(10)包括的な四句分別と弁証法との対応

 前にも出た話ですが、弁証法と四句分別とは同じか違うか・という事が相当な問題に成って来ます。少く共ヤスパースでは、四句分別は弁証法の一種である・という受取方がされて、逃路(にげみち)が無い論法・とされ、仏法の論理は弁証法の一種である・と言われ、これが通用している向きも在る様ですし、現に類似の説も複数在ります。ですから、四句は弁証法か、仏法の論理は弁証法か、この二点は是非明らかにして置さたい・と思います。

 それには抑ものイロハから出発してみなければ成りません。どういう点が同じで・どういう点が違うか、そこが明らかになれば良いのでしょう。

 まず同じ点の方から参りますと、正しい弁証法と反省自覚の(縦型)四句分別とは、両方共に、一人称命題界の自覚の領域でだけ通用する論法である・という事、そして、否定を柱とした論法である・という事、これは共通しています。従って、客観の領域・個別科学の分野では通用しない論法だ・という事、通用させようとするのは原理上誤りになる事、これも共通しています。では違う方の点ではどうでしょうか。仲々面倒だ・とは思いますが……。図式弁証法も含めてお願いします。

 何が・何処が違うか・を一言で言ってみるならば、最大の点は、まず、弁証法は単なる世俗にすぎず、四句分別は世俗と勝義とに亘る・というこの一点でしょう。弁証法は幾ら・自覚の否定弁証法だ・と言っても、それは単なる世俗から世俗への止揚、そういう合(正反合の合)の俗諦しか得られません。四句分別は世俗から勝義へ入るにも使えるし、勝義内だけでも使えます。昔の外道は世俗内だけで使っていました。

 反省の原型四句分別は、迷いを遮って……迷いから悟りへの・双遮という・自行の求める道と、仏様の悟りから衆生の迷いを照らし顕して救うという・双照の化他の面と、両方を兼備えているでしょう。この場合の自行化他は、行の自行化他ではなくて・教の自行化他です。四句は、世俗から勝義へ・更にその勝義から再度世俗へ・と往復する為に使われます。こういう所が弁証法との決定的な違い目です。これが大綱での違いです。

 あと大きい所は在りませんか。

 在りそうです。図式の場合、弁証法は相互否定的――これは二重否定や双遮とは全く違う――な敵対関係で考えているでしょう。<AB>です。例えば、生産力と生産関係とは敵対関係下にある・などと言います。<同時に>両方在るのに、この敵対関係が<矛盾>だ・と言います。でもこれは客観的・理論的には矛盾ではなくて唯の<不適合>にすぎません。

 共存していて<矛盾>ではないのに「新しい生産力に既存の古い生産関係は矛盾する」と言うのは、実は、もっと新しい生産関係を考え出した自覚者だけが言得る事なのでしょう。これは、事実の社会現象上、事象が現実に矛盾している・という事とは違うのです。結局、矛盾というのは、自覚者だけしか言えない事です。何に就いてでもそうです。

 この二つは易々(やすやす)と混同されてしまっています。是非訂正が必要です。

 選挙でもそうでしょう。A党は駄目だ・B党が良い・と言っても、脇から客観してみたら大差は無いです。A党もB党も良い・と言うのも構いません。だが、有権者が自覚して一票だけの投票権を行使するという時に、初めて・両立不可能な矛盾・という事が発生する訳でしょう。棄権する人にはこの矛盾は生じません。前回はA党へ入れたが今回はB党にした・というのは矛盾でも何でもありません。徒(ただ)の変更です。革マル確信犯が保守党へ入れたらこれは矛盾です。

 結局、矛盾は外に在るのではなくて、詰り<在る法>ではなくて、本人の己心の中にしか無いのです。<知る法>であって・自覚者当人の己心にしか無いのです。実践的立場にしか無いのです。選択の場面にしか出て来ないのです。選択上・反省して見る己心にしか無いならば、四句分別の側からす れば、これは<非有非無・亦無亦有>ではないですか。

 ここから振返って見れば、最初のAB、正対反・そして合、という弁証法図式……これも、単に自覚者の自覚に合せる為に作った仮設、然も誤った<仮名の仮設>にすぎなく成ります。工事現場に能く在る仮設のプレハブ住宅みたいな按配のものです。

 後で詳しく申し上げますが、図式弁証法で<AB>と言うのに対して、仏法では縁起説から<AB>と立てます。求合って相い待ち相い依りますから<AB>です。この<待>は、敵対・相互否定関係・ではないのです。好敵手ござんなれ・と土俵へ上る東西の力士みたいなもので、敵対して闘うにも、その前にまず求合って<相い依り相い待た>ないと<取組>という敵対関係にさえ入る事が出来ません。

