(7)四句分別の概観

  四句分別に就いては『妙法蓮華経玄義』巻第八下には、蔵通別円の四教にそれぞれ

 有門    (基体は蔵教)

 空門    (基体は通教)

 亦有亦空門(基体は別教)

 非有非空門(基体は円教)

の四門が有る・とされています。又『摩詞止観』巻第五下「正修止観・破法遍」には、見惑に就いて次の四つの別が有る事が指摘されています。

 一、単の四見

 二、複の四見

 三、具足の四見

 四、絶(無)言の四見

これらの点に就いて、『望月仏教大辞典』では、宋の延寿集『宗鏡録』(すぎょうろく)百巻の第四十六を引用して説明していますが、能く整理されているのでそれを少し見てみましょう。

 「且らく単の四句とは

  一に 有

  二に 無

  三に 亦有亦無

  四に 非有非無

 なリ。

 複の四句とは

  一に 有有と有無

  二に 無有と無無

  三に 亦有亦無有と亦有亦無無

  四に 非有非無有と非有非無無

 なり。而も複と言ふは四句の中に皆有無を説くなり。

 具足の四句とは四句の中に皆四を具するが故なり」……こう出ています。

 元々はこの四句の四つの区別は、使方の別ではなく・論理性の違いで、使方の違いはこれに基くものです。そして、第二の<複の四句>とは、基本的な<単の四句>の一つ一つに又更に<有無>を含む・という意味です。第三の<具足の四句>は各句にそれぞれ四句を加え含む事になり、段々枝が繁茂して行く訳です。単・複・具足・絶言・の四つは使方の別です。

 又第四の<絶言の四句>に就いては『宗鏡録』に次の様に在ります。

 「一の単の四句の外に一の絶言

 二の複の四句の外に一の絶言

 三の具足の四句の外に一の絶言

 との三つの絶言あり」

更に中国宋代の訳とされる『楞伽阿跋多羅宝経』第四(大正蔵版)にはこう解説されています。

 「四句は是れ世間の言説なり、若し四句を出づれば則ち四句に堕せず」

 この「世間の言説」と言う事が何を意味しているか……。いきなり結論だけを言えば普通の<俗世の言説>という事ですが、この経の場合だけならば、世間から出世間へ出て再度世間へ帰って来た・という意味の世間なのか、単純な唯の世間・の意なのか、どちらであるかはこれだけでは判りません。然し釈尊や竜樹が反省論法に使っている縦型の場合には、四句の後半二つは明らかに出世間の言説で、世間の言説ではありません。横型は世間言説です。

 続けて「若し四句を出づれば則ち四句に堕せず」と結んで居りますが……。

 悟りというものは、四句分別をも抜け出た所(無分別)に有る訳ですから、分別・論理・論法の段階に留まって俗人や二乗の境涯に堕ちては成らない・という意味らしいです。論理・論法(分別)は対境を切取って境・智共・部分化した所にだけ成立つ事ですから、これは当然…でしょう。

 『宗鏡録』 には更に続けて次の様に在ります。

 「法にありては四句と名づけ

 悟入には四門と名づけ

 妄計には四執と名づけ

 毀法には四謗と名づく」

 前の二つは善い方(正確には・法の四句は善悪無記)、後の二つは悪い方と、四句は使方次第で両刃の剣と成る事が断って在ります。まあこの程度の事しか書いて在りませんから、昔の人がこの四句分別をどういう風に考えていたか・という事は、余り軽々に論ずる訳には参りませんが、兎に角概略はこういう事の様です。

 昔の経文にはこの四句分別が自由自在に使われていた・らしく『望月仏教大辞典』に依れば、使用ではなく名目の方としての意味らしいのですが

 「雑阿含経第三十二、旧華厳経第十二、大般涅槃経第三十九、大智度論第三十八、倶舎論第二、第八、第三十、四教義第三、摩詞止観第二上、同輔行伝弘決第三之三等に出づ」

と在ります。『宗鏡録』は、宋(そう)の永明延寿が・西暦九六一年に広く諸経論疏を渉猟して撰した百巻の禅家の書・とされています。又『楞伽阿跋多羅宝経』は、『楞伽経』の四訳中・現存最古の第二番目の訳で、最も整ったもの・とされています。

