(8)形而上論議は通用しない

 排中律は、或る判断とその否定との間に第三の中間判断は無い事を示す原理です。記号論理学では命題をPとしてPV〜Pという選言の形で表現され、Pと非Pとの間に中間は有得ない・という主張に成ります。この「有か無か」(有V無)という選言を否定すると「有に非ず無に非ず」(非有∧非無)という連言に成ります。これが山内氏の言う「排中律の逆転」局面です。これは第三レンマの非有非無に他なりません。

 横の合理世界では必ず・有か無か・で、この中間判断は許されないが、縦の非合理自覚世界では<有にも非ず無にも非ず>という・有と無との中間・が厳然として在る・と言う。山内氏はこの事態を容中律と名付けました。してみれば横の分別世界の排中律と・縦の無分別世界の容中律とは、否定的に相即しながらお互いを成立たせ合っている・とも言えるでしょう。

 これは・排中即容中・の<即>の相翻関係に成っております。即は反省否定ですからそう成ります。山内氏はこれを『ロゴスとレンマ』で色々説いた訳です。その帰結は氏にお任せする以外には無いでしょう。

 本筋へ戻って、空から中への推移を見ますと、仮→空・空→仮と言っても、非有非無という事態には縁起の法としての十界が関わり合います。心の態度・と言切ってしまえばそれだけですが、この心が一体・地獄なのか餓鬼なのか……仏界なのか・という、その色分けに従って空の方も皆事態が違って参ります。<無所得・空>の辺だけが共通します。

 「この花は美しい」と言い、「美しくない」と言う。盲人には言明不可能だが・又・闇夜では言えないが、兎に角そう言う。何処を足場にして言っているか・というと、人界か天界か・精々六道の足場からそう感じて言って居ります。結局・十界の果報が違うと<一水四見>に成ってしまいます。ここでは花の例ですから”一花十見”とでも言うべきでしょうか。この場合・花だけが<在る法>で・美の方は<知る法>です。これ等は、明らかに見据えると、本来無所得なのに実存上で所得し感じているものです。美とは、心の外側に見えながら、実は内側の(調和感に関する)脈絡感覚だったのです。

 詰り実際には<美という存在を所得した>のではなくて、自分と花との縁起関係で、<関係して現れた実存の仮有>を感得したのです。<美>は<在る法>ではなくて<知る法>だったのです。縁起の焦点を<自分なり>に感じ取ったのです。この焦点が縁起仮有法という法・詰り・現象・というものです。ですから十界の全部を見通すと、美しいとも美しくないとも言えないでしょう。美しくなくもあり美しくもある・とも言えます。不美不醜では気分が出ませんから・非美非不美・亦不美亦美・という事ですか。結局・双照の無記中道・一色一香無非中道です。

 法と十界との関わり合い上、選択上の段階を解消して行く場合、そういう中道の自覚は、どの様にして具体的な姿に成って現れますか。

 中道の場合は、どちらを選んでも差支えない様に成るのが中道です。Aでなければ成らない・とかBでなければ成らない・とか一義決定へ執著する心の態度を捨てた時に、中道が現れて来ます。Aを選んでも好い・Bを選んでも好い・どちらを選んでも得道への障りには成らない。どうしてもAでなければ成らない・としがみ付くのではない……中道はこういう様に成ります。相待の選択を卒業して唯一待絶の選択で自覚する訳です。

 そうすると中道は、執著を離れた態度・という事に成ります。有得る全てを公平平等に取扱う・という態度にも成ります。例えば、論理への執著を脱したから・といって同一律・矛盾律・排中律を壊してしまう訳ではなく、その儘にして置いて全ての分別へ執著しないだけです。用が出来たら無執著の態度で使う事に成って参ります。

 そういう事に成ります。容中律は”無執著律”という性格も内蔵している事にも成ります。分別は智慧の所産でして、横の舞台での必然な真理を示します。観には無力でも教には必要・に成ります。「教に非ずんば観を知る事なし」「迹に非ずんば本を顕すを得ず」です。

 四句分別を横の論理世界に引戻して理解しよう・とすると、困難な問題に直面してしまう事が指摘されております。以下は主に欧米方面での意見ですが、要約して次の様に成ります。

「四句分別は又四句否定とも称される様に『真理は有に非ず、有且つ無に非ず、又両者より成らざるにも非ず』として、四句の全てを否定し、四句を超えた所に中観の真理が在るものと考えられて来た。

 Pを命題として四句をP,〜PP∧〜P,〜P∧〜〜P,――伝統の古形式――と表現すれば、第三句は第四句に等しく成って共に矛盾律に反するばかりでなく、四句の全てを否定する事にも成り、無 意味な操作にすぎなく成ってしまう」

