(9)縦型縁起法の表現形式

 『涅槃経』の話で中断していた話の続きに戻りたい・と思います。その話は、論理学論理は形式化が進められ、これに引替えて仏法の場合は、論法と事実とが切離されずに一つに成っている。この事を<縁起−無自性−空>の路線のなかに指摘する事が出来るか……という事でした。

 答は「諸行無常は現量で、これを客観で捉えて思考した是生滅法は比量で、空は思量だった」という所で中断しておりました。そこで話を元の<縁起−無自性−空>へ戻します。これは縁起法の表現形式でもあります。

 繰返しに成りますが、知る事は、一切は現量(この場合は無常)から始ります。比量の縁起から始るのではありません。無自性も客観上の事実で比量ですから、<無常−縁起−無自性−空>は<現量−比量−比量−思量>という繋がりで、<無常−縁起−無自性>迄は俗諦詰り客観上の真理です。ここ迄は横型縁起法で、次の<無自性−空>が思量の縦型縁起法という構文組織に成っております。

 それに就いて「外道と仏法とは俗諦の領域で既に決定的に認識が分れていた」という話でした。認識以前の現量……詰り諸行無常だけが万人の知が一致した点でした。

 諸行無常だから<個在して変らないもの=常一主宰>は無い。変化体の中に不変な体(実体)や性質(本質)を探し求めるのはどうも可怪しい、無駄な努力なのではないか……こう疑問を持つのは当然の事でしょう。サブスタンス(実体)やエッセンス(本質)は無さそうだ……とすると、然らば何が有るか・という事に成りまして、今度は<縁起>という事が出て来るのです。

 この縁起が現量(観察結果)の無常を推理――観察と推理とが仏法では一体化している――して得た比量で、無常は理果、縁起は理因だから、事象は<縁起→無常>のコースで起っている……という話でした。

 事象の出発点は理因の縁起法だ・と判ったら、実体(我)や本質(自性)が現実世界の何処かにでも、事象のなかにでも、本当に有るのか無いのか・という事は、一切事象の出発点である縁起を基点として追及出来る筈です。縁起するものであれば全部が出来事で、縁起の焦点が現象として現れるのであって、現象以外には何も無い。現象の奥に実在……詰り常一主宰な実体や本質が在る・という考えは間違いだ・という結論が出て来る訳です。

 縁起とは因縁生起という事で、因と縁とが依合って事象が生ずる事です。仮有です。因と縁とが別れれば・詰り・因縁離散すれば、事象は滅してしまいます。仮無です。ですから万法諸行は無常で生滅します。詰り、諸行無常・是・生滅法です。諸行に実体は在り得ません。

 生滅法は無常という<なまの現実>(現量)にはぴたり合う訳です。因と縁、このお互いが相依って、お互いを特色付けて、事象(法)を成立たせているのだから、そこに現れる物事には<自性=本質>というものは無い。性は他に依る事で生じたのだから自性でもないし他性でもない。無自性の性である。無他性の性とも言える。不無因性である。そこで縁起から無自性迄進み移るのです。

 これは横型推理・客観の必然な帰結・でして、俗諦の分野から一歩も出ておらず、比量にすぎません。では無自性なるものの在り方如何に・という事に成ると、これは仮和合しているだけだから有にも非ず無にも非ず<空なり>と成る訳です。これは推理知識ではなくて反省に従(よ)る思量の知識です。これを・推理知識だ・と思うのは<上手なインチキ説明文>に騙されてしまうからです。

 そこで、<無常→縁起→無自性>迄が<世俗>の内で、<無自性→空>が仏法の内容・詰り<勝義>と成りますね。その世俗のなまの現実の指摘である<無常>(常無し)という一番の原点から見れば、全ては仮和合・仮有で<仮り>のもの・という事に成りますが……。

 この構成された<仮り>は、時間的には<一時的な在り方>、空間的には周囲の条件に依存し制約された<局部での在り方>を言うのです。事態というものは、周囲の条件に必ず一面では依存しながら・もう一面では制約されています。そして周囲条件の方を制約してもいます。お互いっこです。依存する(依存し合う)から制約し合う訳です。

