(9)四句分別と円融中道

 四句分別などの道標(分別)に導かれて行着く所迄行くと、遂に<教>(分別)の果てに達して<観>(無分別)へ辿着きます。円頓止観の一念三千は難しくて論議し兼ねるのですが、それでも断片的に二・三問題を出してみたい・と思います。文は次の通りです。

 「それ一心に十法界を具す……この三千は一念の心に在りもし心なくば已みなん……もし一心より一切の法を生ぜばこれ即ちこれ縦なり、もし心が一時に一切の法を含まばこれ即ちこれ横なり。縦もまた不可なり横もまた不可なり。ただ心これ一切の法、一切の法これ心なるなり。故に縦に非ず横に非ず……玄妙深絶にして識の識るところに非ず、言の言うところに非ず、ゆえに称して不可思議境となす」(『止観』正観章・観不思議境)。

 この不思議境は無分別境でして、そこへ達する為の三観のオルガノンが四句分別でした。この四句分別は日常生活の迷妄無分別法、この・分別以前の無分別法・を否定する所から出発したものでした。そして四句分別して、分別を総括した無分別法としての・双照建立の円融中道である一大不思議境へ到達した訳です。これは<境>とは言いながら究極の一大智法(知る法)です。

 分別以前の無分別を否定した所が四句分別の第一句<無>でしたから、四句分別の実質は第二句<有>と第三句<非有非無>第四句<亦無亦有>との三つで構成されていた訳です。その先は<絶言の四句>の領境で、これは直ちに・分別を総括した無分別法・である事を意味します。絶言四句是れ不思議境です。この「境」は内法を外法化したもので、外に在る<在る法>ではありません。

 まず<観>という行ですが、我々は天台のこの行は採りませんが、それでも観一般は人間のする事ですから、全く俗界から掛け離れた別世界の出来事ではありませんね。

 <観>とは仏果を目指す<因行>です。縦空入仮の仮・詰り双照された仮は反省の思量仮であり、従仮入空の仮は現量その儘の虚妄仮です。空仮中という順序の言方は、仏法は空から始る事を示していますが、それにしても最初は仮空中と・現量の仮からしか始め様が有りません。ですから縦仮入空から始ります。円融の空仮中はその上で皆・再反省上の思量に成っているのです。仮も亦・建立の思量仮で、もう虚妄ではありません。非実非虚の如実仮です。如存仮です。

 これは勿論世俗ではなく勝義で、俗諦を絶した真諦ですが、俗事ではなくても俗界から離れたものではなく、俗界に即し俗事に即したものでしょう。ですから観一般は日常行事のなかにも在る筈です。

 縦仮入空観と言い縦空入仮観と言い、この枝葉みたいな事は誰でもしている事でして、そこから言うと観一般は極めて身近に在る訳です。会社で上司は部下を使って行く訳ですが、育ち・容姿・履歴などの見掛け・データの現量仮から、人柄・才能・特徴などの諸性質・詰り器量・という比量を推し計り再吟味(反省)して……反省思量の”空”を得て上手に人達いを仕様とします。

 この観察(比量)再吟味(思量)がピタリと合えば”中”で、合わないと見当外れで”中道”に成らないばかりか、自分が欠陥上司だ・という証明に成ってしまいます。これは従仮入空観の枝葉の様なものでしょう。部下を見て、これは見込みが有る・仕事をするに違いない・大成するだろう・と先物買いをしたり、将来性を見越す・などは縦空入仮観の枝葉の様なものでしょう。日常の事例はこんな風に色々在る・と思います。

 ここでの一心・一念心は、文としては境法の心・対象化された<見られる方の心>の様に見えますが、その実、初信の凡夫の智法の心・現在刹那陰妄の動念・詰り<見つつある方の一心>ですね。だからこそ「心是一切法・一切法是心」と成る……。

 そうです。心は但之れ名のみなり・という見る心・見ている我れです。この仮名我に就いては非識非言で何事も述べられませんが”無理”をして述べている訳です。一心も一切法も「常にみずから有るに非ず」で相依和合して両者が成立っている。心と一切法とが無分別の儘にそこに現れている訳です。

 こういう心や我れは決して実体では有得ません。ですから自我の自覚の為の反省をして、我れは何か・と追及して行くと、答は<何か>の線からズレて<如何にあるか>という構造論の答しか出て来なく成ってしまいます。何の因縁を以って我れが現前しているのか・という事に成ります。

