3 四句分別と形式論理と非縦非横

(1)矛盾とは何か、なぜか、どのように

 四句分別で有・無を操作する場合には、<四句分別は形式論理の基本原則である矛盾律を認めるのか認めないのか>という問題に必ず当面します。四句分別を横に使えば、これは形式論理の一種に成り、この場合には、叙述上の<有と無>は<肯定と否定>ですから、Pを命題として

 第三レンマの非有非無は、〜P∧〜〜P

 第四レンマの亦無亦有は、〜P P

 (∧は「且つ」を意味する連言記号)

と表現されます。ここで〜〜PP と同じ事に成りますから、第三レンマも第四レンマも共に同じ〜PPと成って、両者を区別する理由も無く成ります。更に、或る命題とその否定命題とを共に同時に真とする事は出来ないという原則……詰り、〜(P∧〜P)という矛盾律にも背いている事に成ります。

 初めて四句分別に当面すると、「何だこれは……」「これは一体どういう事だ」という気がします。私も初めはびっくり仰天で、当惑してしまって「何だこりゃあー!?」という感じでした。

 これが論理学論理なのであれば、第三・第四レンマを区別する理由が無く・矛盾律違反である・という事に加えて、四句分別と雖も、論法として就法の自覚内容を言語に表現したものであれば、その表明文は、当然の事として、言語表現そのものに伴う制約(根本規則)である<矛盾律>に従わざるを得なく成ります。そこでまず、矛盾とは何か、又、矛盾律とは何か、こういう事から改めて吟味し直して行きたい・と思います。

 <矛盾の再吟味>が唱えられるのは、マルキシズムの流行がもたらした・それへの反発現象でしょう。客観弁証法の所為(せい)です。

 矛盾という事を考えてみると、<矛盾は一体何処に在るのか>という・現実な問題が出て来ます。こう成ると、その前に抑も<矛盾とは何か>という矛盾定義の問題が出て参ります。説明の順序から言えば、まず矛盾の定義がはっきりして、次にその矛盾が<何処に在るのか>が明らかになれば、矛盾問題は解決する・と思います。

 それから表現上の問題としては、今度は言語上の矛盾……詰り・形式矛盾・形容矛盾が在ります。実在する矛盾と言語上の矛盾とは、気を付けて区別して置かなければ成りません。言語上の矛盾を簡単に言えば「水色の時」「黄色い声を張上げて」などと言うのがこれです。これは文学的には意味が有りますが、時や声に色は無いのですから、論理上は形容矛盾です。こうした語用上の矛盾は、ここでは問題にする必要は無いでしょう。

 初歩の問題ですが、昔・中国で、どんな盾も突破るという名矛と、どんな矛にも突破られないという名盾とを、並べて売っている武器商人が居て、客が「その矛でその盾を突いたらどう成るのか」と聞いたら答に窮したそうで、これが矛盾の語源だ・と言います。

 現象としては<同一時点では両立出来ない事態>が矛盾です。論理ならば<同一の命題を同時に肯定し且つ否定する事は出来ない>という真偽混在排除の律法です。どちらにせよ<同時>性が矛盾の要(かなめ)です。

 その通りでして、マルキシズムでの矛盾は、矛盾・不可能・不成立・不都合・不整合・差異・対立・敵対・その他色々……何でも矛盾の一語で包括しますので、結局、限り無く<無定義>に近い・一人善(よ)がりで、「名有って実無し」な唯の<音符>にすぎなく成っています。こんな矛盾は世の中に又と無い・のがこの主義での矛盾概念です。矛盾の定義は・はっきりしていなければ成りません。掴み所の無い身勝手な語用をしては成りません。

