あとがき

 凡そ虚妄なる分別の先は無分別法の一境しか無い。その一境に智念を据えて「境智寂然たり」と聖者達は語り継いで来た。長い学校教育のお蔭で現代諸学の”漬物”みたいに仕上がった私には、迚も聖者達の悟りは無理である。だが・仏法と諸学との対比ならば出来ない事はない・やってみよう・と或る動機から思い立った。

 当時・健康の都合上・全部を自分が書くのは迚も無理だったので口述を筆記して貰う事にした。私が口述すると相手が質問してくるので、口述が対話へ発展してしまった。こうして昭和五十年四月からこの対話を開始した。一通り対話を終えたのが五十三年八月であるから、延々三年半に亘ってしまった。その後に補正の為に折々追加の対話を試みて終結した。相手の本橋氏には大変な御苦労を掛けたと思う。

 中味は対話であるが、仏教哲学専攻の友人・本橋雅史氏が問い掛け側に回って自分が答える側という事にした。話はあちらへ飛びこちらへ飛んで系列も何も在ったものではなかったが録音テープから原稿化して同類の話を集め、手直しの筆を入れ、一通りの順序に仕立てる作業は全て氏に負うた。

 いざ対話をしてみて気付いた事が二つ在った。一つは相手の発言に触発されて守備範囲がどんどん拡がる事である。実際拡がり過ぎた部分も在ると思う。あと一つは・対話ではどうしても論証が厳密にやれない・という事である。この点は後で書き足す以外になかった。各書の引用文も勿論後日の筆記によって正確を期したものである。若しも本書の内容に不備や誤謬を発見した方が居られたら御一報下されば幸いと思う。喜んで訂正させて頂きたい。

 実のところ、最初は手軽な読物にしようと思って出発したが、対話が進むに連れてとんでもない事になってしまった。それで気が変って、いっその事それなりに仕上げようという積りになった。これが本書である。本橋氏は「この書をドイツ語に翻訳してみたいものだ」と言う。「分析の本家へ提示してみようではないか」と問い掛けているのである。大いに結構でしょうと答えて置いた。野人の僭越というものであろうか。終りに、本書の大綱は内外相対の枠内での議論である事を再度申し述べて置く。

 

石 田

昭和五十三年八月


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