(7)反対解釈に堕るな――虚妄仮は反省材料

 そういう狡辛い人でも、壮大な論文を見せられたり、尤もらしい学説話には・ぼーっとしてしまって、鵜呑みにしてしまう傾向が有ります。思考力不足・論理面の不慣れ等々で、妄語を見破る力が無い事を露呈します。ですから誰にせよ、論理面に慣れる事が必要だ・と思います。

 カルナップが「哲学の課題は記号の分析である」と言った様に、記号の構造と機能とに関心を持つ事が大切でしょう。論理実証主義運動が起こった今世紀の初め以来、一貫して記号論が哲学界の大きな潮流の座を占めているのは無視出来ません。

 一般にはそこ迄専門家になる必要は無い事ですが、只・何についても、実語と妄語との差に対しては厳しい態度で臨む・という心構えだけは必要です。分別は究極では虚妄であっても、論理を正しく使う事と・論理学を軽視しない事とが大切になります。「一切の物に亘りて名の大切なるなり」を肝に銘ずべきです。

 妄語と言えば、アリストテレス以来・論理学の中に<虚偽論>という分野が在ります。複雑で仲々面倒なものですが、<虚偽>は<研究法に関する虚偽>と<統整法に関する虚偽>とに二大別されます。参考の為に平凡社の『哲学事典』から「虚偽」の項を一覧表に作り直して本章の末尾に出して置きます。一般に大学の哲学科では、一番最後に教えられる所のものです。

 それを纏めてみると、結局・虚偽は、事態把握(観察)に関する虚偽・と・思考及び伝達の際の論理操作に関する虚偽・との二種類になります。少し前に貴方が言われた通りです。

 仏法では、事態把握と論理操作との真に関して、この二つを合わせて虚妄と致します。真であっても虚妄なのです。この虚妄の仮は反省の材料とされ、九界での反省把握は・世俗上では真であっても・虚妄・と退け、仏界での反省把握だけを真の中の真としますが、この話は後回しにしましょう。

 思考の誤りを虚偽とも詭弁とも言うのですが、どうも世間では、知らず知らずの内に誤っているのを誤謬、承知ででたらめを言うのを詭弁(虚偽)という風に分けている傾きが在ります。学問上では、無意識か承知の上か・は問わずに、一括して虚偽・詭弁と言います。

 詭弁家は、インドでは例えば、鬼を祭って逆説と理論で人を誑かした鬼弁バラモンの様に・バラモンや六師外道の分派の中に色々発生しましたし、ギリシャではソクラテスの時代辺りに沢山居た・と言います。正論と詭弁や逆説の成立は相依していて同時です。

 世間の真なる意見に正反対な主張を述べるのが<逆説>ですが、世間の真なる意見が・真理を完全に捉えていない・と逆説を食います。逆説には

 @ 常識や論理では尽くし得ない真理を示す象徴的表現

 A 無矛盾的同一性では解し得ない事態を意味する場合

 B 言語の遊戯にすぎない表現

この三つが在る・とされています。老荘諸家の逆説は@の場合で、ゼノンの逆説はAの例だそうです。

 詭弁の方は……口達者程・詭弁になってしまっているものです。そうかと言っても・沈黙は金なり・とも思いませんが……。兎角・大衆に向かって大弁論を展開する人程・詭弁に流れている事が多いものです。

 詭弁には二つ有って、こっそりと論理規則に反しながら・外見上・論理的正しさを見せ掛けているものと、前提命題の意味の曖昧さに付込んで・到底・真とは思われない主張を引出すもの・との二種類だ・という事です。前者は人偏しで・後者は人の意表を衝いて裏を掻く口封じです。前者の詭弁は政界に多く・後者のは思想界に多い・と思います。

 正論を種にして詭弁を作り出すのですから両者は同時に出現するのですが、それで注目すべき事は、詭弁家が沢山出ると・これに刺激されて又正論が起こる事です。ゼノンが流行るから正論家・弁証家が出る・詭弁論師が出るから因明が起こる・という事になっています。

 詭弁というのはいんちきですが、実はそういういんちきは、深い正理(合理・論理・演繹)への自覚・見通しが無いとやれない事なのです。ここから・承知の上で詭弁を弄する・という事も起こって来る事になります。

