(4)非合理世界の律法<選択>

 今度は仏法の場合、そうして開かれた自覚の非合理世界に於いては、四句分別も含めて、矛盾律は脇役として以外は最早登場しない……とすると、今度は、分別世界の矛盾律に代るべき主役としての律法が在るのか無いのか、在るとすれば自覚を推進して行く原理と成るものは一体何なのだろうか……こういう疑問が起って参ります。

 非合理領域は行為(無分別・反省)の世界であって、分別が捌き得る領域ではありません。横型推理や合理思考では捌く事が出来ないので、論理学の三原則(同一・矛盾・排中の三律)が介入する事は無いのです。然しこの領域にも矛盾は有ります。起ります。寧ろ矛盾は非合理領域で事(こと)起って、これが分別世界へ足を伸ばして来るのです。それではこの懸案(矛盾)をどうするか・矛盾律で排除出来ないならば何でどう解消するのか・という事に成ります。

 自我の自覚に就いては弁証法……結果的弁証法・という手法しか在りませんでした。そして世俗からは出られませんでした。

 仏法では問題・詰り懸案(矛盾)を、<選択>という行為に拠って解消するのです。理論面としては、選択をオルガノンとし四句分別を論法として反省を進めます。その事は次の話で申し上げます。ここではまず事実面の方から申し上げます。

 選択という行為は何も矛盾解消の為だけに使われる訳ではありません。これを含めてもっと広く効用を及ぼします。矛盾を含まない懸案(一例、高値・安値)も在りまして、これも選択に拠って解消するのです。詰り・事実面では、四悪道よりは人天を採り・六道よりは四聖を採り・二乗よりは菩薩・仏を採り・九界よりは仏界を採る選択行為がこれです。

 人間の十界互具は矛盾事象ではありませんから、反省→選択の順序で意志が選取る以外に有りませんが、そうしたい・成りたい・と思っても自由に出来る事ではありません。願望は夢に終るのが常です。

 そこで、因縁生起という・法(事象)成立のからくりが提出された訳です。人界なり天界なりが法として成立するには、人天の因と人天の縁とが仮和合しなければ成りません。因を欠いても縁を欠いても成立しませんから、人の側で因を整え、周囲条件の側で縁を整えれば可能に成ります。この因を整え縁を整えるには<選択>する・という<理に叶った行為>がまず必要に成るのです。

 これは常に一人称非合理領域に属する個人の行為ですね。同じ様な人が増えれば共通乃至似た事象が集る事に成って、社会現象化する事に成りますが、それにしても、事態は常に個人に属していて、終始・一人称非合理領域の問題です。

 そこが<一心法界>とか<己心の法><一念三千>とか、色々そういう表現で名付けられ言表される所です。意味する所は現代論理基礎論が用いる・一人称非合理領域での出来事・と同じ内容に成っているのです。一心・己心・一念……と・やたらに心が強調されている所から「唯心論だ・観念論だ」と評するのは筋違いなのです。非合理へ抽象その他の細工を加えず・その儘非合理を非合理として捉えた事実論なのです。直接把握です。

 以上を纏めてみると、行動の無分別世界(一人称非合理領域)には、@矛盾律は初めから登場しない・A分別世界の矛盾律に相当する主役は<選択>という行為である・B自覚を推進する原理は<選択>である・という事に成りました。非合理領域で懸案を解決する事が出来るのは<如何に選択すべきか>の原則以外には有得ない事が判りました。

 それは<より良きを選ぶ>(相待)から発展して、至高の仏界・という<唯一を選ぶ>(待絶)へ昇華して参ります。非合理世界の律法として有るべきものはこの<選択>です。

 <選択>は横の世界での矛盾(の解消)にも関係していましたから、横でも縦でも大きな役割を担っている事が判ります。

 より良きを選ぶ……貧乏よりは金持が良い・と言って一生・金を追続けて金持に成れば、世間では・天界だ・と言う。世間はそうでも仏法では・それは餓鬼道だ・と言う。執著だ・と言う。物欲織盛が支配欲織盛を生んで・天は天でも遂には第六天の魔界に成ってしまう・と言う。これでは至高の唯一である仏界には程遠く、迷妄の世界でしかありません。

