(3)弁証法こそ四句分別の一特殊形態の様なもの

 四句分別という漢訳語はサンスクリットの<チャトゥシュ・コーティカ>の訳・だそうです。山内得立博士(京都大学名誉教授)は「この漢訳語は適当でない」と言って居られます。所で仏法の行方が論理学論理と違う点として、一部に<弁証法>として見る人も居る訳ですが、四句分別を含めて、仏法での論法を・弁証法である・と規定する事は、先にも触れた通りとんでもない間違いに成りますね。

 それは間違いに成ります。四句分別を弁証法の一種と見るのは逆で、弁証法の方こそ四句分別の<一特殊形態>の様なものです。過去には色々な弁証法が出現しましたが、厳密に言うと、弁証法が成立つのは<自覚の弁証法>だけで、<存在の弁証法>というものや<客観弁証法>というものは原理上成立ちません。<認識の弁証法>というのは、結局は<対立の論理>にすぎず、厳密には弁証法としては成立ちません。

 普通<認識の弁証法>と言っているものに立入って見ますと、何と言いますか、哲学に色々な系統が在って考えが対立し食違って来ます。食違っていながら、これらの各々が大勢の一人一人によって読まれ、そうした個人の頭の中で整理されている訳でしょう。ですからその時には、こちらが優れそちらが劣っている・という判断は立ちますが、絶対にこれは立てられない・という万人共通の判断は道理上出て来ないでしょう。背理が明らかな場合は別です。

 矛盾律に依れば、それこそ矛盾で、<同時には、Aが立てば非Aが立たず、非Aが立てばAが立たない>という事に成ります。Aと非Aとを同時に立てるのは矛盾で、排除されなければ成りません。一人の人間が<同時>に右と左とへ歩いて行く事は不可能な様なものです。矛盾事態は・不可能の異名・みたいなものです。

 所が、一般に存在に就いての認識、つまり哲学その他の学問での・自然界や社会に就いての認識・を較べてみた場合、ABが対立している・として、対立はしているけれども、絶対にABとは<同時に>両立出来ない・という関係下には有りません。寧ろ<同時に両立>しているから対立関係が出来ているのです。ですからこれは厳密な(正しい)意味の矛盾ではなく、唯の<対立の論理>にすぎません。ですからヘーゲル以降<認識の弁証法>と言われているものは、正確には弁証法ではないのです。昔のギリシャのは別です。

 普通、対立の前に差異というものを考えて、差異→対立→矛盾と進む・とされています。実は怪しい学説なのですが……。

 一昔前の西洋の哲学では、差異から対立→矛盾へ・と考え、ヘーゲルになると、矛盾の解決は媒介による止揚だ・という訳で、正反合…と程度の高い合が出て来る。その途端に又これに敵対する矛盾の相手が生じて来るでしょう。これは何処迄行ってもきりの無い無限地獄です。これをヘーゲルは「真無限」だ・と言いますが、仮りに・真である・としても”無限地獄”である事には変りが有りません。

 ヘーゲル説は大変な誤りです。現象に就いて、差異・対立・矛盾・に連繋性は在るにしても、概念上、差異は差異・対立は対立・矛盾は矛盾・で、これらははっきり異ります。混同したらどれにも内実(概念の内包)が無く成ります。

 仏教の論理が全て弁証法で割切れる・と言う為には、抑も弁証法とは何か・という議論から始めなければ成らない事に成りますが……。

 正確な<矛盾>を軸にして正反合と進展して行く論法が弁証法なのですが、矛盾という事は、存在の世界には在り得ません。事物や出来事の世界・客観世界に見出される事柄は全て<有>で、有と有との対立関係でさえも、同時に両立しながら反対し否定し合う敵対関係を結んでいるのですから、常に同時に両立していて、本当の意味での矛盾ではない訳です。

 認識上でも同じ事で、そこには矛盾臭い関係は在っても、本当の矛盾は在りません。してみると、存在世界や認識の世界には真の矛盾は無いのですから、真の弁証法もそこには成立致しません。真の弁証法は個人の心中の自覚の領域にしか成立しません。以上の事に就いては、東大の岩崎武雄教授の『弁証法』という本に、実に判易く鮮かに解説されております。この本は弁証法の研究に最も適切な本だ・と思います。

 岩崎先生は惜しくも昭和五十三年に亡くなられましたが、在学中は色々お世話に成りました。昭和三十四年に、私はこちらの新聞社で初めての仕事として、その年の日本哲学会総会での話題を取上げました。当時・日本哲学会々長をして居られた桂寿一先生と・こちらの論説主幹だった貴方と・のお二人に意見を取材して纏めた新聞紙面の記事を、研究室で岩崎先生にお目に掛けた日の事を、昨日の様に思起します。

