(8)『涅槃経』に就いての理解―― その二

 天親は、涅槃経の摂受門の面を、智法に約して示したのですから、再説涅槃に於いては、天親の論でも出て来なかった実義の方を示さなければなりません。実義の現れていない小乗・権義や摂受義を、迂闊にその儘持込んで平然としていては成らない事が判ります。実義の方を示して下さい。

 抑もこの偈句は折伏門の文です。一体この偈句は何に対して表明されたものであるか。まずここ……この起点から出発しなければ成りません。これは当時の世間や外道の六師達が「この世は生滅法ばかりの世の中だ」と見ている<断見>に対する論破の立場から発言された句です。

 この点を論破すると今度は、邪見の外道は<無シ 二 ――常住>という<無生滅見>の<常見>を持出します。そこで断常二見は誤っている事を重ねて破折しなければ成りません。この破折原理そして行法が<無生無滅>(まさしく涅槃の意。八不中道の不生不滅と同じ)の<非断非常中道の正見>です。「二辺寂静……二辺の無明の諸悪を防止し、よく中道一実の理に順ず」(『止観』)るのです。

 ですからこの偈句は、曖昧な<執心>を問題にしているのではなくて、「貴方は正見を取る気か邪見を取る気か、一体どちらだ」と迫って、心作用の内の<見>を問題にしているのです。所載記事では「法に固執する心」と述べて貪使の<思惑>として取扱っていますが、これは決定的な誤りです。思惑の方ではなくて<見惑>の方が問題にされているのです。全文が見惑問題……その論破なのです。

 断常二見に覆われた無明の人には、生滅法や無生滅法の奥の無生無滅法は、何としても見えない訳ですね。無明覆障の迷……。

 ですから「生滅」と指摘して、「生滅見も無生滅見も<滅>してしまいなさい」と勧める訳です。この<滅>も又<見滅の滅見>という<見>(見解)なのです。反省に拠って浅い前見を滅する所が見滅。すると自然に深い後見が立つ所・自覚の所・が滅見です。従って生滅滅已は空諦に成ります。空化ではなくてサトヤ……空諦です。

 権の二乗門ならば、滅し已われば、「滅已」すれば、今度は、何も無い寂々空々漠々たる虚しい世界が見えて来るのですが、実門ではそうではなくて、詰り、沈空尽滅するのではなくて、逆に、無生無滅の中道法性が見えて来る筈です。これが思量というものです。空から中を望み見ます。権菩薩門からは空だけが見えて<中への望見>は効きません。

 然しこの文は権門を説いているのではないから尚そこ(権義)をも越えて、「生滅見・無生滅見を<滅已>すれば無生無滅の中道正見が立つではないか」と言うのです。何処迄も<見>を問題にしているのです。徹底した見惑追及論です。迷悟問題でも、思惑の迷悟は浅いのです。深い方の見惑の迷悟を問題にして、結局はその能生の根源である無明……<元品無明の迷>(虚妄法)へ肉迫して、<法性の悟>(真実法)を得させよう・というのです。

 問題のこの焦点を見失ってしまえば、この偈の文は何の事やら判らなく成ってしまいます。比量に拠る単なる認識の表明にしか見えなく成ります。修行論である思量としての本意は捨去られてしまいます。思量を比量化してしまう事は、真諦の尊を摧し砕いて俗諦の卑に堕しめてしまいます。

 「生滅滅已」迄済みました。続けて次を言うと、独覚二乗の<寂滅行>では沈空尽滅してしまいます。その二乗の寂滅行さえも「寂滅する」事が仏様の<寂滅行>です。ですからこの句の「寂滅」は、境を指して言った形容名詞ではなくて、「寂滅する」という動詞です。漢語使用の約束事を思出して頂きたい・と思います。

 「(『止観』一部は)……待絶・滅絶寂照の行を成ず」(天台は『止観』一部に於いて、<待対をもし、更にその絶をも滅してしまう寂照〔する〕の行>を完成した)(『弘決』)