 仏法は縁起因を追及しますが、そこに時間概念と空間概念とが入って来るのです。縁起常住で、何処迄も何処迄も横に縁起の広がりが続き・何処迄も何処迄も無常常住で縦に一時的な在り方が続いて行くのが世の中だ・と言うのです。無常で変って已まない癖に、こうして縁起法と無常法とだけは常住している訳です。事法は不一不異という型で・理法は不変という型で・不変常住している訳です。常住不変でも、縁起法・無常法を・実体だ本質だ・と言う人は誰も居ないでしょう。何しろ、それが有るだけで奥も裏も無いのですから……。

 それは居る筈が有りません。将来に亘っても出現する道理は無い・と思います。してみると、無常法に限らず、<知る法>の法の不変常住・とはそういう事なのですね。<在る法>には決して不変常住性は無い。こうであれば、一切法……取分け法性法と<実体や本質>とは全く無縁で、結付くべき道理は全く無い・という事が判ります。

 <仮り>という事態の内容を調べてみると、<縁起>に由ってそういう現象が起り、縁起である以上は、そこに相い待する因・縁の二支各々には、自己同一性は有るが自性は無く、二支で成立った<事象>(仮りの当体)にも、不一性と共に自己同一性(不異性)は有るが自性は無く、詰り<無自性>である。その無自性なる物事(法)の在り方はどうか・と言えば、それは<空>だ・という事に成るのです。

 ここで是非注目しなければならない事が起っています。<縁起−無自性>迄は、特定人が居ようと居まいと構わない客観真理ですが、<無自性−空>は人が居ないと成立しない・という事です。観者……見る人が事象のシステムのなかに参加しなければ<無自性−空>は出て来ないのです。人が風呂へ入って風呂の水嵩が増えた様なものです。空は反省判断……詰り内観の思量ですからそう成ります。<無自性→空>は内観の真理なのです。こうなると<論理と事実>は分けられなく成ります。無分別に成ります。これは存在論者・認識論者や客観の予り知らない事です。

 という事は、仏法に於いては、認識の場合でも純論理・論理だけの論理・という事は無く、常に事理一体で、何時も論理と生(なま)の体験の事実とが一つに成っている事を示していますね。前に出た雪山童子の鬼神四句偈と、それが主張された時代背景・事情背景との繋がりは、この事を示しておりました。

 もう一つその事例を考えてみましょう。相撲の世界では新弟子検査にパスして始めて力士の卵が誕生する訳です。パスする体重の下限は75kgだそうです。計量台へ乗せて計る手続は論理的手続です。論理的手続ですから正確です。客観上・公平です。

 検査を受ける方の中には、基準すれすれで危い若者も居ます。そこで一升瓶を抱えてやって来て、検査の直前にガブ方ブ水を飲む。それでやっと合格・という話は随分語られています。考えてみれば、これは、不公平な訳です。計る方の論理的手続は公平でも、計られる人間側の事情は不公平でしょう。そして問題はその先です。

 判りました。一升瓶の水を飲む前には、水の目方と飲んだ人の目方とは別々だったが、飲んでしまうと一緒に成ってしまって分けられない・という事でしょう。この例でも、論理と生(なま)の体験の事実とは分けられない・という事ですね。

 そうです。事実、体験と論理とは、比量の場合ならば分けようとすれば分けられます。然し、反省である思量の場合は分けようにも分けようが無いのです。これは、外から見ている客観の場合とは違って、論理使用者本人がそのシステムの中に参加しているからです。論理の中からその論者本人を差引く事が出来ないのです。

 こうして、仏法に於いては、事実から切離された形式論理で以って見た再現世界ではなくて、論理と体験との両方を綯(ない)合せた当面世界を論じているからこそ、無常から始って空に至る反省……この反省から来る認識も成立するのですし、又そこに四句分別の使用意義も有るのでしょう。自証の自覚世界を説くからです。自覚は他証出来ません。他人の口出しは無効です。


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