 定義のはっきりしない矛盾は(言語としての)矛盾ではない・という話は前にも在りました。語用を誤魔化した語用はハッタリです。

 現代の眼で振返ってみると、マルキシズムの場合は、相反・敵対・差異・不都合・不整合・不合理・等々を、恰(あたか)もアリストテレスの第一実体<個物>の様に考え、その各個は皆・矛盾を内包している・と極付け、矛盾をそれらの<類種・普遍>詰り第二実体(普遍)に考えている存在論(素朴実在論)だからです。

 こうなると普遍である<矛盾>は「普遍は唯の音符にすぎない」と中世の唯名論者からさえも論破されてしまいます。存在論者マルクスは、<矛盾>に就いては、観念論者へ転落していたのです。これは唯物論者としては最大の自語相違(矛盾)と言わなければ成りません。致命傷です。

 矛盾は一体何処に在るのか・という事に絡んで問題に成るのは、四句分別では有無を論ずる主語及び主語存在は何か・どんな主語に就いて有無を論じているのか・という事です。四句分別を扱う場合に、抑も何が有で何が無なのか、その主語を明確にしないで話を進めて行くと、徒らに曖昧な議論に終始せざるを得ない事に成ってしまいます。

 主語存在・主語世界は、仏法では、縁起仮有の現量一切法の事です。これに対して述語して・詰り分別して・述語世界が展開されて来ます。そうすると、分別の枠内の事・としては明らかに成ります。これが正分別・真分別で、間違った分別は偽分別・妄分別(ヴイカルパ)として初めから排除され、取上げる事は始めからしない訳です。分別は皆・無明覆障の儘ですから、この真分別でさえも分別虚妄として退けて行くのが反省→自覚の思量(智法)です。思量は境側・依報側ではありません。

 詰り、未だ無明なる<感覚所得の一切法>に就いて、その実相は何か・と言って自覚を問題にして行く訳です。この、自覚で捉えて来る所が三諦なので、そこが仏法に成って来ます。この自覚は、人に伝える為に表現すれば又再び述語世界に成ります。ですから仏法は、主語世界(境・依報)を問題にしているのではなくて、述語世界(智・正報)の方に重点を置いております。

 してみると、一体、矛盾というものは、物や出来事の集りとしての主語世界の方に在るのだろうか? という事が問題に成って来ます。この<問題>も智法ですが……。

 その主語世界・詰り・事物の世界の中には矛盾は在りません。既に何度も申した通りです。誰が何と言おうと在るものは在る―― 一切法は同時にそこに在る――のですから、在る・と言う以上は森羅万象・八万法蔵在ろうとも、同時に在る以上・そこに<事態の矛盾>は無い訳です。

 主語世界に矛盾は無い・となれば、矛盾は述語世界にしか在り得ない事に成ります。それでは述語世界のどういう局面に矛盾が生ずるのか・と言うと、それは人間が行う<選択>の局面です。選択に就いてだけ、初めて矛盾が生じて参ります。詰り<人間抜きの矛盾>は無い訳です。詰り矛盾は<知る法>でして<在る法>ではないのです。<問題>という事も同様です。

 前にも話が出た通り、選挙で同時に両方の党に投票する・という事は矛盾であり、不可能という事に成ります。選択を軸にして起っています。<矛盾>とは<不可能>の異名・という事に成りますね。

 昔、参議院で、反対演説をして賛成投票をした為に除名に成った議員が居りました。しては成らない事をした訳です。これは矛盾の見本でした。<無自性(無本質)−空>を基盤とする仏法を奉じながら本質論者・実体論者に成っているのも矛盾の見本です。除名議員よりも性(たち)が悪くて無明・迷惑・不信・の極です。

 次に、健康を願いながら暴飲暴食不摂生をするのは、身口意の三業が分裂しているだけで、願望と行為とが同時に可能ですから、これは背理行為であって矛盾ではありません。こういう訳で、成立し実存し得る矛盾・というものは、行為に於ける選択上の矛盾で、述語世界の中にしか在りません。矛盾は心内の実存であって、実在ではないのです。存在法ではないのです。

