(5)形式論理と四句分別とは排除し合わない―― その一

 山内得立教授は近著『ロゴスとレンマ』の中で「非有非無は排中律を逆転させるものであり、却って容中律と名付けるべき事態を言表している」(取意)と主張しています。実際には氏は矛盾律の方には言及してはいませんが、それならば排中律ばかりではなく、矛盾律にも破棄解消乃至逆転の言が出て然るべき事にも成ります。

 そうならば、同一律はさて置いて、論理学の基本原則である矛盾律と排中律とを、四句分別の第三レンマ(非有非無)と第四レンマ(亦無亦有)とが、破棄解消している・という考えを、どの様に判断したら良いのでしょうか。

 矛盾律 「現実に存在する相反する力の働きや矛盾を拒否するのではない。単に『或る命題とその

       否定命題とを 〔同時〕 に共に真とは為し得ぬ』と主張するのみである」。

 排中律 「『矛盾する一方の命題がもし真ならば、これと他方の偽なる命題との間には中間はない』

       とするのみで、或る命題を真偽いずれかに決定できると主張するのではない」。

(『現代哲学事典』講談社現代新書)

 同一律(AAであって非Aではない・という律)と矛盾律と排中律とは不定人称命題を扱う論理学の柱です。今質問で示された所の意味は、非有非無は矛盾律・排中律そのものを・間違いだからと打破している・という事ではない訳です。勿論、矛盾律は間違いだから形式論理学そのものが無効だ・とか、二律は間違いだから四句分別の中へ持込むな・とか言っている訳では全くありません。

 レンマとしての非有非無は「直接把握世界の中では排中律を突破って有(肯定)と無(否定)との中間事態を成立させているから容中律が成立している」と言っている訳です。「直接把握の体験世界ではそうだ」と言っているのでして、客観世界でもストレートに・直ちに・そうだ・と言っているのではありません。客観世界への容中律持込ではありません。

 体験世界と客観世界・という差を見逃せば氏の所論とは違ったものに成ってしまいます。理解出来なく成りますね。

 山内氏説に依る迄もなく、本来、縦型四句分別の世界には、論理学の矛盾律と排中律とは手が届きません。詰り役割違いなので初めから追出されています。二律を四句分別の中に持込むのは無意味です。この事は既に申し上げた通りです。

 生活の場面で、非有(否定)と非無(非非有=否定形の肯定)とを同時に認定する事は、若しも横型ならば心理操作上不可能です。縦型で<有でも無でもない=非有非無>という(判断の)<中間的一事態>を認定する事ならば可能です。容中律が成立します。

 それを見習って言うならば、一人称非合理領域では矛盾律に代る<選択律>が成立している訳です。同一律の代りに<不一不異律>が成立している訳です。すると

推理の基本原理

反省の基本原理

同一律

不一不異律

矛盾律

選択律

排中律

容中律

という事に成りましてこれは正しい訳です。然し矢鱈に言葉を作っても仕様が無いのですから遊戯染みた事は止めましょう。

 四句分別が横型の論理ならば、<非有非無=有でもなく無でもない>、これは矛盾律では「前半と後半とが同時には成立しない」筈です。こうなると四句か矛盾律かこの一方を破棄しなければ成りません。

 連れて排中律では「前半と後半との間には中間が有得ない」。詰り・不定人称の形式論理ではこうなる筈です。それなのに横型四句分別は、前半と後半との同時成立と、前半と後半との中間の在り方としての<非有非無の全体>とを主張し容中律が成立しています。こうなると四句か排中律かこの一方を破棄しなければ成りません。

 それは<亦無亦有=無くて有る>という句に就いても同様です。句のレンマの形としてはそういう形で言表されています。山内氏は・現実の生活は直接把握だからそう成る・と言っています。実際を言うと、一人称非合理命題界のなかの事だからそれで通用するのです。現実生活の直接把握とは一人称非合理領域での操作ですから、氏の言う所は正しく、容中律が成立します。

 容中律という用語は山内氏が作り出した熟語ですが、氏の研究ではそう言える・という事です。氏の立論の範囲では私も賛成致します。ですが氏は、横型の四句分別を用いて万事を叙述する(比量の)立場の中からそう言って居るので、やや無理が有ります。生活は縦・四句は横・では困ります。

 その氏も・四句分別は直接把握のレンマ法だ・と強調して、四句の第三句第四句そのものだけは論理学論理の対象から外(はず)し、形式論理の枠外へ置いてものを言っています。これをあと一歩進めて、四句は縦型の反省論法だ・と気付けば一切がはっきりしたのですが、そうではなかったのが残念です。恐らく仏在世の六師も、四句に就いては応(まさ)にこの同じ点で迷っていたのだろう・と思います。

 暫く叙述と反省とを未分の儘にして話を進めて参ります。四句分別の方から論理学の矛盾律・排中律を見たら、これらは単に捨てるべきものなのか、又、生かして使えるものなのか、どうでしょうか。

 四句を横型に使う場合でも第三第四の句内構造は縦型に成っております。反省構造であって叙述構造・詰り・思考構造に成ってはいない――そういう<判断である>――この事を認めなければ四句に関する一切は目茶苦茶に成ってしまいます。認めた上で四句を横型に使いたい・というのであれば一向に構いません。