というこの『弘決』の「滅絶寂照の行」と同じ用法・同じ文意の<寂滅行>なのです。この句では<寂滅行>を「寂滅」と言った迄なのです。偈句というものは用語を簡略に使うからです。この二字は原語が単語だろうと熟語だろうと内容は全く同じ事で、寂滅は生滅二辺遠離の反省行です。

 してみると、この偈文は「寂滅」の二字の理解が一番難しい所であって、これが解けさえすれば、全文はすらすら会得出来る事に成りますね。

 そういう事です。念の為に知りたい・と思っている事ですが、「インドの梵文(サンスクリット)かパーリー語の原文では<寂滅>の語用はどう使われているのかな」と思っています。名詞か動詞か、単語か熟語か、その原意はどうか、日常言語としての用法・意味は、仏典特に『涅槃経』での用法・意味はどうか、ここは興味の有る所です。然し私にはサンスクリットやパーリー語は丸きり解りませんから、仕方が有りません。

 こういう事は一人二人の学者に教えて貰っても、果たしてそれが正鵠を得ているかどうか、我々には検証の仕様も無い事です。日本語の良く出来るインド人にでも聞かない事には、解り様が無いのではないでしょうか。

 今の事に就いて、これは一般論には成りますが、外国語を翻訳するに就いては、大概の場合、精密な直訳が能ではない事に注意が必要です。英語の「ハウ・ドウ・ユー・ドウ」を、明治期に、「汝は如何に為し為すか」と直訳したのが名訳とされて、今にこの話が伝わっていますが、これでは「はじめまして」という日本語からは掛け離れている訳です。<挨拶>という<語用>で結附けないと両者は結附きません。

 それと同じ事は、英語の「グッド・パイ」、中国語の「再見(ツアイチエン)」、日本語の「さようなら」に就いても見られます。互に直訳し合って突合せたらズレてしまいます。語用の約束で結附けないと仕方が有りません。まずストレートな直訳が理解の基礎に成るとしても、そこから一歩踏出さないと翻訳には成りません。

 直訳すれば好い・というものではありませんから、何が言われているかを掴まなければ成りません。例えば、野球のホームランを「本拠走り」と直訳しただけでは、本塁へ帰れる<大きな打球をした>という<行為の中心意味>は出せない訳です。

 仏法でも、この場合の「寂滅」に就いても、大事な事は<言われている事態を実義の方から捉える>事です。まず直訳が出発点に成るとしても、肝心な事は<文・義・意>のどれを意訳するか・です。大乗の実義の場合には随義転用する事も多いのですから、我々は漢語の「寂滅」から事の真相へ迫れば良いのでして、梵語に拘泥る必要は無い・と思います。

 まさか、漢訳の「寂滅」が出鱈目至極だった・という事は有得ないでしょう。兎に角、漢文を見た限り、この四句偈の「寂滅」は動詞として使用されております。自動か他動かは文脈で決っている筈です。

 「寂滅」が動詞なのであれば、当然、自動詞か他動詞かが問われ、この事は見逃せない大事な点に成ります。自動か他動かで全文の意味が変ってしまいます。動詞ならば、「寂して滅し(寂し・且つ・滅し)」「寂として滅し」「滅を寂し」の三通りしか読方は無い・と思いますが……。前の二つは自動詞の場合、後の一つは他動詞の場合の読方です。

 まず自動・他動のどちらであっても、<寂滅し>た結果は、論理や概念操作が絶えてしまいますから<言語道断・心行所滅>であって、自動的に<無分別>へ入ってしまう事は共通する事に成ります。この無分別は仏界の無分別としての「為楽」です。「寂滅」は応(まさ)にその関頭に立っている訳です。

 その事は容易に解ります。誰にでも解り易い・と思います。

 もう一度前からの繋がりを振返ってみると、断常二見を<滅し已る>事が「滅已」ですが、これには、無生無滅見を目指して邪見を<寂滅する行>を修行する事が必要なのです。反省修行が満じた生滅滅已は空諦です。

