(4)釈尊も外道も用いた四論

 仏法で<空>と言いますが、これは四句分別の表現に拠れば、非有非無・詰り<有でもなく無でもない>という事になり、形式論理からすれば矛盾律と排中律とに引懸ります。又・亦有亦無・詰り<有でもあり無でもある>はこれも矛盾律と排中律とに引懸る事に成ります。何故ならば四句分別のこれらは同時性に基いての言明だからです。してみると、これは論理学論理としては目茶苦茶を言立てている事に成ります。

 そうなのです。その<有でもなく無でもない><有でもあり無でもある>という論法は、仏法では阿含部以来堂々と罷通っているのです。一番の原型は阿含部ではないか・と思いますが、皆外道の所為にして、或る外道は

 「この世の中は有る」

 と。或る外道は

 「この世の中は無い」

 と。或る外道は

 「この世の中は有るものでもなく無いものでもない」

 と。又或る外道は

 「この世の中は有るものでもあり無いものでもある」

と言った・と書かれています。そして、これに対する反論を色々並べて行く訳です。

 これで判る様に、こういう論法は仏法の中で発生したのではなくて、四句分別という一つの固まった形になるずうっと以前から、所謂<判断の四義><四論>という・インド人独特のものとして、釈尊出世以前から、仏法の外に昔から在った・という事が明らかだ・と思います。

 釈尊と同時代の六師外道の一人で、舎利弗や目連も初めはその弟子であった・というサンジャヤですが、彼に対する問いは、全ての問題に就いて<有る><無し><有りまた無し><有るにあらず無きにあらず>の四種の形式が用いられた・そうです。そして当時に於いて、或る一事に就いて・有得べき・従って言われ得べき場合は、これに依って全て尽くされ・この他には考え様が無い・と見られていた・という事が宇井伯寿『印度哲学研究』第三巻に指摘されています。

 古代インド人達が盛んに<四論>を用いて議論をしていた・という事ですが、仏教徒と言い外道と言っても・それぞれ特別な人種が居たという訳ではありません。同じ人種が外道的な考え方をしたり・仏教的な考え方をする訳ですから、共に四論を用いて議論をし・意見を戦わせ・そこに繁りが在ったのは・寧ろ当然の事と思われます。現にバラモンや六師の人達は・動機はともあれ、意見を聞きに盛んに仏様の所へ来て居ります。

 その辺の事情は中近東地方でも同じで、キリスト教もユダヤ教から出て来る訳です。ユダヤ教の中で・近い内に神の子が生れる・と期待されていた所、確かに生れて来たけれども、ユダヤ教側から言わせると・ユダヤ教に反逆してキリスト教に成ってしまった。でもキリストの方には別に反逆した積りは無い訳です。

 軌を同じくして……全く同じ・という感じなのですが、「やがて覚者が生れて来る」という伝説がバラモン社会の中に在った訳です。釈尊はその通りに生れて来てバラモンや六師を超えてしまいました。それで九横の大難に遭う程バラモン・六師側からは反逆・異端扱いされた訳です。内勝外劣を説いたからです。

 そして釈尊がインドに生れた頃は、貴族政治が崩壊する過程の社会の変動期でした。それも、貴族は各々自分の領土を国とは称しているけれども、これらの貴族が寄合って合議制でその地域諸国の政治を取っていた時代です。ですから決して統一国家と言う訳には行さません。この形態は、日本で言えば律令制度のちょっと前位の所でしょうか。日本でも統一の前夜は、朝廷というのは一つのシンボルみたいで、大氏族が蔓延(はびこ)り、その中に優勢なのが出て来ると、これに左右されて動いていた時代です。

 その点はギリシャのポリスも似た様な事情に在り、ギリシャ全土が統一国家であったのではなく、各ポリスが独立していました。このポリスは合議政治でして、各ポリスは交流したり戦ったりでした。

 ですから、釈尊の死後約百年、阿育(アショーカ)大王がインド全体を武力で統一する迄は、貴族の合議制から軈てその崩壊へ・更に統一へ・と向って行かざるを得なくなる時代で、釈迦族の国が滅ぼされたのもその所為(せい)です。別に族が無くなった訳ではありませんが、族の国は無く成ってしまいました。一族一国の時代は過ぎた為でしょう。

 平凡社の『哲学事典』には「当時の釈迦族は衆議による政治形態をたもち、釈尊の父を王または大王とするは後世の粉飾である。また当時この釈迦族はその勢力微々として、隣国コーサラに隷属し、やがて滅亡した」と出ております。この釈迦族は今もネパール附近に居住しています。祖先は・インド人の本流であるアーリア族ではなくて・モンゴロイドだそうです。釈尊も我々と同じ黄色人種だった訳です。経文の「紫金の膚」は粉飾談です。

 そういう時代には、聖人というか……覚者を待望する気運が強く成る・のでしょう。社会不安の時には宗教を求める声は強く成ります。東西共にそうです。何時でもそうです。

 そうした社会の変動に連れて思想界の動揺も起り、そこに・先祖伝来の正統バラモンの他に六師外道という新興宗教が出て来ます。軈て発展して九十五・六派と言われる程分派しましたが、この事は各六師が決定的な<諦>(サトヤ)つまり・真理・悟り・を掴んでいなかった事を物語っています。「九十五種の外道の内には正直有智の人多しといへども二天・三仙の邪法を承(う)けしかば終には悪道を脱(のが)るる事なし」(内房女房御返事)と示されている通りです。

 <外道>と言っても、仏教(仏道)を内なる道、仏教以外を外なる道・として外道と呼んだのでして、「この外道奴!」と言う今の世俗の感情中心の語用ではありませんでした。現在・仏教学や哲学界で<インド六派哲学>と呼んでいるのがこれです。

 今から見ると、六師外道は皆・バラモン亜流へ入れていますが、彼等自身にしてみれば「自分達は自由思想家であって決してバラモンではないぞ」という気概が強かった・のではないでしょうか。バラモンは民族宗教で然も儀式宗教でしたから、その儀式を捨てて、自分達は世界宗教として名乗り出た・という感じです。

 その多くは都市住民だった筈で、出身階級も多分バラモン階級と精々クシャトリヤでしょう。但し・六師は沙門ですから、出家してしまえば平等という事になり、出身階級は否定され認めない訳です。当時これが唯一のカースト超越の方法だった・という事です。

 そうした宗教界の戦国時代に釈尊が誕生し出家し成通します。そして従来の伝統的なバラモンも革新的な六師外道も全部誤っている・と否定したものですから大いに迫害を受けたのでしょう。

 その際に、遣っ付ける方も遣っ付けられる方も共に大いに<四論>を用いて議論しているのですが、唯その用い方はまるで違うのです。外道の方は四句を平面的に横に並べて叙述判断の具として使い、釈尊の方は迷い(含・俗諦)と悟り(真諦)とを分け、横型な平面的な叙述用の使方――これは従――だけではなくて、縦型な構造的な反省判断のオルガノン(機関・道具)としての使方――こちらが主――を大いにした訳です。という事は、判断としての<有・無(肯定)否定)>の根拠を縦に堀下げて行く・という使方です。従って<非有非無>の<有待無>は縦型に縁起相待する<智法の縦型縁起法>として使われている訳です。亦有亦無も同様です。


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