(7)不可説を因縁あるが故に説く

 同一律・矛盾律・排中律の件に更に立入ってみたい・と思います。四句分別ではこの律法の取捨は択一ではない・という事でした。それには四句分別に就いて、どういう局面では論理三律が役に立たないのか・どういう局面では再び生かして使われるのか・という関係が明かになれば好いのでしょう。

 論理三律を盾にした四句への論難や疑問は、四句分別を横に並べ、合理という客観の領域へ引張込むから出て来る訳です。原型の四句分別は全く縦だけの非合理世界での反省法です。論理三律は横の合理世界だけで通用する律法ですから、非合理の領域へ持込んでも毒にも成らなければ薬にも成らない事は既に述べた通りです。

 四句分別が論理三律を<捨>てる方ではそうでした。<取>の方ではどう成りますか。

 四句が三律を<取>る方は、句間の組成順序に就いて<取>っておりました。四句の構成が不合理(これは非合理ではない)では、無分別へ指向し・且つ無分別を分別化する四句分別が正当に成立しないからです。もう一つ……、四句を正しく解説するには三律を用いなければ成りません。この様に四句と三律との内部関係及び四句分別自体に就いては、正確には<施・開・廃>の意味で理解して頂きたいものです。

 施・開・廃・は天台大師が立てた三義です。<施>は、世間に通用している権迹法を化導の便宜の為にその儘在来りに通用(施)させた・という事です。<開>は、その権迹法を本義の力で切開く・という事です。切開けば中から本物が現れます。<廃>は、本(ほん)の実物が現れた以上、権迹法は用済ですからその使用を廃める・という事です。施法を壊してしまう訳ではありません。

 「迹に非ずんば本を顕すを得ず」ですから持出して使うのが<施>です。というのは、<本>は無分別ですからこの儘では理解の仕様が有りません。<本>である事すら判りません。分別化しないと以上二点が理解出来ません。本を分別化したのが<迹>の言説です。そこで、「為実施権迹」と言って、本を顕す為に権迹を施し用いる・という事に成ります。

 「開権迹顕実本」の<開>は判り易い・と思います。

 医師の手術でも患部を切開けば病患部と健全部とが現れ、悪い所を切除けば良い所が残ります。<開>(本の力)で権迹を切開けば中から本物が現れます。

 <廃>に就いては……。

 <廃>は使用の廃止です。ここに事典が在ります。私が読んで皆判ってしまったとすれば、もうこの事典は要らなくなるでしょう。捨てるでしょう。捨てるからといって破り棄てたりゴミ箱へ捨てたりする訳ではありません。詰り、廃は、権迹法を壊す事ではなくて、用が無く成ったから用いない・棚上げした・というだけの事です。権迹法自体には何の変更も起きてはいない訳です。

 仕舞込んでも用が出来たら又取出して使う……。

 自分に取っては用済でも、化他の為には又取出して使います。論理三律は、この様に、自行反省の面では廃しても、化他説明の面では又使うのです。用が済んだら又廃して仕舞います。化他説明の為には又何度でも使うのですから<廃して廃していない>……これが遮照・破立の局面です。再度使用が照立です。廃して廃していませんから亦廃亦不廃・非廃非不廃です。分別もこの為に使われ、使われる以上は施開廃の為に使われる訳です。

 空仮中は反省内容、四句分別はその反省形式であり表現形式でした。この自覚内容や形式を言語に表現する場合には共通の理解が必要で、これには横の世界の言語表現に頼るしか有りません。すると論理三律に従わなければ成りませんが、非有非無・亦無亦有は矛盾律・排中律に従った表現形式ではありません。この為に兎に角理解し難い事と成り、色々と形而上学的な議論が乱て参りました。その実例は後で取上げます。

 四句分別は縦世界の事で、主語は縦横共に同一で変りませんが、縦に自覚して行った内容は、縦を横化して、必ず横の述語世界に直さないと表現出来ない事です。縦の自覚と横の記述、これを切離す事は出来ません。論理三律に従っていない非有非無・亦無亦有とはこういう事だ・と説明する部分は論理三律に従っている必要が有ります。句の表現が三律に従っていない事と、その説明記述が三律に従っている事とは、全く違った問題です。

 三諦と四句分別との関係は、言う迄もなく三諦が本・四句が迹です。分別・無分別では三諦が無分別で四句が分別です。四句は判断であって概念ではありませんが、階梯を踏む以上やはり思量分別です。言語道断の無分別から見れば、三諦という教説さえも分別という領域へ入ってしまう事に成ります。

 無分別は<説>では必ず分別に依ってしか表現も伝達も出来ませんが、分別では、どうしても、表現も伝達も仕切れない大事なものが取残されてしまいます。車に跳ねられ(無分別)て「痛い!」(分別表現)と言っても、この<痛さ>は充分には自分でも表現出来ないし、誰にも伝わらないのです。

 詰り、分別は、無分別をムリヤリ合理的に分別表現している訳です。取残された<大事なもの>も因縁あるが故に別に説く事が出来るのです。これが・不可説の可説です。「不生不生(円教の立場)も不可説なれども(四悉檀の)因縁あるが故に亦説くことを得可し」(『止観』)と言うのがこれです。「不可説」という事は、縦のものを横に直し切れない部分が残ってしまう事を物語っております。

 分別は施・開・廃のコースでその役割は消滅してしまいます。この分別の基準ルールは矛盾律でした。それでは何を無分別の基準として四句分別が立てられている事に成るのでしょうか。

 そのルールは<選択>以外に在りません。反省→自覚・再反省→再自覚……と重々に縦に深く掘下げて選択する。この事が根本基準です。反省自覚は行為であって理解ではありません。<解>ではなくて<行>です。<行>は矛盾律を守る事を基準にはしませんが、反省選択行という根本基準を立てた上で、言説面では矛盾律を守る事はしている訳です。

 立てたルール(規則)を客観化し、内法を外法化すれば、おのずからロー(法則)に成ってしまいます。四句分別に就いてもそうです。このロー化した四句分別を取上げて色々な形而上論議が生じております。

 論議はどんな論議をするのも自由です。でも反省自覚という無分別行為の中に根を持っていなければ・四句分別を把握する事は出来ない・と思います。この四句分別さえも・不可説を説く可説・としてのレンマ式でしかない訳です。

 このレンマ式はルールとして人が定めたものであり、それには合理性に貫かれていなければルールではありません。どういう合理性に貫かれているか・と言うと、既述の通りに、@否定で繁っている事と・A句間は論理三律を守って順序付けられている事・の二点です。このルールの式に基いてローとしての空仮中が把握出来る事に成ります。


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