 そうであれば・その横型叙述論議は、実際には縦横混合の論議に成ります。そういう文章を見せられたら、読む方は迷うばかりではないか・と思います。

 ですから原型に対して応用型の四句が生れた・のでしょう。応用型ならば叙述用・横型用として極めて通りが良くなります。

 では今の質問に就いての答は……。

 叙述用の横型の場合でも、第三句第四句の原型そのものは、その儘判断の羅列として提示され成立している以上、矛盾律と排中律とは第三句第四句の中では効力を持つ事が出来ませんから、第三句第四句の句内では破棄する訳です。そして第一句と第二句との間・第二句と第三句との間・第三句と第四句との間では、矛盾律・排中律は生きて通用する……という事に成るでしょう。

 「世界は有るものでもあり無いものでもある」の様に、実際にそうした文章に当面したら、事実問題として、理解出来るかどうか・非常に困難に成りそうです。

 それはそうです。そして、縦型四句分別の場合に成れば、矛盾律・排中律は四句分別の全部に亘って効力を持たない事に成りますから、四句分別の中では破棄する訳です。でも四句分別で形式論理の中(なか)を見たから・といって、形式論理の中で捨てよ・などと言う権利は四句分別の側には無い訳です。

 そして、形式論理で四句分別を見ようとする者に対しては、そういう見方・従って矛盾律・排中律を適用しようという見方は捨てよ・と主張する権利が四句分別の側には有る訳です。

 その点は判ります。然し四句の句内に就いて矛盾律・排中律を破棄し捨てる・という話には、学問上大きな不安が残ります。

 では今迄とは逆に四句分別の側からものを言ってみましょう。元々四句分別は古・新の因明以前から在りました。現代の論理学論理と基本が全く同じ演繹論理である新因明が成立してからも、四句分別は捨てられた事は有りませんでした。この事は釈尊在世当時迄使われていた形式、詰り・元の儘の形式、一に有・二に無・三に亦有亦無・四に非有非無・に就いて、三と四とに就いては「その成立を認めよ」と主張している事に成ります。

 この主張は<亦有亦無><非有非無>の句内構造に就いて、この中に矛盾律と排中律とが入って来る事を許さない・両律の介入を許さない。出て行け・と命令している事に成ります。非有非無の応用型である<不一不異>を見れば判る様に、「AAとして同一のものでもないしAと異るものでもない」と主張しているのですから、同一律にも「出て行け」と命令している事にも成ります。詰り・形式論理の三原則に追放令を下しているのです。誠に破天荒な命令です。度肝を抜かれます。

 この命令が果たして正当な主張か不当な主張かは別として、そういう主張である事は認めざるを得ません。我々にはこの主張が正当か不当かを検証する以上の事は出来ません。そういう主張である事自体を拒否する権利は誰にも有りません。

 古形式の亦有亦無も非有非無も、ゆっくり時間を掛けてまず非有と認め・次いで暫く間を置いて非無と認めた・というのではないのです。一時に非有と認め同時に非無と認めたのです。一時同時の非有非無です。矛盾律・排中律の侵入を許さないのです。反省使用の縦型四句でなくても、横型四句でも許さないのです。釈尊の縦型使用の非有非無でも空、外道の横型でも・外道の空・なのです。

 非有非無に就いて「一切事象に就いて、実体としては無い(非有)が現象としては有る(非無)、非有非無はこの様に理解すると正当に成立つ」という御意見を某先生からお伺いしました。

 それは正しい・と思います。然し実体論者の六師の場合に就いては通用しない事に成ります。勿論、六師の方が間違っているからではありますが……。六師という実体論者も又・非有非無(=空)を主張していたのです。一部の外道の独覚(二乗)がそうです。この為に「二乗は沈空尽滅して無余涅槃に入るしか無い、それは成仏成道ではない」と仏様に弾呵(叱られる事)された訳です。

 某先生の御意見に就いてですが、それならば、「現量は<真実としては>無い(非有)が<事実としては>有る(非無)」と言う方が尚広く成りませんか。これならば実体論者六師にも通用致します。兎に角・現代の諸学説内でも<空>の方は認められています。それでいながら<空=非有非無>なのに非有非無の方には文句を言う。兎角・文句を附けたがる。句内から矛盾律・排中律を追出すのは不安だ・等々と言う。これは何処かが間違っていませんか。推理へ執著してしまった見惑でしょう。

 そう言われればそういう事に成ります。認めながら文句を言うのは矛盾です。これこそ矛盾律の誡める所です。方程式<(ab2a22abb2>の、の上は認めるが下は認めない・と言うのは矛盾です。同様に空を認めて非有非無に文句を言うのは成立しません。何故なら・空が矛盾律・排中律をそのなかに含む・とは誰も考える事が出来ないからです。

 山内氏が「非有非無はレンマだ、ロゴスではない、排中律を適用してはならない」と言うのはこの点を避けているのです。句内では矛盾律・排中律を破棄していても別に不安は残らない筈です。尚、亦有亦無は空の双照表現です(後述)ので、古形式の四句分別は仮と空との表現だけで止まっていたのです。この事が間接に<中>を示している事でもありますから、それはそれで良いのですが、昔は直接に<中>を表現する四句の形式句は未整束だったのです。


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