 人間としては選択肢は十有ります。地獄界・畜生界・餓鬼界(上から順に十悪の上中下品・以上三途)・修羅界(下品善心・以上四悪趣)・人界(中品善心)・天界(上品善心・以上六道)、この六道輪廻の日常から脱して四聖(声聞界・縁覚界・菩薩界――以上九界――仏界)へ、遂には九界を転じて唯一至高の仏界へ・と<選択>する必要が有ります。

 仏界での自覚とはその事です。でなければ宗教(二人称世界)は只の世間の飾り、信仰(一人称世界)は只の世渡りの術にすぎなく成ります。この重々の<選択>こそ無分別世界での律法です。無智では至高の唯一が判らず、良心が無ければ至高の唯一は選べません。無二の信が無ければその唯一と合一出来ません。「(業の習いの)強きものは先に牽(ひ)く」(『止観』)でして、先業所成の善悪現心に引留められてしまうので、反省は容易な事では成就しないのです。

 事実面の話は終りましたので理論面へ移ります。論理上の矛盾律に対して、自覚上の選択という事を考えてみると、これは法の真実を把握して行く<観>に関わる事でしょう。観の究極は円頓三観です。縦型四句分別は三観のオルガノンとして在り、選択はこの四句での<有・無>を、順序を間違えない様に選択して行く所に機能を発揮する……。

 そうです。観法というのは<法>の方に力点が有るのではなくて、因行として法を観ずる<観>という行為に力点が有る訳です。当面現量法を観ずる・という行為です。この当面現量法が自分の現念であれば<観念>と言うのでして、哲学や今の世間で言う観念とは全く違うものです。念は憶持不忘作用の事です。

 「天台は観念観法だから低い、我々は事行の信心だから高い」――高低は教の浅深から来ているので・行の種類からではない――と公言する人に能く出会いますが、哲学流・世俗流・で観念という事を解釈している人に多いのです。勤行で御本尊という当面現量法を観じている癖に言うのですから無茶苦茶で、己心の修羅界を露呈している事には気付いていないのです。「強きものは先に牽く」とはこういう事を指している警句なのです。いや、それ以前に事実なのです。

 一念三千の観念観法・と言っても、この観念・観法の<観>という行為の内容をはっきりさせない事には、何も出来ない事に成ってしまいますね。

 観とは見る事のうち法眼つまり法智心・法慧心で(心で)見る行為の事です。この行為は結局・身口意の三業に成る訳ですが、表に意業を立てたのが天台・口業を立てたのが我々の勤行・という事です。共に禅法である事は言迄もありません。勤行中に時計ばかり見てちっとも落着の無いのは禅法に叶っていないのです。禅定行とは言えません。

 この<観>は天台の止観行ならば、法界に念を集中(止)して明らかに仏法事態(仏界)を見出し(観)合一して我がものとする訳です。<反照観察>といって、把握した現量法に対待して、反省を内容とする集中念の法慧力で見る事です。これが待絶不思議滅絶行です。

 その解説は解りますが、「遣って見ろ」と言われれば困ります。

 そこ(止観行)での<選択>の役割を言えば、<止>は「縁(念)を(選択した)法界に繋(か)ける」(『止観』)事ですが、これは念をその場その際の法界(一切法)に集中する事です。選択したその法界とは実は外界ではなくて、他(ほか)ならぬ自分の刹那陰妄の一念・現存只今の自分の九界の念なのです。只今の妄念を忽(たちま)ちに取って返して境法化した対象仮名我が一切法界なのです。これへ反省念を、散乱しない様に集中不動にするから見の二辺を離れた<寂>の状態に成ります。

 <寂>は、さびしい気配ではなく、二辺見を破し・集中不動で静かだがエネルギー・活力が満ちている状態という事ですね。強く働きつつある状態……。

 そうです。次に<観>ですが、無分別法界(陰妄一念なる一切法)から何を<照>らし出して――以上で寂照――どう受取るのか・と言うと、地獄や人界ぐらいを受取っても仕様が無いのですから、九界の身に仏界を受取る。この仏界は理としては本有所有で元々身に備わって(理存)はいたが、冥伏して今迄表には出て来る事が無かったものです。これが妙法でして、これを見付出して受取る。