 言い忘れましたが、昔ギリシャで行っていた<産婆術>と言われた対話法……この<対話法としての弁証法>ですが、これは高度で立派な本来の弁証法です。所が十人世紀頃以降の<図式化された正反合>を言立てる弁証法が今ここで問題になる弁証法でして、ここでの話はこれに限っての事です。

 それに限る・として、ここでは弁証法の抑もの初めの議論から始めてみましょう。特に・四句分別・対・弁証法・という観点から始めたらどう成りますか。

 <同時には両立しない>のが<矛盾>で、この矛盾を排除する・というのが形式論理学の矛盾律で、内容は・矛盾排除律・という事に成ります。弁証法でもこの矛盾概念の規定は尊重されております。寧ろ矛盾律に依る矛盾概念を厳守しないと弁証法は成立しないのです。これは衆知の所です。

 然しながら、客観された実在界には矛盾する事柄は在る――本当は無い――のだ・という事で、矛盾を中心として論理学を立てればこう成る・という様な按配でヘーゲルの弁証法(認識の弁証法)が成立っているのでしょう。所が彼は実体論者ですから終りは<存在弁証法>に成って、結論を言うと、目茶苦茶に成ってしまいます。

 弁証法一般に就いて言ってみると、四句分別の側から言わせれば、矛盾概念も矛盾律自体も智法であって「有に非ず無に非ず」「無にして有なり」と取扱われるものです。決して境法ではありません。差異・対立・矛盾などは<知ること>であって<在ること>ではないのです。

 範囲を対立や差異の方迄拡げて・緩やかな意味の弁証法・を考え、その目で仏法を見る見方が在る・様です。悩みと楽しみ・等の心内の相尅を論じたい・のでしょう。

 その<対立の弁証法>というのは<客観弁証法>に成りますから、弁証法として成立致しません。そういう<緩やかな意味の弁証法>は真の弁証法たり得ません。「仏法は弁証法だ」と言う人は、仏法の・論理学論理では消化し切れない部分・を弁証法の所為(せい)にしてしまった訳です。「四句分別は弁証法の一種であるからこういう『中論』その他の言い方が成立するのだ」という様な結論の引出し方です。外道見で内道を解釈している訳です。

 でも、仏法の反省自覚の四句分別の方から言わせると、西洋式に決められたルール法――智法――としての弁証法も、これ又<有に非ず無に非ず><無にして有なり>で消化されてしまいます。この視点から見れば、弁証法も四句分別の一特殊形態の様なものだ・と言うべき事に成ってしまいます。

 要するに仏法は弁証法ではないのです。仏法の論法は、両否定と両肯定とを基盤にした四句分別の論法・反省四句分別で思量を得る反省論法だ・という事です。現に経文はどれも四句分別を柱にして述べられております。仏典は四句分別で出来ています。

 四句分別という事を現在の西洋の哲学者達が知らないのではない・と思いますが、西洋では多く・弁証法の一種・として取扱っている様です。ドイツのヤスパースが1957年(昭和32年)に出した『偉大な哲学者たち』の中の「仏陀と竜樹」の中でも、四句分別をはっきり・弁証法だ・と規定した上で

「それはいつでも四つの可能性を吟味し、そのひとつひとつを、そして結局はそのすべてを、しりぞけるものである。四つの可能性とは……(四句分別)……。究極・妥当的な言表へのがれる道はすべてとざされている」

と述べています。立場や解釈は違っても、日本でもこれを黙認している人も居る様です。

 それ、本当は逆なのです。こういう人達は皆・四句分別を客観の対象にして、四句分別の外側をぐるぐる回りながら視点を沢山取って・分析し再構成する・という例の客観の方式を当嵌めるからです。

 そして四句分別という個を・既知の普遍概念で説明しようとする・でしょう。するとその説明翻訳の既知概念は<否定の弁証法>しか無いから、これは弁証法の一種である・と結論付けてしまうのでしょう。これは大変な誤りです。

 四句分別の最初の有=縁起仮有を<正>とし、次の両否定を<反>とし、更に次の両肯定を<合>と配当するならば、四句分別と弁証法との対応は適います。対応は適いますが、この対応は、弁証法を四句分別の中へ吸収消化する形では適うのであって、四句分別を弁証法の中へ吸収消化する形では適いません。

 と言うのは、<反>は両否定ではないし、<合>は両肯定ではないからです。日本人は人類の内ですが人類は日本人ではない・様なものです。諄(くど)い様ですが、詰りは弁証法こそ四句分別の一特殊形態みたいなものです。四句の方が弁証法よりも枠が大きい訳です。


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