(9)論理性の自覚

 論理の面で<中>そのものを把握する・という事は、仲々難しい事ですね。

 そうなのです。<中>は<無でもあり有でもある>という事(判断)なのですから……。

 それは 『宗鏡録』の四句の第三<亦有亦無>と違っておりますが……。

 <無でもあり有でもある>というのは<亦無亦有>ですから御指摘の通り違っております。その第三<亦有亦無>の上下を逆転させて言った訳です。その訳はこれから順序に道理を立てて説明し て参ります。説明は相当後迄進んでからやらないと順序が立ちませんし、又・長い説明に成る・と思 います。

 その点はさて置いて、<中>の把握……特に理論としての把握は実に困難です。

 それには<中>に就いて<無でもあり有でもある>の前段階を出してみましょう。それは<中>は又<無でもなく有でもない>(非無非有)という事です。これは『宗鏡録』の第四句<非有非無>の上下を入替えた形です。やはり説明は後に回します。

 それにはまず<中>の教理的な区別・詰り<中>の教理・に就いての段階的な区別を説明して置く 必要が有ります。その・説かれた元意・は、教理として順序に理解を深めさせよう・という事です。それは次の三段階に成っております。

(1)但中………これは別教に説く中です。

(2)不但中……これは爾前の円教に説く中です。

(3)妙中………これは・超八の円教・と言って法華だけに説く中です。

 ではまずそれから説明してみて下さい。

 (1)の但中は「三諦各別で、空仮二諦を破して中諦を説く」と言われ「空仮二諦を除いてただ中道を論ずる故に但中と言う」と説明されています。この立場では「空仮を除かないと中道は立たない」とされています。確かに中は空とも仮とも違う判断事態を言表している訳ですから、これで道理が間違っている訳では決してありません。

 この立場では空や仮と中との関係は、今流行(はや)りのパック食品の様な間柄として取扱われています。詰り・空や仮という”パック”を破って捨てないと”中味”の中諦は取り出せないし使えない・という訳です。詰り・空仮と中とは各々別な訳です。それで<三諦各別>と言われます。

 (2)の不但中は「即空即中、即仮即中と、空仮の二諦に即して中諦の理を説く」と言われ、前の但中より一歩前進した立場です。然し中諦の<理>を説いて<事>をまだ説いていません。更に、中といぅのは空に即して得られる事だ・仮に即して得られる事だ・と言うに留まり、中を優位に据え、空仮を劣位に据えて、格差を附けて取扱っています。丁度、稲と籾と米粒の間柄の様に見立てています。

 仮は稲・空は籾・中は米粒・という訳です。成程・稲に即し籾に即さなければ用いる米粒は得られない道理ですから、これも決して道理に間違いは有りません。不但中の中諦はここで行止りです。詰り・中という判断を考える道筋を教えている訳です。この教法は論理的で、比量面から中諦を教えている・と言っても良いでしょう。

 (3)の妙中は、これこそ中諦の真実第一義を・詰り<事>を教えたもので、<思量の中>を教え示したものです。(2)の不但中では、仮に空仮中あり・空に空仮中あり・中に空仮中あり、中もまた空・中もまた仮、空・仮・中の間には格差無し・とは教えませんでした。(3)ではこれを教え、三諦の<渾然一体>なる事を教え示した訳です。建立の円融三諦を説き明かした訳です。これが真の中道論です。

以上は教相面の談道でして、ここではその事を問題にしよう・というのではありませんから、後で忘れてしまっても一向に構いません。でもこの予備知識が無いとここでの話は先へ進めないのです。

 では話を主題へ戻して、論理の面で<中>そのものを把握する・という事は、仲々難しい事ですね。

 そうなのです。寧ろ論理面からの把握は結局は不可能です。というのは<中>は叙述判断で得たものではないからです。反省判断で得たものだからです。<中>は因明や現代論理学では取扱えない事なのです。結局<中>は思量であって比量ではないから、論理面からの把握は或る程度しか出来ません。尽源為果(源を尽くすを果と為す)の無分別へ還っているのです。

 そういう事で論理面からの把握は難しい訳ですか。困難の理由は叙述判断と反省判断との<判断の質の差>から生じている……。分別・無分別の差からも生じている……。

 そうなのです。反省上での<亦無亦有=無でもあり有でもある>、という事なのですから……。円融三諦の<中>ではなく、<但中>だけを考えれば、<亦無亦有=無でもあり(同時に)有でもある>の前段階の表現である<非無非有=無でもなく同時に有でもない>という事で、この構文は形式論理学の矛盾律及び排中律と真正面から衝突します。空仮二観を破して・然も除いて・いきなり<無でもなく有でもない>という一項目だけでは建立面を欠き、別教の但中です。

 然し四句全部の繁りのなかのものとして見れば、<中>には<亦無亦有=無でもあり有でもある>という別の側面が出て来て但中ではなく成ります。詰り超八円教のなかの<中>は、後で説明します様に、まず『宗鏡録』の第四レンマ式を応用して使って『玄義』では<非有非空>・『文句』や『止覿』では<非空非有>(仮空の破)・と表現されています。更に第三レンマ式を使って<亦空亦有>(空仮の建立)と表現する事も出来ます。二重構造に成っております。

