(2)矛盾しない<矛盾の真相>

 それでは<選択上の矛盾>が何故念々に起っては消えて行くのか・と言うと、その源は・選択しよう・という意志活動に有る訳ですね。意志活動と言っても心の作用にすぎませんから、そうした矛盾が「心の中に実在する」と言ってしまったら語弊が有りますね。

 これ(矛盾)は他の誰にも通用しない実存で、その人だけのものです。共通の状態の人が居れば、その人とだけは共感出来て「ご尤も・ご尤も」という事に成る訳です。客観存在ではありません。一人称世界だけのものです。

 心の中に縁起仮立の出来事として念々に起って来る作用ですから、有るとも言えず無いとも言えません。その癖・有へ偏って来る訳です。矛盾とはそういう性質のものです。この矛盾の生ずる元は何か・と言えば、それは作用煩悩です。煩悩に<体>は有りません。<用>だけです。この煩悩からして実体的な存在ではないのです。念を体として念々刹那に相続して行く出来事でして、これ自身空なのです。

 選挙で、場合に依っては、気に入らないが成行き上・或いは義理で投票する・という事も有ります。そこには確かに自分の政治信念と、実際に選択した投票との間にギャップが有って、心に、矛盾を氾した・という悔いが残ります。時が洗い流して呉れる迄苦悩に成ります。

 しこりが残る場合も確かに有ります。然しそのしこりは、矛盾に絡んで発生した心理的なものであって、元の矛盾そのものではありません。二党へ同時に投票したい・というその矛盾は、諦めて投票した事で解消してしまいました。

 矛盾という事は、事態としては、行為の上で不可能だ・という事です。不可能だから迷いや不満や苦しみを生ずるのではないでしょうか。不可能だ・と判っていながら、共存して、両党へ投票したい・という欲・詰り煩悩が有るのですから、当然・迷いが生じます。

 迷いや苦しみが出て来る道筋はそうです。然し迷苦は元の矛盾そのものではありません。舞台(心行所)が理性から感情の舞台へ移ってしまっています。詰り・矛盾に即して迷苦を生じたのです。生滅法の理合でして、矛盾は滅し迷苦は生じ、流転した訳です。<矛盾即迷苦>と横転したのです。<即>の上下の繋がりは、矛盾や矛盾律の手が届かない運動で行われたのです。

 レストランへ行って、美味しそうで高い御馳走を横目で睨みながら・安い料理で我慢した・というのでは、これ又心内の矛盾が解けずに、不満や苦しみがしこりに成って残ってしまいます。

 ここが大事な所です。それは理性次元の事ではありません。選択上の矛盾の様でありながら、実は情量上の相尅にすぎません。矛盾は徹底して理性次元での出来事でありまして、情量(フィーリング・感情)の領域には発生しませんし存立出来ません。矛盾を情量上で論じては成りません。

 智・情・意で言うと、判断は意の領域での事……、ですから選択は意で行い、矛盾は智の領域で作り出し、苦楽は情で感得します。心は常に智情意未分の儘・無分別状態で働い・て居ますからこんがらかるのです。

 あっちへ遣ったりこっちへ遣ったりしても好いものならば、智で感じて・情で判断して・意で知る事も出来る筈です。でもそれは出来ません。何故なら智情意の定義・詰り・構成概念に違背しているからです。智と言い情と言い意と言い所詮は名付けた仮名でしかありませんが、仮名でもその構成に違背したら仮名でさえもなく成ります。

 判りました。さて、そうした煩悩苦が心の中に蓄積されて、又横転して智の上に新しい<選択上の矛盾>を生み出して行く……。こうした循環を繰返しているのが、我々の日常生活というものでしょう。こういう輪廻する事態に対してどう対処するかが、仏法では実に大事な問題に成って参ります。