 これが「寂滅」で動詞ですが、自動詞なのであれば、「寂」は形容副詞で「滅」が動詞で・何かが<寂として滅する>意か、でなければ、二字共に動詞で、<寂して滅する>(寂し・且つ・滅し)か、どちらかでしょう。空に寂せられない様に<空をまた空ずる>から<寂して滅する>訳です。

 然し、ここでは外道の二見を滅し已る「滅已」という目的語を持っていますから他動詞です。この四句偈では「寂滅」は他動詞だったのです。この事は今迄説明して来た所で充分に明らかである・と思います。 

 他動詞である事が決定すれば、全文の意味は<一意>に決って参ります。曖昧さは完全に消滅致します。

 「寂滅」は他動詞ですから、そこで今度は、『弘決』では<待を絶したその絶をも滅し(他動詞)>た様に、目的語中の「滅已」の<滅>見を<寂>し空じて中道へ導く訳です。詰り・「寂滅」は<滅(滅見)を寂する>という双遮行です。従って「寂滅する」「滅をも寂する」という思量行為・詰り・行者の智の側の修行行為の話なのです。これが<因行>なのです。

 「寂滅」とは、<諸行は生滅法である・という浅い見解を滅し已ったら、その上更に、その滅した反省行為をも寂し空じ(再反省)てしまう>という事だったのです。「寂滅」の「滅」は、上の「滅已」の「滅」そのものを指していたのです。「生滅滅己」が一度日の反省(思量)、「寂滅」が再反省(再思量)、以上で二重否定の反省思量でして、これは双遮・双照の働きを意味し、ここ迄が分別の分域に成ります。

 「寂滅」が因行であればまだ果徳ではありません。そうすると「寂滅」に就いて「到達する寂滅・涅槃の世界に……」という前出所載記事の解釈は、「寂滅イコール涅槃の境法」と解していますので、これは、因と果とを取違え、智法を境法と取違え、二重に間違っていた事がはっきりします。

 以上の様に因行を進めると、権大乗の法門ならば、行じた行修得果で悟りが得られるでしょう。悟りが得られたら自然に・詰り自動的に<不苦不楽=涅槃>という内容の、仏果の<中道楽>(中道法楽)に到達するでしょう。これが「為楽」に成ります。所がこの文は実大乗法門ですからそうは戌りません。権教の場合は「寂滅」に即して「為楽」で、<寂滅即為楽>と成りますが、実大乗ではこうは成らないのです。

 それでは「因果異性の宗・方便権教なり」(本因妙抄)です。まだ正しくありません。この「為楽」の読方は、他動の「楽と為(な)す」か、助動の「楽為(た)り」か、この二つしか有りません。

 ではどうなるか・と言うと、断常二見を双遮して非断非常の中道正見を得て、この中道見で断常二見(世俗見・六師見)を双照する事に成ります。「滅をも寂する」という双遮の行業(因行)そのものが自然自動的に楽しみ……法楽(果徳)そのものに成るのです。すると自然に双照が成立します。これが「為楽」です。「一念是れ三千」(『止観』)と同様に、「寂滅」を直指して是れ「為楽」で、権門の<寂滅即為楽>に対して<寂滅是為楽>と成ります。この即と是との違いは天地雲泥の差です。

 「息二辺止(二辺遠離行)は即ち生死・涅槃、空・有、雙〔なら〕びて寂すなり」(『止観』)・詰り「息二辺止(縦型反省法上では一切の二者択一思想は誤りだから、この二辺〔二者択一〕詰り・二辺見を息〔や・息=廃〕めて・止〔止観行の止〕という行為・詰り・我が只今の作念を法界としてこの法界へ念を繋ける行為を)すれば生死・涅槃、空・有、有・無、生・滅、等々一切の二辺は雙〔なら〕びて〔雙んで共に〕寂〔動詞・行為〕せらるるなり」です。雙寂の雙(双)は辺々対等・平等に・という事、寂は二辺見を捨る行為です。