 古代のインド人が<有・無・亦有亦無・非有非無>という表現をどの様にして思着いたのか……。或いは、そういう表現をどの様な事情で使わざるを得なかったのでしょうか。

 四論というのは、初めは四つの句を平面的に横に並べていたらしいのですが、それがどういう動機で発見されたのか・という事に成ると、人間が物事を考える場合にはどういう風に考えられるか・という種類を徹底的に並べ挙げた……という感じなのです。

 そうすれば当然、この四つの句が出て来る事に成る訳で、然もそれ以外には考え様が有りません。その実質的・具体的指示内容がどういう事かは別として、形式的に出て来る訳ですね。形式は使用から起る……。

 そうなのです。人間が考え得る限りを考え並べたらどう成るかと……。だからこそ、<複の四句>とか<具足の四句>という様に、段々枝分れして来ます。ですから理屈だけで言えば、又その次に<複具足の四句>というのも在り得る余地が有り、又その先・ときりが無くなります。こう成ると、一種の煩瑣哲学みたいな……無意義な詭弁でしかなく成り、我々には用は無く成ります。基本の<単の四句>だけで充分間に合います。

 これは釈尊出現以前の昔に時間を掛けて、当時のインド社会の頭の良い人達が考え出したもので、初めから宗教と直接に結付いていたのかどうか……、その起源はぼやけていますが、洞察力に基く思索性に優れていたインド人・特有の思想・として在ったものでしょう。考えられる限りの判断を並べてみたら四句と成り、更にそれを整理してみたら<単の四句・複の四句・具足の四句・絶言の四句>と成った・という事でしょう。

 四句分別の判断というのは、インドではまず外道から始り、後には仏教と後世のジャイナ教徒――苦得外道の後身――に伝わり、そして中国と日本とでは仏教のなかだけで、あと外国にはまるで伝わっていませんね。

 昔のインドは随分西側との貿易をやっていますが、不思議に四句論法は伝わっていない様です。外道も仏法も紹介はされ・四句も情報としては伝わっただろう・と思いますが、異民族の宗教は仲々受容れられないものです。仏法は一時、ペルシャの近辺迄行ったらしいですが、論法としての四句分別は伝持されなかったらしいです。という事は、持戒と礼拝との宗教として伝わったので、なぜそうしなければ成らないのか・という・裏付に成る理論の良い所・は余り伝わらなかったらしいです。

 阿含部辺りでも四句分別は使われている・という事ですが、そうすると・仏在世の時の仏教徒は誰でも使っていた・という事に成ります。当時の段階で、彼等の四句分別に就いての論理性の自覚はどの程度有ったものでしょうか。

 それはどうでしょうか。社会一般での論理性の自覚以上であったかどうか……。釈尊の滅後七百年位経って竜樹が出現して、初めて大乗が固まったのですが、然もその竜樹自身ですら、四句分別を・一つのきちっとした論理体系だ・として見据えた形跡は無いのです。論法であって論理ではないからです。

 寧ろ、彼は四句分別を従来の仕方ばかりではなく、自覚体系の縦型の形式として使った所に特徴が有ります。四句の論法使用には注意を払っていますが、論理学化や論理体系そのものとして見据える事は、釈尊も竜樹もその後の人も、誰もした形跡が有りません。昔から<四句分別解説論>は一つも無いのです。在るのは<紹介書>だけです。

 これは論法であって論理ではなくても、四句分別と言う以上は分別である事に違いは無い事です。意識的にせよ無意識にせよ、分別は・無分別である事をまず否定した所から始る筈です。

 その無分別は六道の実際の日常生活です。この迷いの無分別を未窮為因(未だ窮めざるを因と為す)とも言いますが、この迷いの無分別から悟りの無分別へと求めて行く所に四句分別が働くのです。迷蒙無分別→四句分別→悟達無分別・という事に成っております。四句分別は分別以前の無分別を<否定>した所から始るのです。ですから悟りを求める為のオルガノンです。そして分別以後の無分別へ帰入して行きます。

 こう成ると・論理学や世上の常識は全く通用しなく成ります。特に<二者択一>は全く何の効力も発揮出来ません。常識で考えれば・有の否定は無・で・二者択一の操作が当然・と思っていますが、これが邪見に成ってしまうのですね。

 そう成ります。一人称反省世界では・二者択一・は効さません。「二辺を離れ寂す」とはこの事なのです。仏法(の反省世界)では、有を否定すると・無か空か中か・のどれか・に成ります。詰り<有の否定>からは、@無・A空・B中・の三通りが出て来て、この三つの内のどれであるかは、前後の文派とか・事態の局面とか・で決めなければなりません。言わば”三者択一”という形に成ります。然も”三者択一”で良いのではなく、次に更に円融させて<分別以後の無分別>へ帰入して行かなければ成りません。分別して分別以後へ行きますから「不分別を行ぜず」(『止観』)なのです。

 序でに述べて置きますが、仏法での<有>は仮有・仮で、仮は虚妄仮も仮諦(建立仮)も必ず<十界>を意味していて、決してこれ以外ではありません。漠然とした抽象仮・などでは決してないのです。必ず十界・です。十界を分別して仏界を求める無分別行なので「不分別を行ぜず」です。


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