(6)形式論理と四句分別とは排除し合わない―― その二

 そこ迄は明らかに成りました。先へ進んで下さい。

 論理学では文章に就いて、意味論・語用論・構文論の三つが語られています。非有非無の構文は同一律・矛盾律・排中律を締出した形式で表明されています。意味論からはこれは<判断>です。概念ではありません。すると問題は語用論の一点に絞られてしまいます。

 そうすると、語用としては、横型(叙述)の場合は、<非因非果>の様に、有・無・の所へ概念名辞を入れ替えて使えば何の問題も起りません。そして仏法では将しくそうして来ております。寿量品の「非実非虚・非如非異」などもこの事を弁えて読めば了々としてその示す所が解る筈です。

 原型の儘の<非有非無>は、論理学で言う叙述用としてではなく、詰り比量としてではなく、反省自覚の思量のオルガノンとして縦型に使われております。釈尊−竜樹−天台に於いてはそうです。これならば句内から同一律・矛盾律・排中律を追出してしまっていても一向に差支えは無い事です。従って<矛盾に由る攪乱>は起リ得ない事に成っております。

 反省自覚という事は合理世界ではありません。一人称の合理領域でもありません。まさしく一人称非合理領域に属する行為です。この領域には<論理>は存立し得ず<論法>しか存立しません。

 そういう事です。釈尊に於いては、四句分別は<論法>であって<論理>ではなかったのです。竜樹・天台・又然りです。

 そうしますと、自覚の領域では同一律・矛盾律・排中律は完全に捨ててしまうのですか。又々不安を生じそうですが……。

 そうではありません。自覚の非合理領域では究極は・同一律・矛盾律・排中律・所か、四句分別さえも捨ててしまいますから、この無分別の非合理領域内では棄て切ってしまいますが、自覚の合理領域内では捨てていません。そして化他へ出て来る局面では、説く為に再び世俗の分別の中へ這入(はいり)込み・用いますから、捨切るのではないのです。だが、化他の局面でも、その中で形式論理を用いる時は決して捨てない・四句分別を用いる時には決定的に捨てる・という立別けた使方をするのです。

 この事は当り前と言えば余りにも当然すぎる事ですが、兎に角そうするのです。そして四句分別の使用目的は、無分別へ指向する様に使っているのですから、最後は一切合財分別を捨て四句を捨てて、無分別の実践領域へ、化他の相手共々帰入融入してしまうのです。言語道断・心行所滅です。仏法は実践体得が根本です、理論は補助です、指針です。

 言語道断・心行所滅・と言うと、言表も心意識活動も已めた空漠とした虚無・みたいに受取られそうですが……。

 それは又後で……。でも感応道交(かんのうどうきょう)して発心すれば、全体無制約の言語道と仏界を信ずる心行とが出て来て、言語道・心行所が再出現します。南無妙法蓮華経と信じ(心行所)唱え(言語道)ます。虚無には成りません。虚無どころか活力溢れた眞実有(中道有)の実存法界です。天台の大止観禅法行でもそうなのです。「天台大師行法日記に云く読誦し奉る一切経の惣要(南無妙法蓮華経の事)毎日一万遍と」(『修禅寺決』)です。

 分別と無分別との関係で答を出されましたが、思量内分別の領域の事としての四句分別と同一律・矛盾律・排中律との関係に就いては、まだ答には成っていない様に思います。仏法では常に、破立とか体内・体外とか、死法門・活法門とか当分・蹄節とか、色々そういう事を言って、反対な事が生返る面が随分有ります。こうした面からすれば、思掛けない反対局面が出て来はしませんか。

 まずその用語を説明して置いて下さい。

 <体内・体外>は、低義の経が高義の経の中に取込まれてその高義で読み解(ほど)かれるのが体内。高義の経の外(そと)に在る低義の経がその儘の低義で読み解(ほど)かれるのが体外です。

 <死法門・活法門>は、一代説法を通じた根源法が判っていない為に法門が効力を失っているのが死法門。根源法が判っているので法門が有効に働いているのが活法門です。

 <当分・跨節>は、その儘その所が当分。それより一関一節を跨(また)げて一重立入った所が跨節です。爾前当分・法華跨節という様に使われます。爾前の効力はそこその儘だけで終ってしまい、法華の効力は法華と爾前の両方へ蹄がって働く事を指します。

 充分な答ではない・というのは尤もな御意見です。四句分別と同一律・矛盾律・排中律との関係でも、実は破棄の一面と保存の一面とが有る・と思います。破棄の一面に就いては山内氏説の通りに容中律と言うベき局面が現出しています。ここから又、私が立てた新しい四句形式に戻って話を進めます。

 そこの所を注意深く調べてみますと、破棄の面は既述の通り第三・第四レンマの個々の内部構造を調べ・ると出て来る事なのです。単空(但空)単中(但中)の個々の内部では打破解消……というよりも・矛盾排中両律を追出して介入を許さない一面が出ているのです。非有非無は否定形を以って同時に無と有との存立を肯定していて、両律を追放した表現に成っています。亦無亦有も同様です。これに就いては今迄説明して来た所で尽きています。

 ではその保存の一面と言いますと……。

 保存の一面は四レンマ四つの連関使用の、句と句との繋りの中に保存されているのです。

 とすると「縦型四句の中からは、矛盾律・排中律は全面的に追放されている」という前の話が嘘に成りませんか。

 嘘か本当か暫く聞いていて下さい。というのは、第一第二レンマは世俗上の判断です。第三レンマで<非有>と言うのは、世俗外部感覚上での<有>という第二句現量判断を、意根の・勝義の脈絡法感覚の上から<非有>と反省判断しているでしょう。