中観論の研究で著名なカナダのリチヤード・ロビンソン教授などに依ると

 「こうした困難を避ける為に竜樹以後の中観論者達は、例えば亦有亦無を『或るものは真実であり 或るものは真実でない』という二つの特称命題に量化して解釈した。又或る場合には、他の句は全 て否定しながらも、非有非無だけは最高の真実を表すものとして最後迄否定しなかった」(要約)

と述べております。以上には欧米の四句分別観・『中論』観が端的に現れている様で、我々の理解とは余りにも掛け離れている事に驚かされます。

 四句分別を四句否定と名付けたのは誰ですか。四句に依る重々の否定だ・と四句分別の機能を言うのならば妥当ですが、四句否定を四句分別の別名にしてしまうと誤りです。今のロビンソン氏説は大いに怪しい・と思います。自分の考えに都合の好い史実だけを取上げて組立てたフシが見えます。

 天台より後期のインドの人・月称・清弁両派の論争に見られる様に、インド中観派も末期に成ると分派して論争に明暮して居ましたし、それらを調べた今の学者も色々と議論を立てる訳です。こうした現在の末流の色んな形而上学的論議は、釈尊の立場からすると誠に困ったもので、そこで仏様は・二者択一の問い・形而上学的な問い・には答えないで「そんな事(形而上論議)をしているよりも、お医者を呼んで来て早く病を治しなさい・苦の解決が先だ」(阿含部より−取意)と言ったのです。

 この問いへ答えようが答えまいが人生苦は在って変りません。これは『箭喩経』に出て来る話で、毒矢に当った患者を取囲んで毒矢の分析を始める様な態度(形而上学的行方)を改めよ・と仏様が誡めた……と述べられているものです。四句分別を四句否定と呼んだのは、今の人ではなくて、もっと古くから始っている・と思います。インドがイギリス植民地だった頃、英人が仏教研究を開始した初期からではないか・と思いますが定かではありません。

 四句否定は四句分別の機能の一部ではあっても全部ではありませんから、直ちに四句否定という別名にするのは不味いです。四句否定では、鰻論議に成って、サンジャヤ外道が遣ったのと同じく矯乱論に成ってしまいます。これが悪取空なのです。否定否定で遂に最終の肯定を得る事が無いので<悪取>なのです。

 これは古型の四句分別を横型に用いるからそう成るので、「四句の全てを否定し超えた所に中観の真理がある」とか「両肯定句を特称命題に量化……」とか「他の三句を否定して非有非無だけ残した」とかの悪取論に成ってしまうのです。縦型に用いれば鰻論議にも矯乱論にも悪取にも成りません。遮照の遮の立場では分別の一切を遮断してしまいますが、照の立場では再び分別の一切を認めて来ます。仏の気命として大いに使います。

 尚、鰻論議・というのは、四句否定はのらりくらりで掴まえ所が無い所から来ている様に見えますが、これは実は・何とか・と言うサンスクリットの誤読から起ったのだそうです。英語のOとUとは発音も近く字も紛らわしい様に、梵語のスペル(綴り)が昔から一字だけ(一音だけ)似たのが誤られて諸本に伝えられた為に<鰻論議>と用いられて今日に及んだそうでして、正しい熟語は<懐疑論>とか<矯乱論>とか何とか・言うのだそうです。それが何だったかを今私は忘れてしまいました。

 否定に就いてもう一つ言ってみると、仏法で取上げられているのは、常に、勝義・真諦を求めて、その為の否定だ・という事です。今挙げた欧米式の考えでは俗諦しか出て来ません。これでは筋が違ってしまいます。仏法で扱うのは縁起した五蘊仮和合の当体です。縁起仮立した主語の当体である事件に就いて、有か無か・という四句分別を遣っている訳です。

 無に就いて四句分別は出来ません。無い主語は分別の仕様が有りません。分別の対象は常に有であって無ではありません。そして分別の終点も常に有です。否定(無)だけで終れば命題が完結せず、尻切れトンボです。未完命題は結局は何事も叙述しないのと同様です。そして虚無感が生ずる事にも成ります。拒絶否定の態度だからです。

 それならば「四句百非・安息所無し」で遂にはニヒル化します。ああでもない・こうでもない・これで終り・という訳には行かないでしょう。仏像を作るのに、これでは仏像ではない、これでも仏像ではない……とあちこち削って、削滓(けずりかす)の方を集め取って終り・という訳には行かないでしょう。

 最後に取上げるのは、削滓(無=否定)の方ではなくて、削って彫った当体の方です。それは反省有です。この様に、命題は推理も反省も必ず有(現量の仮)から始り有(比量か思量かの仮)に終る……これが思考・反省・思想というものです。ニヒル(虚無)は思想ではありません。理屈を附けた情念・感情でしかないのです。情量です。


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