(3)<矛盾>は良心と智慧との勲章

 論理操作で矛盾を見破って排除するのは何の働きなのでしょうか。普通は理性・智性と言われていますが……。又自覚に就いて、知見煩悩なり知性なりから次々に起って来る矛盾を、意志の選択行為でその都度解消するのですが、これ又何の働きなのでしょうか……。理性・智性も唯の仮名にすぎなくて、この点、頼り無い感じもするのですが……。

 常識や哲学では理性・智性と言って、何か確固とした実体を持っている様に想定している訳です。だがこれは便宜の為に仮設した無性仮名で、ここからすれば甚だ頼り無い訳です。これ (理性・智性) は菩薩が達した徳から発する働きで、徳の方が事でその理が理性・智性です。この徳・理の体現者が普賢(理性の人)・文殊(智性の人)の二菩薩です。してみれば修行して功徳を積めば誰でも普賢・文殊に成れる・という事です。その本(もと)は本有所持の智慧です。問題は開発に関わります。

 本有所持の智慧を開発すれば確固とした理性・智性が獲得出来る。推理でも反省でも矛盾を見破り・選択して解消するのは本有の智慧なのですね。

 そうです。推理でも反省でも矛盾を排除し解消するのは本有所持の般若です。又・一面、智慧が有るからこそ矛盾に突当るのです。智慧が無ければ矛盾には突当らないのです。境智二法のうち智法側での智慧が矛盾の発生源なのです。普通、世間では、智慧で矛盾を避ける所から、智慧が有れば矛盾に突当らない・と思うでしょうが、実はその逆なのです。堕落(向下)に智慧は無用ですから矛盾は生じません。犬や猫には智慧は無いので彼等に矛盾は有りません。

 その話は前にも少し出ました。他人を吠えるのが犬の投目なのに、都会の犬は吠立てない様に躾けられています。これは常識的には犬の矛盾です。でも、傍らから人間が見れば、矛盾に突当っている・と人間が観察しているだけの事でして、当の犬には矛盾など何処にも有りません。

 小屋に繋がれて悩んでいる犬は居ても、矛盾に悩んでいる犬など見当りません。智慧が無ければ矛盾は発生しません。良心が有り智慧が有って利発だからこそ矛盾が湧き・矛盾を矛盾として感ずるのです。矛盾は、智慧が有る人間世界だけの事です。智慧が有れば有る程大きな矛盾を沢山抱えているものです。矛盾の無い人は度し難い小物です。矛盾は向上路にしか発生しないのです。

 ですから、矛盾は徳智優れた人の人生の勲章……。立大願者の勲章……。

 良心と智慧とに優れた証(あか)しとしての勲章です。善き大望の勲章です。

 確かに智慧が有って初めて矛盾を矛盾として把握する事が出来ます。然し又、智慧不足から来る無明が有るので矛盾に突当る・という面も有ります。矛盾の解消が出来ません。

 その一面も有ります。世間はそこしか見ていません。矛盾には善悪両種有り・です。

 認識や自覚に於いて、そういう無明の働きに由って我々は次々に矛盾の迷路へ迷い込む……その都度これを智慧で排除消滅させて行く。こういう両面が有る・と思います。そして無明というものは、磨潰して無くしてしまう事は出来ないので、但・法性に転換する以外に無い訳ですね。

 ですから智慧と無明というものは、全く別なものとして・智慧は智慧・無明は無明・と実体化して切離す事は出来ません。法性と無明とは鏡の表と裏でして、智慧を基軸にして明(法性)と無明とが裏合せに相依存立している訳です。智慧も無明も無体です。

 これは「理性体無し全く無明に依る、無明体無し全く法性に依る」(『弘決』)という訳です。無明も法性も縦に相依したもので、智慧の用(ゆう)でして、その体を求めれば智慧(般若)に帰着してしまいます。体は智慧です。そして又・この体も一応の話でして、実は<無体・不体・非体非不体>なのです。亦無亦有なる体・なのです。

 命題というものは、主語が示す人称の別に従って一人称命題・二人称命題・三人称命題・そして特定人称の主語を持たない不定人称命題とに分けられます。不可能の異名である矛盾を排除して行く点では、以上四つの命題で皆共通しています。ですから、矛盾律は全ての命題を通じて貫徹している事に成ります。

 全部共通です。唯・矛盾を排除なり消滅なりさせて行くオルガノンが違っているだけです。正確に言えば、一人称世界の合理領域では演繹的帰納法・結局は帰納法、一人称非合理領域では弁証法、二人称世界では類推法、三人称世界では帰納法、不定人称世界では演繹法……というそれぞれのオルガノンで矛盾を排除して行きます。

 ですから弁証法・類准法・帰納法・演繹法というのは、矛盾を排除して行くオルガノンな訳です。詰り・演繹上の矛盾は演繹法で、帰納上の矛盾は帰納法で、類堆上の矛盾は類准法で、そして弁証上の矛盾は弁証法で排除解消する訳です。例えば、類推上「乳は雪の如し」は、春先の泥塗(まみ)れな濃灰色の雪では成立しない矛盾に成ります。

 という事は、矛盾律を立てて置かないとどれも成立たない・という事でもあります。矛盾律を立てて置くから弁証法も類推法も帰納法も・そして演繹法も・役に立って参ります。矛盾律を排除してしまったら、一・二・三人称命題はどれも成立しなく成ってしまいます。矛盾律とこれを使うオル方ノンたる弁証・類推・帰納の論法・論理とが相寄って、初めて両方が成立ち、観察・観測から法則へ・と進む事に成ります。