 そういう現象を<本>として踏まえた上で、今度は言説の上に立てる矛盾・言替えれば分別として立てる矛盾・というものが<迹>に成って来るのですね。

 その<迹>を分けてみれば、矛盾概念と矛盾律とです。詰り、矛盾とは何か・という矛盾の定義から来た矛盾概念と、これを論理化する事に依って必然に出て来る矛盾律とです。でも、事象上出て来る順序は、矛盾律→矛盾概念・という筋からです。こうして・論理の形式上の問題・に成って来る訳です。

 述語的な自覚作用に於いて、選択上の矛盾・というものは、普通、ABとのどちらを選ぶべきか・として、同時の両立を許さない二者択一の形で追って来ます。我々はどちらかに意志決定(判断)して選択行為をする事で、その都度矛盾を解消しながら責任を果たし、自覚を深めて行きます。

 でも、三者択一でも多者択少でも構わない訳です。要は<択一・等の・択>に在り・です。選挙でもそうでしょう。魚菜の買物は多くは択少です。

 自覚に対して、論理の矛盾律は、これは律法です。言う事が虚偽に成らない様に、言語表現を正しく行うべく、推論過程から矛盾を排して行く・という思考上の働き……論理操作の柱です。

 ですから矛盾律は、事実世界に矛盾が在るならばそれを認めない・という事ではありません。在っても無くても事実世界とは無関係に、言表の形式上「或る命題とその否定命題とを共に同時に真とする事は出来ない」と主張するだけです。こういう内容の矛盾律を尊重する・という点では、形式論理も古来の弁証法も自覚弁証法も同じ態度を取ります。

 自我の自覚の為の弁証法(弁証操作・反省法)が<矛盾に由る撹乱>に遭うのはその為です。人は言わば<矛盾という障害物を避けて歩く>訳です。一般に矛盾の発生そのものを抑える事は不可能だからです。人の心の中には、頭が良ければ良い程・矛盾が沢山発生します。馬鹿の心中には矛盾は発生しません。犬猫が矛盾に悩んでいる姿など見掛けません。これは人間だけの特権なのです。

 矛盾の覚知は人間の特権、矛盾に悩むのは・良心が発達し頭の良い人の証拠、光輝く人生の勲章・なのですね。煩悩即菩提の煩悩の側・詰り・菩提への因行・なのですね。

 そうです。この反省の為の縦の非合理領域は、矛盾律の支配を受けている・とは思えません。一つ一つの反省内容は矛盾律に従って行っては居ますが、一つの反省から次の反省への移行は、矛盾律では抑えられないからです。そこの所をへーゲルやマルクス等は<飛躍>と言うし、自我の自覚を扱う論理基礎論では「自己矛盾を媒介して」などと言う訳です。仮令・前後で正反対の反省をしても矛盾ではない訳です。詰り矛盾律の支配は一切受けていないのです。

 矛盾臭いものは世の中に沢山在ります。資本と労働とは矛盾する・とアジっても、現に同じ只今・資本と労働とが共存していますから矛盾ではありません。単なる対立か相尅か相反作用か不整合かにすぎません。矛盾は外部のそういう客観領域に・ではなくて、より新しい・資本と労働との在り方・を<合理に添って>考える人の心の中にしか無いのですね。

 ですから字義通りの矛盾弁証法というのは有得ません。矛盾をテコにして正反合を考えるのなら、それは矛盾排除弁証法でなければ成りません。まして自然弁証法だとか存在弁証法・唯物弁証法などは、原理上決して成立致しません。この三つは完全に詭弁です。世界原理・社会原理としては<偽>です。

 古代ギリシャでの対話の弁証法以外に、あと在り得る弁証法は、自我の自覚を追及する非合理思考(反省)としての自覚弁証法だけでしょう。要するに矛盾の所在を突止めない弁証法は弁証法ではなく、矛盾律を破棄したらどんな弁証法も成立たない訳です。


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