 従って<AB>は<AB>の中の特殊な一形態にすぎません。この点からも弁証法は縁起法の一特殊形態にすぎないのです。ABABの片方を消せば構造が消滅しますから、これは縁起法です。<正反>の関係も<反合>の関係もそうです。結局、正反合は縁起法内の一法です。

 弁証法は縁起法ではないか・という説を聞いたら、地下のヘーゲルやマルクスは一体どんな顔をするでしょう……。

 縁起法の表現形式が<縁起−無自性−空(−中)>で、仮・空・中・の表現形式が四句分別ですから、弁証法は仮空中三諦の四句分別の一特殊形態の様なものにすぎません。一特殊形態だ・と断言しても好い位です。四句分別のなかに弁証法を解消する事は可能ですが、弁証法の中に四句分別を解消し消化する事は不可能です。胃袋と食物みたいな間柄にあります。これが違い目の大綱上の第二番目でしょう。

 弁証法は矛盾の論理だ・と言って、世の中に存在する矛盾の解消に努力しているのだ・と能く言われますが、これは存在の弁証法側から言う俗説にすぎない事は能く判ります。矛盾律に基いた正確な矛盾概念を肯定しないと、認識の弁証法さえ主張出来ない事も理解出来ます。認識の弁証法は本当は成立しない事はさて置いて、認識の弁証法そして自覚の弁証法は<矛盾克服の論理>である事が正当だ・という事も理解出来ます。

 弁証法の勘所は、低い段階から否定・止揚・総合して、正反合と合に達する所に在るのではなくて、選択的に低段階を否定して高段階へ自覚的に進んで行く<否定の所>こそ勘所だ・という事が正しい・と思います。自覚の弁証法は、そうでないと自覚の意義・内容を失います。こういう点は、四句分別ではどうなのでしょうか。

 両者の違い目の細目の方の話になって来ました。弁証法の<否定の所>の役目は、仏法では<四句百非>が担います。既に『無量義経』徳行品の<法身の体>の所で実例を見て来た通りです。この四句百非は主に横型で使いますから、論法の型としても弁証法の否定とそう違ってはいません。でも否定使用の質的頻度は格段に違っている訳です。

 弁証法では、一回否定しては合を求め・又一回否定しては合を求め・ですから、小銃を撃っている様な感じです。ハンターが合という獲物を得べく一発撃っては又……という感じです。四句百非の方は的に対して、非ず非ず非ず……で・機関銃を撃込んでいる様な感じです。この点実に念入りで、まるで違っております。一側面だけではなく、否定されなければならない側面は残さず否定し尽くす行方です。

 これから説明が進めば判る・と思いますが、「低段階を選択的に否定して高段階へ自覚的に進んで行く」というその行方は四句分別でもほぼ同様です。然し弁証法では世法から世法へ進みますが、反省の四句分別では世法から仏法へ・世俗から勝義へと進みますから、最初の大綱の第一で申し上げた違い目が有る訳です。・

 両方を較べてみて問題なのは、これ迄の弁証法では、矛盾概念や矛盾律というものを客観化し実在化して実体的に<在る法>として考えて居りますが、四句分別の方は、自覚の領域中でも矛盾概念や矛盾律を実体化しては考えません。それも非有非無・亦無亦有、空・中、と捉えています。ましてや弁証法の様に<必然性を押付ける>などという事は全く有りません。ですから四句分別は、従って仏法の論法は、弁証法ではありません。もっと包括的な大きいものです。部分には弁証法も使用します。

 弁証法では当座当面の矛盾は解消出来ますが、又出て来ますので、矛盾そのものを解消する事は出来ません。この点・仏法や四句分別ではどう成りますか。

 <矛盾>は本来、個人の心の中での多者中一選択や少選択及び二者択一に関して出て来る<迷い>(嬉しい迷い・悲しい迷い)<苦しみ>(善苦・悪苦)なのですから、事態への執著を廃めて事態そのものから離れるか、又は事態を明らかに見極めて択一を決定すれば、矛盾は自然に解消された事に成ります。

 仏法や自覚四句分別では……。

 仏法には・開会の法門・と言って、就類種の開会・相対種の開会・という事が有ります。

 衆生の仏性を修行で開発開会して仏と成すのが就類種の開会。煩悩・業・苦・を開会して法身・般若・解脱・の三徳を成ずるのが相対種の開会ですが……。

 この相対種開会に就いて、敵対相翻(じゃくたいそうほん)と言って、一見・反対であり矛盾であり敵対相互否定関係としか見えない<煩悩と菩提>などに就いて、論法的反省をして煩悩即菩提と開会致します。この開会は<行>でするのでして、思考・推理では出来ません。