 それに似た様な事は、国会での政府側の答弁に沢山出ているのではないでしょうか。政府側は質問された問題について・先行きの見通し・を持っているから、当り障りの無い・ソツの無い答弁で切抜けようとする様です。テレビで聞いていても、我々には・何を言っているのか・言意を掴めない答弁が多い感じです。抽象語を多用してやっています。政治不信を招く因だ・とも思います。

 攻める方も守る方も<見通し>に基づいて論戦をしている訳です。「然るべく善処致したいと思います」という答弁は、「なんにも致しません」という事を述べている訳ですから、”政界用語”というものは”見せ樹け”主義で、仮象論理の弁証法よりも仕末が悪い訳です。埒も無い音符が多いのです。

 見通し・という事では、兎は亀に追い着けない・とか、飛ぶ矢は飛ばない・といったゼノンの詭弁がそうで、合理への自覚に立って敢えて立てた議論の様です。そこから・連続・非連続・の研究が発達して来た・と言われます。正邪が熱気を帯びて相戦う気運が起こって、初めて正しい学問が確立して来る様です。

 これは、妄語と実語との・対立と弁証、相互刺激による発展です。とにかく・思考と発言とには、実語を選ぶ事に徹しなければなりません。いわゆる<反対解釈>やら<玉虫色の合意事項>などというものは、学問の世界には在ってはなりません。

 「分別虚妄を指摘すると分別や論理を賎しめたくなる」のは<反対解釈>をする所為(せい)だ・という事でしたが、これも一種の妄語・という事ですか。「右ではない」と言われると、兎角・人は・左へ行きたくなります。これは二者択一に拘わる人間心理の一面・と言えそうです。

 何等かの事件について、自分の有利を導き出そう・という方法に、自分の事は言わずに盛んに相手の悪口を言い立てて、第三者に自分の方を良く思わせよう・とする手が在ります。これは、聞いている人に・反対解釈・を暗に強制している訳です。

 裁判沙汰では能く在る事ですし、又、夫婦喧嘩の訴えを聞いていると・能くこの手口に出食わします。「仏法の反省法は弁証法ではない」と言うと、すぐ「弁証法は駄目なのだ」と受取り勝ちです。こういうのが反対解釈というものです。

 仏法の反省法は確かに弁証法ではありません。四句分別によるものです。然し仏法の中にも弁証法は生きています。仏法中に生きないのは図式弁証法だけです。

 「本尊は唯一に限る」というのは、反省判断で矛盾を排除していて弁証法な訳です。仏法の部分部分の中には弁証法も立派に生さています。世法・仏法・に亘って、弁証法には弁証法として生きる分野が在るのです。

 『哲学事典』(平凡社)に在った例ですが、「彼は昨日試験を終わって帰って来た」という表現では、試験が終わったのが昨日なのかその前なのか、帰って来たのが昨日なのか今日なのか、文意曖昧で掴み様が有りません。<玉虫色>というのはこんな具合なのでしょう。

 又、源平の一の谷合戦で、ひよどり越えの逆落しの時に・義経が「鹿が行けるのなら、鹿も四つ足・馬も四つ足、馬が行けない訳が無い」と言ったそうですが、これを論理化して「馬も四つ足・鹿も四つ足、故に馬と鹿とは相等しい」と言ったら可怪しな事になります。ま・これは息抜きですが……。

 とにかく、論理というものを大切にすべきです。ここでは・実語と妄語・真と偽・について述べましたが、分別と無分別・はこれとは次元の違ったものです。無分別は反合理性ではなく非合理性の主張で大事なものですから、いづれ詳しく論じ合いましょう。

 『華厳経』に「(仏法・悟りは)如来分別して説き給うに劫を窮むるも尽くす事能わず」と言う様に、とにかく分別(論理全般)ということには限界が在るのです。「文に封ぜられて意を斉(かぎ)り」(『止観』)という様に弊害も生じ易い事です。邪見・悪見・に変り易いのです。

 無分別こそ大事だ・という話を聞いて、正見を破して無分別見を起こしては困るのです。これでは新しく無分別見という新見・つまり分別を起こして<見に住著>した事になってしまいます。「秘要はただこれ実相中道の正空(如来空・妙空)なり、無住著の智をもって反照し観察(反省)すべし」(『止観』) に心地を落着けて置くべきでしょう。


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