 涅槃寂静とも言いますが、この<静>は「二辺(二辺見)を遠離す、これを称して静となす」(『止観』)でして、静も同じ事ですが<寂>は物音(外)も心動(内)もしなくて心理的にも物理的にも静かだ・という事とは違うのです。唱題中は、口も心も躍動し・耳にその響が満ちて居ようとも・心は益々クール(冷静)でしょう。音が静かであろうと喧しかろうと一向構わないのです。二者択一思想(二辺見)を捨てさえすれば寂です。滅をも寂する「寂滅」行そのものが不苦不楽の中道楽なのです。

 これが解脱・菩提・涅槃・詰り自受法楽です。菩提・涅槃も又智法でして、『涅槃経』の「涅槃」は智法であって境法ではないのです。<知る法>であって<在る法>ではないのです。寂滅行為を離れて菩提涅槃の智法というものが・別に有る訳は無いのです。まして、寂滅行為を離れて菩提涅槃の境法というものが・別に有る訳は無いのです。前出所載記事の<約境(教ではない)解釈>は徹底して間違っています。六師見です。「滅をも寂して楽為(た)り」です。寂滅為楽は中諦です。この意味であれば仮令「寂滅して……」と熟語に読んでも構いません。

 これならば因果同性の宗・因果並常の宗が実現しております。迹本二門の実教に成ります。縁起因果・修行因果が成就します。

 少し専門的には成りますが、この「寂滅」する行為が又業でもあり苦でもあり、これを開会して菩提・解脱そして涅槃と開会する法門を<相対種開会>と言い、唯『法華』『涅槃』二経の法華部にしか説かれなかった――詰り・権経には無かった――法門なのです。そしてこの偈句では、この開会の法楽を説いていたのです。円融三諦説だったのです。

 ですから、四条抄の「衆生所遊楽云云、此の文あに自受法楽にあらずや……苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱え居させ給へ、これあに自受法楽にあらずや」と全く同じなのです。四句偈は不苦不楽の涅槃法楽を説いていたのです。その為の不苦不楽中道行を勧めていたのです。

 私達の周りにも「勤行が何よりも楽しみだ、折伏が一番の楽しみだ」と言う人が居ます。自然に相対種開会の法門に叶っています。

 『涅槃経』での「諸行……為楽」の句は、上半偈二句が虚妄仮で俗諦、下半偈二句が空と中とで真諦、全体が<見>の迷悟問題を扱った智法論・修行論でして・以上の様な道理整然たる実大乗の教えなのです。でなければ、命を賭けて求める値打も無いし、後半偈を聞いた雪山童子が得道成仏出来る訳が有りません。

 それなのに、尤もらしくて好い加減で曖昧で然も間違った解釈をするのは、根性が好い加減で仏法を舐めているからです。強折しないとこの根性は治りません。

 私達も気を付けなければ成りません。人事(ひとごと)で済ませては居られない・と思います。蛇足ですが、若しも仏教学の側などから「それはお前の宗派的解釈で、片寄った主張ではないか」と言われたらどうですか。

 義には小乗義・権大乗義・実大乗義、そして実大乗義に迹門義・本門義・文底義と在ります。これをもしも・宗派の義だ・と言っても、では、後どんな義が在るでしょうか。

 各宗派義全部を挙げてもこのどれかでしかないし、仏教で新義を作ればどれかへ入ってしまうし、それ以外に義を構えたら、これは最早・仏教義に非ざる外道義でしかありません。依義判文……義に依ってしか文は判文解釈出来ないのですから、遣れるものならお目に掛かりたいものです。新説大歓迎です。熱烈歓迎致します。

 そうすると今の偈文はどう読むのが正しいのでしょうか。

 「諸行は無常なり(又は、無常にして)是れ生じては滅するの法なり、生滅を滅し已りて(その)滅をも寂して楽為(た)(又は・滅をも寂するを楽と為〔な〕す)」と読みます。権義の場合は「滅をも寂して楽と為(な)す」と読みます。

 この偈文から日本では昔<いろは歌>が生れました。いろは歌は爾前義の解釈に従った考えで作られたものです。『涅槃経』の話はこれで終りに致しましょう。


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