(8)<絶言の四句>の意味

 第四番日の<絶言の四句>に就いてですが、ここで(『宗鏡録』で)の「絶言」という事は<言語道断・心行所滅>を目指した意で、言語に依る思索と伝達とを超越して体験の世界へ入る・立行へのきっかけ(契機)の立場・と採って好いのでしょうか。

 一通り・はそうだ・と思います。後で詳しく論じますが、実大乗へ入って来ますと<非有非無><亦無亦有>の二つのレンマ(直接把握)と<有>とで空仮中の三諦を構成出来、理論から・立行の<刹那一時の三観>へ転じてしまいます。ここが、本当の<絶言>――分別を融かし込んだ無分別――という事に成りますが、「絶言の四句」と言って「絶言」を附けたのは、本書(『宗鏡録』)のこの場合では爾前的な権教的な考え方での事です。馬鳴(めみょう)の「離言真如を目指せ」というのと同じ意です。

 馬鳴(付法蔵第十一世)の「因言遺言」(いんごんけんごん)→「離言真如」は、言語の働きの限界を言語を以って教え、これが判った者は言説から離れて<真如>詰り悟りへ進む・というコースを教えたもの・だと思います。まず分別に因(よ)って分別虚妄を教え、分別虚妄が判れば言語や分別への執著が消えるから一歩前進・という事に成ります。そうすると・後は、言語・言説・や概念に迷わされる事なく、立行という<行為の世界>へすっきりと入って行ける事に成ります。

 <絶言の四句>も同じ事です。本来、四句は言説を立てる方の用法なのですが、詰り、四句を言説として生かして使う用法なのですが、<絶言>の場合は「四句を以って四句を遣(や)ってしまう」……四句自身を四句で追放する方向へ使っている訳です。

 詰りは、<絶言の四句>は無分別立行への門・入口に成っているのです。立行に就いての大きな障害――色々な主張や思想や言語や・に依る束縛・や概念への執著――を取払う働きをしている所に<絶言の四句>の働きが有る訳です。世上の知識や他人の主張や自分が得ていた概念・などには一切惑わされない事に成ります。

 所が形の上では、単・複・具足・の三種の四句分別に就いて「その各々に一つの絶言の四句が有る」と言って居ります。この仕方は明らかにインド一般の古来伝統の仕方で、延壽は唯これを紹介しただけです。ですから、その各々に就いて四句分別を尽くした先……詰り・四句分別という分別の極ったその先の<言語道断・無分別>の領域を指している点では変らないでしょう。

 一般論としては変りません。でも一般論では普遍抽象に終って迷いは除(と)れません。悟道の正体は掴めません。<絶言の四句>というのは実に厄介なのです。

 「外道や・蔵教・通教・別教・での四句分別を尽くした先、詰り、外道や三教での分別を尽くした 先の無分別・絶言の領域では、その限りの法門内では最早・心も言葉も及ばないけれども、八十八使や百八煩悩が依然…として残っていて悟りではない。絶言は名ばかりで迷いだ。円教に成って初めて悟りの言語道断で、これだけが本当の絶言だ」

と言うのです。随分乱暴に纏めましたが『止観』の「正観章・破法遍」の所にそういう風に書いて在るのです。

 という事は、世俗から離れ・四句への執著を断って・然も仏界から四句を照らして見る・という事でしょうか。

 『止観』から見れば、「従仮入空の絶言」の方は・人は他の四句に執して争いを起して「失意の四句」にしてしまう、菩薩はこの失意の過(とが)を見て執を破し・迷いを払って「得意の四句」を得る・と言っています。これは「従空入仮の絶言」 の方です。そして<三権の絶言>は駄目で<一実の絶言>だけが本物だ・と言うのです。

 「開顕の四句……もし一実の四句に入れば皆不可説なり、仏教の四句はここに斉(かぎ)る」(『止観』 「正観章・破法遍」)

四句をも双遮し双照して、寂して照らして仏の四句にしてしまう。これが中道観に於ける四句分別に対する態度に成っているのです。


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