 矛盾律は演繹法内の原理でして、所属する”自分の郷里”は不定人称の演繹法な訳です。これが弁証法・類推法・帰納法という他所の”土地”へ”出稼ぎ”に行く訳です。どんな”稼ぎ”で”給料”を貰うのか・と言うと、混沌の中から矛盾を選び出して排除する・という”清掃労働”で真分別を”組立生産”して、法則・真理・悟り・詰り<諦>という”給料”を貰って来る訳です。

 人は<諦>を得れば無上智慧が輝きます。この場合、矛盾はその智慧の理因と成り、智慧はその理果です。やはり矛盾即智慧です。普通は<矛盾即苦悩>ばかりが目に付きますが、それは斜眼(すがめ、邪見)で見ているからです。正眼(法眼)で見れば<矛盾即智慧>が見えて来る道理です。こう成れば<矛盾>は人生の<勲章>ではないですか。本来の矛盾は善悪無記のもので、悪にするのも善にするのもその人次第です。

 善に記して善矛盾を沢山作るのは仏様でないと出来ません。以上の帰結を踏まえて、一人称世界の論法である弁証法と矛盾律との関わり方を考えてみる必要が有ります。あらゆる命題界を通じて矛盾律は貫徹する・とは言っても、一人称非合理領域の弁証法の場合には、その貫徹という意味に他の場合とは異った面が出て来るからです。

 他の命題界の認識では、矛盾律に拠る無矛盾性の追及という事が、それぞれの世界の合理性を支え、真を保証していた訳です。所が一人称世界では、無矛盾の原則を何処迄も追求すると、遂に合理な認識の限界に突当ります。ここが一人称合理領域の終点です。その先迄進むと、合理性に拠って合理性の働きを否定し、遂には非合理の世界を開く事に成ります。これが一人称非合理領域です。

 その事は末木先生の『論理学概論』に判り易く説かれていました。

 こう成ると我々は、合理世界(横)から反省由覚の非合理世界(縦)へと転入する事に成ります。今迄ですと、そこでは弁証法しか通用しない・と思われて来ました。

 我々から見るとそこには大きな問題が有ります。非合理領域へ入る事迄は良いとして問題はその先です。一人称非合理領域を純粋に無分別で押通すのか・詰り・思考抜きの行動で通すのか、思考も行動の一種だ・とばかりに思考を雑え分別雑りで押渡るのか・という問題です。

 非合理を取扱う哲学では、何時もその辺が問題に成り、それでもはっきり致しません。多くは非合理思考を強調しています。

 正反合が予(あらかじ)め反省の事前から採用されるならば、これは分別(思考・推理)雑りですから矛盾律に左右されざるを得ません。若しも思考抜きであって、既に行動してしまった我れを反省して「これは不味かった、今後はもっと向上した行動を取ろう」と価値観から過ぎ去った我れを否定反省し、この為に結果論として正反合に成った・というのならば、これは矛盾律には左右されません。

 ヘーゲルでは「概念に内在する矛盾がその概念を否定して来る」という考えです。そこでヘーゲル以降を見渡しますと、「正に対して横型に、同一平面上に、正の中から正に矛盾する反が登場し、その正反が今度は自己矛盾に依って縦型に高次元の場へ止揚されて合に成る」という説き方に成っております。実際には、概念に内在するのは虚妄性の方であって、矛盾の方ではありません。

 これですと縦横混合で結局はドグマの域を脱しません。というのは、正と・正に矛盾する反とが横に<同時に>対立し、実際は異るのに、この<対立>が<矛盾>である・とされ、矛盾の概念内容が間違っているからです。同時存在は矛盾ではありません。

 この手で行くのならば、正しい概念としての矛盾は、正と反との関係に就いて在るのではなくて、「正反と合との間、詰り<正反−(止揚)−合>のこの<止揚>の中に、生(なま)の儘の矛盾として内含されていて、その儘又・合の中に持込まれてしまう」――と言うのでなければ正しくありません。矛盾の概念内在発生説は誤りです。概念の<使用>の方から起るのです。

 という事は、図式弁証法が、反省の事前から予め採用されるなら、それをオルガノンとして反省へ入る・という事は不可能だ、反省は成立しない・と言う事ですね。<止揚>の中に生の儘の<矛盾>が現存していて、正(見られる我)と(見る我れ)とは成立するが、矛盾の為に合(我れに就いての承認すべき正しい合理帰結)が得られない・という事ですね。

 そうです。合としての我れに就いての自覚・この肝心の自覚が得られないのです。果たして本当に正しい我れなのか正しい我れでないのか・さっぱり判らない儘で「我れ我輩は……」と言っているしか無いのです。これでは世俗の日常言語の用法に逆戻りで、哲学効果は何も出て来ず、<くたびれ儲>でしかなく成ります。

 と成ると、自我の自覚の弁証法は、ギリシャの正統弁証法の手法を継ぐしか無く成ります。それは反省後の結果論として正反合に成った・という行方しか有りませんが、それでも矛盾に由る攪乱は避けられないそうですから、自覚された我れは不確実の儘でしか出て来ない事に成りますね。

 そう成ります。この問題の出発点は、一人称非合理領域は、純粋に無分別(反省)だけで通すのか、それとも分別(合理)雑りで通るのか、どちらであるかを明らかにしよう・という事でした。その答が今出た・と思います。合理という分別雑りで通る・という方への答はノーです。無分別だけで通る方が正解でした。これは同じ無分別でも「不分別を行ぜず」とは違う事柄です。


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