定・は、「そうではない・こうである」よりも寧ろ「(現量は)その儘では宜しくない……否定し反省されなければ成らない、反省するとこうである」と言った方が判り易い・と思います。そこで思量の・詰り・反省判断の有・無・は段々と<重層有・重層無>に成って行くのです。


トップへ戻る ●目次へ ●←前ページへ ●次ページへ⇒
inserted by FC2 system