 我れ詰り自己が独立自存の実体個体だ・と言うならば、「月給も貰うな水も飲むな空気も吸うな」と外からの援けを一切遮断してみる事です。そうすると、「勝手に生きている」のではなくて<縁の援け>で「生かされている」事が能く判ります。分析癖が付いた・因(自分)と縁とを切離す現代風の”自主”路線の考えが勝手な盲断(妄分別・ヴィカルパ)にすぎない事も解ります。

 <縁>も又<私>の構成要素なのでして、諸縁抜きの<私>は有得ません。結局<一切法全て自分・常に自分は一切法>でして、この在り方以外に自分は無く、法と心とはそこが不一不異で・心是一切法・一切法是心・なのです。してみると私というものは、自力・独力だけで「生きている」のではなく、自他の合力に依って「生かされて生きている」訳です。「この上半句を勝手に切捨てるな!」と言いたいのです。我見・我慢の・正当な根拠・など何処にも実在しないのです。見慢は迷妄念でしかない虚妄法なのです。我れに我有り・との我見は諸見の総大将です。巨大虚妄法です。

 「俺が生きている」では、自我意識から心が驕ぶり慢じて<我慢>に成ってしまいます。我慢心は在家の一大特徴です。

 出家は上慢を起し在家は我慢を起す・で、我慢は在家には取分け危険なのです。「我見は諸見の本たり」(『止観』)で、正見以外の一切見が諸見ですが、この諸邪見の大将が我見です。諸邪見は皆・我見から派生して来ます。「我が在る・実体が在る・俺という実体個体我が在る」……この自我意識が<我見>です。これが自省心を追放します。

 見は慢を生ず・で、この我見が我慢心を生み出します。我見へ執著している内に慢心を生む訳です。実例は偉い人程多く見掛けます。という事は、出世はしたが反省心は持合せていなかった・という事です。自(みずから)ら省(かえりみ)る事能(あた)わず・では、反省習慣が無い訳で、仏法は倫理的にも論理的にも反省法なのに、これでは全く仏道修行には馴染まない訳です。

 詰り・実体論者は仏法に馴染まない・仏道修行をさせても一向に馴染まない・という事ですね。六師も洋風の唯物論者も・そして現代の実体論者もそうですね。実体・本質を言張っている内は見込無し……。

 そうです。「在俗は矜高(こうこう)にして多く我慢を起す、疵(きず)を蔵(かく)し徳を揚(あ)げて自ら省ること能わざるは是れ無慙(無慙愧・不信)の人なり」(『文句』)「自ら省ること能わざるは我慢を釈す」(『文句記』)です。この我慢のもとは我見・実体見・本質見なのです。本質・実体を言張る人は見込が有りません。単なる<結縁衆>です。

「一心より一切の法を生ぜばこれ縦なり」では、一心一切法との関係を時間軸に絡めて見ており、「心が一時に一切の法を含まばこれ即ち横なり」では、一心と一切法との関係を横型に空間軸上に展開して見ています。そして縦も不可・横も不可、非縦非横・心行所減・言語道断・と成ります。概念操作・論理的推理ばかりか世俗的自己反省さえも及ばない・と言う。

 一心と一切法との関係は、直接に知る現量的な立場からは未分の儘・縦にも横にも見えます。<縦の関係>に見えるから縦でもあるが、反省して見る(思量)と縦関係ではない。同じく<横の関係>に見えるから横でもあるが、反省して見る(思量)と実は横でもない。一心は述語する側でもないし一切法は主語存在でもない。……こうなるともう手には負えません。「非縦非横・不可思議境」と言っております。主述・縦横・不可分・未分……総合の儘です。

 非縦に就いて述べてみると、縦は反省して見る自覚法の対象領域ですが、ここでの反省は・一応の話では・我が一念心の過去の五蘊九界の行績を再吟味して・心生一切法・という関係が見えた訳です。所がここでの一念三千は現当の為の現の、然も只今刹那の一念三千ですから、能く考えてみると・原理上・一切の指示や吟味・言明・は不可能で・この為に・反省は反省でも過去に関する再吟味を突抜けてしまっています。だから非縦という事に成る。現に働きつつある一念の三千です。

 同じ事ですが、非横の方は<一時に>心含一切法・という空間的存立関係が見えて、今作動しつつある我が五蘊の<一念>と<三千なる一切法>との間から、合理上の矛盾が一切排除解消されたとしても、それでも心の病い・特に菩薩の空病・などは一向に治らない。これでは「一念病心非実非真・即是法性法界」(『浄名経』)と言ってみても只のヤセガマンです。そこで結局は非横だ・と言う。この無分別法を悟るには、結局は、智慧は智慧でも無分別智に頼るしか無い訳です。