 受取った妙法仏界は最初だけは教法ですが、取ってしまえば己が智法化します。その為には予め智法の側・観者の側が仏が教えた妙法を信じて持っ(持経)ていないと成りません。これが因の方で、受取って智法化した教法の妙法仏界は果の方です。因の方はまだ暗くて・その何でみるか・が身に着いてはいなかったが、行業因果を成就し境法智法が一如に合して、今度は正真正銘身に着いた訳です。ですから「妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」「説己心中所行法門……天台所行の法門は法華経なるが故に」(立正観抄)と言われているのです。

 『止観』一部は詮じ詰めると結局はその事を説いているのですね。

 そうです。こうして九界の身に仏界を受取る。十界互具の中から選び出した訳です。ここに重々の選択の中でも至高の唯一を選び取る・という究極の<選択>の役割が有ります。<選択>と口では簡単に言えますが、何しろ相手が相手ですから、この行為は、実際に行う事は容易ではないのです。勇んで為す勇と無分別智を竭(つ)くす猛との一大勇猛心が要ります。不雑無間の精進行に成ります。

 では三観のオルガノンである四句分別と<選択>との関わりはどう成りますか。

 四句分別を三観のオルガノンとして使う・という事は、教え示す仏様や天台の方としては化他照立の立場から説いて教えている訳です。でも、受取る衆生の方はそうは成らない訳です。ではどう成るのだ・と言うと、教えられ受取る方としては自行のオルガノンとして、上へ昇って行く方向・詰り・遮破の為のオルガノンとして受取り、実際この方向に使って行く訳です。ここに四句に対する両者の用法に大きい違いが有ります。

 では今の質問への答はどう成りますか。

 三諦を言語で説明すれば仮は<有>・空は<非有非無>・中は<亦無亦有>という型に成りますが、これは原形<古式ではなく新式原形>としての四句分別です。これは有・無が縦型に使われている訳です。仮は現量<感覚知>で空と中とは思量<反省知>ですから、非有非無・亦無亦有は反省量・詰り思量の上での<判断>です。

 この、思量である事と判断である事とを見失えば・一切合財が判らなく成りますね。

 そうです。外道は四句分別を横型に使った・と申し上げましたが、仏教でも横型に使う場合は沢山有ります。然しその場合は必ず<応用型>に限られるのです。実例を挙げると『大般若経』の滅生・断常・一異・来去(不滅不生・不断不常・不一不異・不来不去・以上で八不中道)がそうですし次のもそうです。

 「三界之相、……非実非虚・非如非異」(『法華経』寿量品)。「仏曰く無明は内にありや否や、外にありや否や、内外(亦内亦外)にありや否や、非内非外にありや否や、徳女答えて云く否なり」「(事例を四句に挙げ尽くして)まさに知るべし四句に心を求むるも不可得なり」(『止観』)等々がそれです。

 「非内非外」と言うのは四句の顔を立てた単なる言葉の綾の様にも見えますが……。

 無明は、分別上見えない明らかでない・という事だけには留(とど)まりません。反省しても見えない明らかでない・という無分別上の無明の方こそ正体なのです。無分別上の無明が根幹で分別上の無明は枝葉です。無分別は境智を分けないばかりか、境に就いても心内へ泛んだ全部を相手取り・その内外を分ける事は有りませんから非内非外な訳です。無分別法界(無分別界は境智合体している)には(分けないので)内も外も有得ませんから非内非外です。

 以上に挙げた実例は横に使った応用型ですが、観心で得た三諦は応用型では決して表現出来ず、――作なら作・力なら力・の個々の三諦表現ならば応用型でも表現可能――必ず<原型>でなければ成りません。縦は原型に限られるのです。兎に角・四句分別は三観→三諦の仕方を分別形で示すオルガノンですから、四句の使方を心得たから・と言って三諦自体が身に得られる訳ではありませんが道しるべの役は果たしているのです。

 高速道路に在る「この先左八百メートル横浜方面」と記された道標の様なものです。縦型の四句分別の仕方で辿って修行して行けば、必ず三諦に辿着く・という訳です。四句と<選択>との関係は、判断に就いて挙げ得る全ての型を尽くす事で円満な判断を得て、<不備や片寄る判断を排除し>て仏界に相応しい三諦を<選び取る>という事です。


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