 <即>して<行>で開会すれば、煩悩は無用化して表面から後退した様に見えますが、実は<転化>してしまったのです。布地が着物に転化した様なものです。毒の薬化です。煩悩が転化して菩提に成ってしまいます。この菩提が表立って輝きます。この<即>は天台や妙楽の議論に盛んに出て来ます。<即>とは<反省否定→再反省肯定>という反省行為を意味した語用の仮名です。反省行為という<行>ですから推理や思考では……詰り<教>や理ではないのです。<事>です。

 即は教でも理でもないが、教や理で説いて教える。すると聞いた方は教や理として判った積りに成って、即は教理の内だ・と誤解してしまい、そこ迄でストップしているのが大半ではないでしょうか。即は<行>である・とは思って居ないのではないでしょうか。

 この<即>は四句分別でないと出せませんで、第四レンマの<無にして有>を用いないと<即>は出て来ません。又・横型論法からは出せません。敵対相翻は、亦無亦有だから相翻するのです。弁証法では真実なる<即>は出す事不可能でしょう。某大学に「出せる」と言う人も居ますが、厳密に検証したら何処かが間違っている筈です。然も、出しても又否定の対象にされてしまうだけの事です。この合も又終点たり得ません。

 弁証法では精々・正反合の合しか出せないでしょう。矛盾する敵対、この敵対相翻の<即>、これが本当の矛盾克服の論理ではありませんか。弁証法では合に達すると又敵対矛盾が出て来て”無限地獄”が続きましょう。これは真無限だ・と称していますが、真でも”無限地獄”である事は変りません。まして悪無限では尚更です。四句分別では<即>に拠って”無限地獄”にストップが掛かります。真の矛盾解消です。

 違い目はまだ在りそうですね。

 色々在る・と思います。弁証法では正と反とを止揚して合でしょう。止揚する・というのは有から有への進行です。仏法では止揚――これは智操作――するのではなくて空ずる――空ずる・は行――のです。有(仮観)から非有へ・非無へ(以上の二は空観)、亦無へ・亦有へ(以上二は中観)と・有無の智域を縦に出入りします。詰り・仮→空→中の双遮と・中→空→仮の双照と・破立を兼備えて観――観は行、教や理ではない――を完成します。

 自覚のなかで対象と言うのは変ですが、弁証法は判断の対象に就いて弁証し、四句分別は、それもやるとしても、まずその判断そのものを四句に反省分別しています。判断そのものを反省分別する事は、弁証法では行う事が無いのです。こういう事を天台は「反照観察」と言って居て、大事な事だ・と思います。

 そうすると、結論を出してみれば、四句分別は弁証法の一種である・とか、仏法の論理は弁証法である・とか言うのは、はっきり間違っている訳ですね。これは断言して好い訳ですね。

 全くその通りです。特に四句分別では、有・無という判断が、従って肯定と否定とが、常に重層的に行われて中道を現す・という点は、弁証法ではどの様にしても到達出来ないのです。

 弁証法は四句分別の一特殊形態の様なものだが、そのなかに四句分別を解消は出来ない・という事でした。

 仮りに弁証法で仮空中の三諦を構成出来るとしたら、四句分別は弁証法の一種だ・と言えるでしょうが、これは全く無理です。逆に弁証法の正反合を三諦の仮空中で対応させれば、それは遣って出来ない事は無いでしょう。仮→正、空→反、中→合と成ります。だが正→仮、反→空、合→中と可逆的に対応させれば誤りに成ります。いわば不可逆対応です。正反合はどれも仮有を実有化したものだからです。

 本迹関係が有れば、本は迹を消化解消出来ますが、迹は本を消化解消出来ませんし、個人→人種→人類と包括は出来ますが、人類→人種→個人と包括は出来ません。これと同じで、入物より大きい中味は無い道理です。

 山より大きい猪は出っこないのです。四句分別は入物や山の如く、弁証法は中味や猪の如しです。ざっとこんな風ですから、「四句分別は弁証法の一種である。仏法の論理は弁証法である」と言うのは決定的な誤りです。<顛倒の偽見>です。この説は元々ヨーロッパの仏教者の間で古くから発生して来たものですが、当然日本にも伝って、我国でもあちこちで奉じられている厄介な俗見なのです。

 私も二十年以上も前に「十如は弁証法である」という説を聞いたことが有りましたが、これでは真諦を俗諦に堕しめてしまいます。大非法です。「如来の教門は……消(正しく理解)すれば甘露となり・消せざれば毒薬となる。実語もこれ虚語たり」(『止観』)で、四句の弁証法扱いは薬を毒化するものです。


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