 心の中に矛盾を生じたら実際に迷いばかりです。迷いが横転すれば矛盾に成り・矛盾が横転すれば迷いに成り、日常言語上では、迷いとは矛盾の異名でもあります。但し哲学上ではそう言っては成りません。我々はこういう矛盾に縛られない様にして行かなければ成りません。その為には矛盾発生の源である煩悩苦・更にはその源である無明煩悩の仕末が必要です。上手に仕末出来たら・解脱した・と言う。それは卵が孵って鳥に成った様なものです。卵は最早・非有で鳥は非無です。<卵−鳥>は非有非無・空です。解脱又空です。

 煩悩・業・苦が反転して……敵対相飜して解脱へ転ずるのですから、種に成った煩悩・業・苦は、無く成った・とも言えるし、潜在して<無という型・形>で有る・とも言える訳です。亦無亦有です。野兎は冬に成ると白く成り夏に成ると茶色に成ってきます。これは色が変っただけです。夏冬交替ですから、替った・が本当かも知れません。その様に煩悩・業・苦が解脱の方へ色変りした訳です。それをどう遣って実現するかが<教と行>の問題に成りますね。

 煩悩と般若(悟智)とが同時に表面へデンと居据ったらこれは矛盾です。不可能ですからそうは成りません。矛盾というものは、元々は念の問題ですから、起に即して滅する・という性質のものなのです。ですから、自分がどちらかを選ぶ・という意志を決める事に依って、念々の矛盾を念々に解消して行くのです。敵対相飜・というのはこの事です。一つ解消して・もう宜しい・という訳には参りません。これが凡夫の生活の当り前の在り方・というものです。

 論理操作の方は、合理性を盾に取って、無矛盾の線を歩もう・と考えます。矛盾に引掛からない様に避けて通り、矛盾を排除して行く訳です。実行不可能な所へ足を突込んで行ったら、行先が無くなって分別が発展しません。ですから矛盾律は、こういう論理操作をして行く基準として、交通信号の赤の様なものだ・と言えるでしょう。

 論理詰り分別ではそうです。人生にはその信号の赤に相当するものが、四悪道・迷苦・欲・煩悩・諸悪作業(さごう)などに絡んで色々在る訳です。但しこれ等は普通・避けては通れませんから困ります。迷います。そこで仏法では行非道を成仏道に変えてしまいます。敵対相翻という<即>の手法で変えてしまいます。この場合は信号の赤を青に切換えた様な具合に成ります。これで事態は無矛盾に成っている訳です。敵を味方化した訳です。

 行・非道、成・仏道とは『浄名経』(『唯摩経』)の「非道を行じて仏道を成ず」の事ですね。六道の諸悪作業という種が無ければ仏道を成ずる事は出来ない……。

 これは然し・非道の奨め・ではありません。悪事非道大いに結構・どうぞ御自由に・という放任でもありません。この事は天台大師が厳重に誡めています。已むなき事ながら非道をした場合という事だ・と言っています。それでもこの非道は観の対境と為し得、仏道を成じ得るのだ・と言って居ります。仏道は「諸悪莫作・衆善奉行」(諸悪は作す莫〔な〕かれ・善を衆〔あつ〕めて奉行せよ)です。末法の今でもそうです。法の為にでも悪を意図し実行しては成りません。

 そうすると、自覚という非合理世界も無矛盾性は貫かれている・という事ですね。但・同じく無矛盾性は貫かれている・と言っても、この事は、非合理領域でも矛盾律が基本的な柱として幅を効かせている・という事を意味するのではありませんね。

 意味しません。矛盾律の手は届きません。縦の自覚世界は無分別で<本>なのです。その無分 別行為というものを表現すれば、行無分別から教分別へ変って来たのですから、横の論理世界へ型変りして<迹>に成る訳です。「迹に非ずんば本を現すを得ず……」で、無分別は分別に依らなければ表現出来ません。表現すれば必ず分別に成ってしまいます。でも、分別に封ぜられると意を失します。

 こういう思考作用が有るからこういう行為が出来るのだし、こういう行為が有るからこういう思考作用が出来るのだ……という様にお互いに補い合い助け合い、お互いに行為と理解とを進め合い、相互作用をしています。思考と行為とは、働きとしては思考上・一応分ける事は出来ますが、究極の所は、ここからここ迄はこうだ・と分ける訳には行かないでしょう。