 昔は、禅定修行をする宗派は全部「禅家」と呼ばれた訳です。『宗鏡録』は禅家の延壽の書・という点ですが、延壽は時代も下った宋代・十世紀の人ですから、達磨の禅宗の人か・と思ったら、そうではありませんでした。竜樹の中観派の漢土での後裔(こうえい)三論宗ながら、華厳第一義に気触(かぶれ)た三論宗一別派の派祖・永明寺の延壽(九〇四−九七五年・銭塘の人)……この人らしいのです。法性の起滅を要とし心性を宗とする・という教えなのだそうです。その人と成りに就いては私は知りません。

 禅宗は六世紀の初め頃ボーティ・ダルマ(インド人)がインドから中国へやって来て伝えました。天台大師は五三八−五九七年の人ですから、ダルマ(達磨)より少し後で、活動期は約半世紀ずれていますが、現在の仏教学界での一説では「天台がダルマやその禅宗に就いて言及した文章が見当らない所からして、天台はダルマという人物の存在を知らなかった様だ」と言っています。

 所が『止観』には「昔業洛の禅師(ダルマを指す)名河海に播(し)き住するときは四方雲の如くに仰ぎ、去るときは阡陌(せんびゃく)群を成し、隠隠轟轟亦何の利益か有る、臨終に皆悔ゆ」と述べております。

 更に「又一種の禅人……盲跛の師徒二(ふたり)倶(とも)に堕落す」「一種の禅師は唯観心の一意のみ有り或いは浅く或いは偽る」と・一種の禅法・禅人・を指して「此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり」と明示しており、これがダルマ禅を指したものである事は明らかです。天台が自分より半世紀前のダルマという人物を面識上では知らない筈ですが、ダルマの行蹟や・少しづつ広まり始めたダルマの禅人禅法の事ははっきり知っていた・と思います。

 妙楽の時代(八世紀)に成ると禅宗も大分世人に知られていたので破折の論述は多く成ります。

 妙楽に成ると「禅門に豫(あづか)り厠(まじわ)りて衣鉢伝授する者」「(『止観』に言う)一師唯有観心一意等とは……世間の禅人……観を以って経を消し八邪八風を数えて丈六(じょうろく)の仏と為し……偽の中の偽なり」とダルマ禅を論破して居ります。

 当時の世間では、ダルマが開宗した禅宗が世間に認められる様に成る迄は、天台宗の事を禅宗と呼んでいた・そうです。四種三昧の禅定修行をしていたからでしょう。ダルマの禅宗が禅宗と名乗って世間にも広く知られる様に成ったのは、ダルマから約三百年後の九世紀以降の事・だそうです。

 序での話ですが、中国と日本との禅宗の坐禅儀(坐禅作法)の書物は、直接間接を問わず皆・天台の『小止観』(『初学坐禅止観要門』・一巻)に基いて作られているそうです。仏祖不伝・教外別伝の宗には坐禅作法の仕方さえ不伝で・別伝されてはいなかった・様です。詰り・自家のものは大変粗漏だった・という事を示している様です。

 『宗鏡録』は十世紀後半に成立した・そうです。当時の漢土では仏典の文献整備事業と研究とがまだ盛んでしたから、『宗鏡録』は当時の学的流行の所産の内の一つ・だった事は確かでしょう。そこで、世に経典中の四句分別も大いに注目されていたから本書にも取上げられた・という事でしょう。実際、四句分別を知らないと仏典が読みこなせない位出て来るのですから……。

 『止観』には「外道の四句」と言って六師外道の四句分別が盛んに出て来ますから、インドの外道の方も盛んに使っていて、これが天台の注意を引いた・のでしょう。『止観』は後半に成れば成る程・四句が沢山出て来ます。特に正観章には応用型の四句が次々に山程出て参ります。四句分別を心得ないと『止観』は全く理解出来ません。


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