(2)西洋式に合理化した解釈

 ここではその位にして……。『中論』の論法は帰謬法だ・と言うのは、見えた表面だけに就いて言った誤解である事だけを確認して、本筋の四句分別の方へ進んで行きましょう。

 四句分別は西洋には全く無かったインド独特の論法ですから、『中論』は四句分別を知らないと誰が読んでもちんぷんかんぷん・さっぱり判らないのは当り前なのです。四句分別を四句分別として『中論』を読めば今度は判る訳です。若い人達が『玄義』『文句』『止観』を読んで「判らない判らない」と言うのも同じ理由から来ているのです。

 初めて『中論』を読んだ時の事ですが、何度読んでもさっぱり判らない。まず、呆れる程判らないのです。そこで能く能く調べてみたら、四句分別という事が出て来たのです。そうすると又大部様子が変って来ます。これは天台の『止観』には沢山出て来るのですが、この四句分別というのは<判断の形式>で次の四つです。

1.無 (無い)

2.有 (有る)

3.亦有亦無 (有り且つ無い)

4.非有非無 (有るでもなく無いでもない)

 この四句分別に就いて色々調べてみよう・というのがこの項目の分ですが、その内容へ立入る前に準備として片付けて置かなければ成らない事が在ります。それで先にその問題として<弁証法>から論じてみたい・と思います。というのは、今の或る人々の間では、仏法の理法は弁証法の一種だ・と見做されている事も在るからです。連れて四句分別もそう扱われている実例が在るのです。

 一般に論法としては、合理の論法(論理)と非合理の論法とが分けて論じられています。客観の世界は合理・主観の世界は合理と非合理とが混在する・と言われていて、これは正しい訳です。この主観の世界に合理の領域と非合理の領域とが在る事は誰でも認める所で、この非合理の領域に就いての論法・推論の操作は普通・弁証法に成る・と言われています。してみると四句分別もこの点から見られているのでしょうか。

 そうだろう・と思います。主観世界の非合理の領域を操作するのに、釈尊や竜樹は四句分別で反省操作して居たのです。ですから非合理の領域の推論操作という点で、或る人々の目には弁証法も四句分別も同じものの様に映るのだろう・と思います。そして又・主観世界は合理と非合理とが混在している領域だから、何とかして四句分別を合理の線に引戻して解釈したい・と思う人も居る訳です。

 一般に仏数学者は竜樹が四句分別を使った事実は認めていますが、唯・一部にはそれを<仮言シロジズム(推理)・ディレンマ(両刀論法)・テトラレンマ(四刀論法)>として、論理学論理で解釈しょう・とする傾向が在ります。こういう目で四句分別を見るから「竜樹は時には<前件否定の誤謬>を犯している」と言う様な解釈が出て来るのですね。

 そうでしょう。兎に角・現代の知識で四句分別を消化したいのでしょうけれども、それは遣り方が見当違いなのです。Aなる眼鏡もBなる眼鏡も共に外の世界を見る為のものでしょう。眼鏡Bで眼鏡Aを見たらこう見えた・と言っても、それでは何の役にも立ちません。四句分別は眼鏡A・現代の論理学論理や弁証法は眼鏡B・の立場です。兎に角・眼鏡Aで世界を見ない事には、眼鏡Aの機能そのものは判りません。互いに他の良し悪しは言えません。

 弁証法には形式論理の機能を批判論断する資格は無いし、両者の立場を逆にしても同様です。形式論理は合理という土台から築いたもので、この点から「矛盾律を尊重しない弁証法は成立たない。客観弁証法は原理上成立不可能」とは言えても、弁証法の機能を批判論断する資格は無いでしょう。何しろ弁証法は客観シロジズム(推理・論法)ではなくて内観シロジズムなのですから……。

 ヘーゲルならば客観シロジズムですがこれは根本から誤りです。原型の儘・縦型(反省用)に使う四句分別も同じ事で、内観シロジズムなのですから、それを客観して見て、合理上のルールや法則に合わない合わない・と言張っても、これは無理というものです。

 ディレンマ・テトラレンマ・と言っても、これは両断(両刀)論法・四断(四刀)論法という合理路線の横型判断法であって、四句分別は、選言的前提の選択肢を四つ持っている・という事とは違います。仏法では何しろこの四つが反省否定を通じて縦型構造に使う様に用意されているのですから、四刀論法の様に、平面的に四つ横型に並べて選び取る様に配置されているのとは訳が違っています。見当違いも好い所です。「字義の縦横……これを並べるときはすなわち横、これを累(かさ)ぬるときはすなわち縦」(『止観』)です。

 竜樹に就いての最近の論理学的研究によれば、『中論』での論議が「西洋の古典論理学や記号論理学の法則に適っており、矛盾律や排中律にも従っている事が明らかだ」という説も在りますが……。

 「竜樹が矛盾律・排中律に一般的には従っている」という学説、これは当然でもありますが全く困ります。言表された文章表現の上ではそうでしょうが、竜樹が『中論』に表明した所のその反省思考(思量)上では、非有非無で矛盾律や排中律の束縛を受けない路線からものを言っているのです。

 表明された文章は、矛盾律・排中律を無視しては人に情報を正しく伝達出来ませんから、従っていますが、然し本来それには縛られない路線から発言しているのです。これは彼の思想が、思考判断(比量)ではなくて反省判断(思量)で得たものだからです。この点は重大問題ですから四句分別の内容検討の所で申し上げます。


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