 その無分別智は、我々では以信代慧の信、純一無雑の無疑曰信の信ですね。

 御承知の通りに智慧の活動には二筋有ります。一つは観察から推理へと進み、一つは直接把握から内省(反省)へと進みます。空や中は反省から得たものですから推理の筋からでは判りません。相性体の相は「縁生の故に空なり」と説かれていますが、「縁生ならば何故空なのか」と推理の筋で追ってもどうにも成りません。縦・横・の筋違い・だからです。

 分別智ではどうにも成らない所に無分別智が必要に成って参ります。非縦非横は四句分別も何も彼も超えてしまった所に位置している訳です。当面した法を無上智慧で照らして自分が合一しないと、非縦非横の中道不可思議境は会得されないのです。

 仏法は教行共に中道である。釈尊を初め一切の仏の悟りは、どの様な仮名で名付けられて呼ばれ様とも・中道不可思議妙境の智法だ・と成りますと、内外相対の内勝外劣・内正外邪は明らかに成ります。

 六師は宇宙・世界を<物の集り>と考える個在観に立ち、個在(プドガラ)観から・事物・法には<実体=我(アートマン)・本質=自性(スヴアブハーヴア)>が<境法><在る法>として存在するもの・と考えて居ました。自己を含めた宇宙の万物は我を所持しているから・我の性質としての自性をも備えている・と考えていました。この為に法門は境法学説である形而上学学説に成ってしまいました。これが<有論>です。

 これに対して・釈尊は宇宙・世界を<物の集り>ではないと悟り<事件の集り>と考えて居た。事件・出来事の集りであるから諸因諸縁が寄合って・詰り・縁起して・そこに一つの<佇まい>として・組上げられた形として仮存している・という<縁起の法門>……これを論法反省の爼上に乗せる反省自覚法をお説きに成りました。

 自分にせよ他人にせよ・他の万物・万象にせよ、若しも個在しているものであり――これは世俗の日常常識上での錯覚にすぎない――我(実体)・自性(本質)を所有・所持しているものならば、これは決定して<在る法>その儘に不変な<厳有・実有>であって<仮有>ではないし、決して空にも中にも成得ない事です。三諦・一念三千・妙法蓮華経は成立致しません。境法が厳有なのであれば智法は働こうにも働けません。反省を加えても境は頑として加えられた力を撥ね返してしまいます。

 反省が効かないと悟りも得ようが有りません。推理推論で終り・にしか成りません。これでは科学か形而上学か・で宗教には成りません。一切の宗教は全て無益無用・不成立です。

 因と縁との相依・相待・これが一切法万象の姿である……因縁仮和合(そして因縁離散)・というのが・釈尊を初め一切諸仏の教説です。因縁法は<能顕法>であり<知る法>であって・絶対に<在る法>ではない訳です。ですから

  六師は  物と個在(プドガラ)とを同時に考えて我(常一主宰)・自性を説いた。

  仏 は  事物と個在とを単なる世俗常識でしかないと見破り、相依・相待の縁起・因縁仮和合

        (仮有)・無我・無自性・空・中を説いた。

 この決定的な違いから、詰り・出発点からの違いから、六師の法と仏の法とは決定的に別れている訳です。この出発点の違いから<内外相対>の法門が出て来るのです。こればかりではありません。

  六師は  悟りとして天界を説き、且つ・求めた。

  仏 は  六師が悟りとする天界・天界六道を・輪廻する迷い・と排して仏界を説いた。

  六師は 悟る方法として推理推論の法・有論(形而上学)を説き、その修行方法として苦行か

        楽行かを選んだ。

  仏 は  悟る方法として反省自覚の法を説き、推理推論を分別虚妄と排して

        不苦不楽中道行を説いた。

 三観三諦の観法も・妙法唱題の受持一行も・全て不苦不楽中道行である事は言迄も有りません。正像に於けるあらゆる仏道修行法も皆・不苦不楽中道行でした。無分別行でした。「不分別を行ぜず」(安楽行品・『止観』)で、分別作用は皆この中に内含されて融合っているのです。この行の中に四句も融合っていて円融中道です。

 反省自覚も認識も、要するに一切合財は、<因縁和合の仮有>と<因縁離散の仮無>と……<仮有>と<仮無>と・ここから始めなければ成りません。<仮有・仮無>から四句を<教え通りに>操作するから・不分別を行ぜず・なのでして、この為に分別作用が内含融合されているのです。この分別作用は反省分別作用に成ります。詰り、仮無・仮有から空へ・空から中へ・と進んで円融中道を成就したのです。因縁離散の際ばかりではなく、反省否定は決して実無ではなくて仮無です。確定・固定した不動の実無・厳無ならばどう仕様も無く成ります。


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