 ですから非有と否定はしても、それは決して現量上の無でもない。実有でもないがさりとて実無でもない。非実非虚です。そこで<同時>に<非無>です。詰り・外部問題が内部問題化されたのです。この局面では、言語形式上でも矛盾律・排中律は追出されて、敵対相飜の<即>という局面に成っています。句内の上下は不一不異なる反省の繋りです。

 ですから能く見ると、第一第二レンマは世俗の外部感覚判断で、第三レンマは心に取込んだそれを反省した勝義の脈絡感覚判断で、判断が置かれている舞台(心行所)が互いに違っています。ですから各レンマ間では両律は別に打破も解消もされずに保守されているのです。これが思量の特徴です。

 判る様な判らない様な話です。でも、句と句とが横型配置ならば両律破りに成る事は判ります。縦型配置ならば両律が破られない事も解ります。でも、破られていない事はストレートに保守されている事には成りません。必ずしも保守されている事に成ならず、保守されていない事も対等に成立します。

 これ(直前の答)と同じ事は第一第二レンマと第四レンマとの間でも・更に第三レンマと第四レンマとの間でも・全く同様に成立しています。以上の順序を逆(第四→第三→第二→第一)に辿っても同じ事に成ります。第二句と第三句との間・第三句と第四句との間には、中間の句を作って入れる余地は全く有りません。この事は句間に排中律が生きて現存して働いている事を示しています。

 以前に示した様に、<無→有→非有→非無→亦無→亦有>は<→>の個所が否定の連鎖ですから、異形の中間句を作って入れる余地は全く無いのです。中間句を作って第二第三や第三第四の間へ入れれば矛盾が起りますから、やはり矛盾律も生きて働いています。詰り四句の順序、この構造の形式組成の所に両律が生きて働いているのです。

 こうして、反省法としての四句分別からは全面追放されていますが、四句間の順序連絡という反省順序に就いてだけは矛盾排中両律は保守保存されていたのです。ですから前の話が嘘だったのではないのです。

 それならば解ります。詰り、世俗→勝義・自行面→化他面・という<脈絡の連絡>の中では保守保存されている・という事ですね。

 そうです。第二句<有>を否定して第三句の頭<非有>へ達し、第三句の終りの<非無>を否定して第四句の頭<亦無>へ達します。これは否定→否定→否定という経過で、決して、否定並びに肯定・肯定並びに否定・という様な矛盾律に違反する様なプロセスには成っていないでしょう。矛盾排中両律はきちんと守られています。

 以上の通りですが、四つのレンマは詮ずる所・一瞬に用いるのですから、因果倶時の様に倶時に用いられます。灯を燈せば明と暗(闇)との来去が同時に起る様なものです。両律の破棄と保守も倶時に起ります。

 ですから、破棄・保守も二者択一に捉えては成らないでしょう。それは決定的実体的破棄・保守ではないのです。択一絶対的に考えては成らない訳です。長年培った先入観念に縛られては成りません。非保守非破棄(破)、亦破棄亦保守(立)と、こういう風に心得なくては成らないでしょう。

 してみると多くの場合は、四句分別と矛盾排中両律との関係に就いて、何かしら何処かに実体論的な、そして択一的な思考が、払切れないで残ってしまう・という傾向が有りましょうね。

 どうしてもそう成り勝ちです。仏法以外の諸学は実体仮定から出発していますので、仮定である事が忘れられて仕舞い勝ちです。思量を比量化して考えたい情量や、実体論的な思考の仕方、二者択一に拘泥る執著、これはもう大概の人に附纏っていますから、余程注意して掛かりませんと引摺られて実体論へ転落してしまいます。全く要注意です。息二辺止……二辺を離れよ・です。

 円頓止観行は一時(同時)に空仮中の三観を成就する・と言い同時性を強調します。すると同時性・という点で矛盾律に抵触するかの様に成りますが、この点はどうですか。

 遮照の仮→空→中→空→仮は感覚→反省→再反省→再々反省→再々々反省・ですから一時(同時)に成就する事は心理操作上不可能です。時間に必ずズレが有ります。

 円頓止観行に於ける同時性は、感覚→反省→再反省→……の結果を、更にその後、メタ言語的に振返り総括して初めて<一時(同時)頓悟の空仮中>という<瞬時性・同時性>が会得され主張されたのであって、丸々の最初から同時性の主張が成されているのではありません。

 従って訓練して慣れなければ実際には出来ないのです。<慣れてプロセスを先取りして法界に立向かう>という訓練が要ります。<同時>は訓練後の人にだけ成立するのです。すると三諦が同時に得られます。現に我々の勤行もそう出来ております。

 それだけですか……。

 更にこの<一時つまり刹那>は生活時間上の事ですから<何時でも>という含みと<或る時間幅を持つ事>が了解されていて、厳密な物理的同時とは異ります。それならば何秒・何分間迄は許されるのか・と問詰られても困るのですが……。兎に角・悟ったその時はパッと一瞬に解了するのです。判る迄は長くても「解った」と心が開けた際の時間は一瞬です。

 ですから円頓行の場合でも同時性を原則とする矛盾律には束縛されていませんし、と共にこの律法を破壊も排除もしていません。超越しているだけです。但し分別化して空は非有非無・中は亦無亦有・という文章にすれば、言語用法の形式上では破壊し排除している様に見える訳です。これは已むを得ません。

 ざっと以上の様でして、形式論理と四句分別とは互いに排除し合っている間柄には有りません。四句分別というものは断じて言葉の綾ではないのです。仏法に於いては血の滲んだ実践修行の真実言説だ・という事を忘れては成りません。安手な一般論では取扱えません。


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