 そう成ります。特に自覚の為の反省思考は行為と思考とを兼備えていて、然も行為の方に重点が傾斜している訳です。<観>とはそういう事です。教に依る理解と思索とが行に依る反省反転を支えていて、観に於いては教が欠けたら行が行に成りません。観法不成立です。唯行主義は誤りです。繋馬に鞭です。

 自覚の非合理世界と矛盾律との関係は……。諸相が有ると・は思いますが……。

 自覚非合理領域で矛盾律は必要か否か・は難しい問題です。個々の反省をする場合ならば矛盾律は必要に成ります。世俗日常の倫理的反省がこれに当ります。所が・智の反省から反省への連鎖・と成ると、この連鎖連結の点位に就いては矛盾律は関与出来なく成ります。詰り自覚非合理領域(智域)では矛盾律無用に成ります。支配は受けません。

 では、普通の自我の自覚の反省を弁証法でする場合はどう成りますか。

 矛盾律からの支配は受けませんが、一なる我れが見る我れと見られる我れとの二つに分裂しますので、ここに自己矛盾を生じ、この為に<矛盾に拠る攪乱>を生じます。

 仏教での、仏果を追及する自行の反省の非合理領域ではどう成りますか。

 この場合は矛盾律から支配も受けず、矛盾に由る攪乱も生じません。というのはこの非合理反省操作は言語道断(論理ではない)心行所滅(概念操作でもない)の行(観行)でして、地獄等の四悪道を排して四聖を採り、六道二聖を排して菩薩界・仏界を採り、菩薩界を因位として果位の仏界示現に励む操作だからです。これは翻転操作に成ります。

 これを他人が脇から見て、九界の身で仏界を遣っている・何だか矛盾臭い・と言っても、遣っている当人の心地は仏界に成っていて、九界の方には成っていないのです。九界の心地と仏界の心地とを同時に展開する事は不可能だからです。これは矛盾律が全く関与出来ない操作でして全く束縛を受けません。というのは<九界待仏界>は縦型で矛盾関係――これは横型――ではないからです。同一なる我れの二分裂でもありませんから矛盾に拠る攪乱も発生しません。

 そうすると仏法は矛盾や矛盾律とは全く無縁であるかの様ですが、良心が豊かで頭の良い人程矛盾が発生するのだ・という事実に鑑みて、仏道修行者程・矛盾を多く抱えている筈です。自覚非合理領域は矛盾と無縁・というのは可怪しい・と思います。

 それはそうなのでして、矛盾は在る事は在ります。これは時と機根と教行との関係に就いて在るのでして、<時機>と<教行>との間に<矛盾>が在って<選択>を必要とするのです。大人に子供の修行をさせ、小供に大人の修行をさせても行は成立しないのです。これは、大学生を小学校に通わせ・小学生を大学に通わせるみたいな事に成ります。

 仏界を目指した自行にはそれなりの修行法が在ります。昔は時代毎に・持戒行でも読誦行でも四種三昧の禅行でも得道出来た時代が有りました。然しそれらは「時に依るべし」で、今そうして成仏出来る・という事ではなく成っています。時と機根……時機相応の行が必要です。<選択>が必要です。

 時と機根との適否を考えない立行は本人に取って矛盾します。適合していれば矛盾しません。こういう点は矛盾律・矛盾概念が尊重されている局面です。修行法は世間を見渡すと沢山在る、自分はどれを<選択>すべきか……。ここに思いが至る人は優れた人だ・と言えましょう。ここ――成仏願望→取行→願望不成就――の矛盾は仲々見えないものです。

 それ(時機相応行)に拠って実際に修行すれば九界即仏界が実現して、九界是(これ)仏界・に成りますから、地獄の儘に仏界に成っても、仮令・他人が「地獄と仏界とは矛盾する」と言ったとしても、矛盾律からの支配や束縛は受けない訳です。矛盾に攪乱もされない訳です。但、時機・教行・適否の問題・は教義の内容問題へ入りますから、この対話では深入りしない事に致します。


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