(6)妄語か実語か――論理の課題

 妄語か実語か・という問題が出て来ましたが、「仏法は概念虚妄・分別虚妄を強調して無分別の実践を重んずる」と言うと、実践修行へ傾斜する余りに、分別や論理を賎しめる心理が生じ兼ねません。

 生じ兼ねないどころか現に生じました。六師のヨーガ派や仏教の禅宗などがそうです。我々の中にさえ・こういう思想の持主は居ります。本当はそういう心理状態への執著も法執の一つで、これは情量でもありますし、中道から外れてしまいます。この点は厳しく気を付ける必要が有る・と思います。

 もう二十余年にもなり、過ぎた事ですが、とにかく化他の修行に打込め・という事で、我々学生が教学に打込んでいると、警戒の目で見られたり・ずれているかの様に見られたりした事も在りました。兎角人心は片寄り勝ちなものだ・と思ったものです。

 分別虚妄から分別を賎しめるのは<反対解釈>というものです。こうした反対解釈の傾向は仏教界でも昔から多く在った事で、教門を重んずれば観門を軽視するし・観門を重んじると教門を軽視する・という風になります。

 教門と観門……教観二門のどちらを軽視してもならない・と天台は厳重に戒めています。教門に片寄れば華厳宗や唯識の法相宗の様になるでしょうし、観門に片寄れば三論宗や禅宗の様になるでしょうし、教行の一致を欠いてしまいます。修行が成就致しません。

 唯信の宗旨だから、言っている事に多少の間違いや脱線が在っても、行力が強ければ許される・とか・その罪は信が強ければ自然消滅する・とか・そう考えてそう放言する事自体が大妄語ですね。これも反対解釈的態度です。

 間違いや脱線は・知らずにやる事は誰にも在るとしても、その際は厳重なる大荘厳讖悔が必要です。特に化他の責任が重い立場に在れば在る程そうです。間違いっぱなし言いっぱなしでは決してなりません。自行の為にも化他の為にも・分別や論理を賎しめる事は出来ません。無責任に賎しめたその因業は必ず悪果を生み・悪報として身に現われます。

 その大荘厳讖悔は『普賢経』に「若し讖悔せんと欲せば端座して実相を想え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除せん」と説かれている所のものです。聖識者などに向かって懺悔するキリスト教のそれなどとは違い、御本尊に向かって唱題反省する讖悔です。「某過去遠々劫現在漫々の謗法罪障消滅・現当二世大願成就の御為に」も自行反省の大荘厳讖悔です。

 ですから同経に「但深く因果を信じ一実の道を信じ仏は不滅なりと知るべし、是れを第五の懺悔を修すと名づく」と説かれている訳です。化他の責任を自覚すればする程・常にこの反省が必要です。

 分別は虚妄であるだけに、一断面だけを強調すると他の断面を排除する事にもなり兼ねません。そうすると、或る部分を隠して本当の事を言う<虚偽>……<本当の事を並べて嘘を吐く>という政治家の常套手段と同様にもなり兼ねません。

 「諸仏如来法皆如是・為度衆生故……皆実不虚」を徹底して見習わなくてはなりません。「世尊如説者皆是真実」で、ここに<分別真実>が在ります。仏様の化他の秘妙方便の分別は真実です。実語です。これに<偽>を入れてはなりません。

 実語・妄語・という面からは、当然、<真か偽か>が問題になります。これについては両面が有ります。一つは事態把握の観察面です。もう一つは観察事態を纏める思考の論理操作と・その把握事態を他の人へ伝える論理操作との面です。

 この論理操作の面が現代でも非常に厄介で、知的水準が高い現代では、中途半端・生半可な論理立てでは受容れられません。ここに論理学の重要性が有る・と思います。

 事態把握の観察面から言うと、昔から有名な<兎角亀毛>というのが在るでしょう。兎の角と亀のしっぼみたいな毛。兎の耳が角にされ、亀の甲に着いた藻が毛にされる話……。戦時迄の神国日本などというのは、もう少し高度化して、思想が絡んだ妄語という事になります。今なら「社会は共産化へ必然進行するのだ」という様な話……。こういう妄語は事態把握の面から来る妄語です。

 私が挙げた後半のは、推理上の誤りに属する問題なので、感覚知識と共に纏めてヴィカルパ(妄分別)と言って厳しく戒められています。妄分別は分別虚妄以前の偽分別を指します。唯識派ならば真偽全部の分別を指します。

 もう一つは論理操作の誤りから生じた妄語です「全て全能なるものは存在を含む、神は全能である、故に神は存在する」という有名なアンセルムスの<神の存在論証>などはこの典型です。

 これは、経験問題を形式問題に摺り替えた・として、ヨーロッパの哲学界でも厳しく非難糾弾された有名な話です。

 これは、正確には「若しも全能なる存在者が在るとするならば、全ての全能なるものは存在を含む、……」と言わなければならないのでして、仮言命題であるべき命題が、仮言部分を隠してしまって、こっそりと定言命題化されてしまっている訳です。これでは論理泥棒です。

 次の「神は全能である」は論理問題ではなくて事態把握の問題ですから、科学で客観的合理的に立証されない内は言明不可能な事です。この様に、論理と事態把握との両面で妄語を立てて「故に神は存在する」と、定言三段論法を使って結論付けるのは、丸きり成立たない事です。

 中世は暗黒時代とは言いながら、こういう大妄語は全く戴けません。仮定された存在から実在は引出し得ない事です。昭和四十年秋に、沼津で、これを言って布教に歩き回っているキリスト教徒に出逢った事が有りまして、全く驚いたものでした。

 我々も「妙法は大古からこの宇宙に厳然として存在していた」とか「仏法の本質は信の一字に窮まる」などと言っていると、アンセルムスと大同小異になり兼ねません。

 妙法は成程・自然法(じねんぼう)ではありますが、仏様の体現しつつある所にしか在り得ないものです。具現者から離れて在り得るのは可能性としての<抽象理>だけでして、これは理解者の頭脳の中にしか在り得ません。それなのに妙法を客観存在化してしまうのは大いなる誤りでして、これこそ<思考の論理操作での虚偽>な訳です。「大古から宇宙に厳然と無かった」のです。

 妙法が三人称の客観存在なのであれば、探険隊を組織して探し回って、ドイツシェパードに嗅ぎ出させて、発掘して持帰って、ポケットヘ入れて置いて、必要な時に取出して使えば好い事になります。信ずる事も唱える事も全く要らなくなります。仏法不用・信心無用です。なんにもしないで悟った”仏様”がさぞ沢山・わんさと出来上る事でしょう。全く”おめでたい”話です。

 現代では、事態把握の面からの誤り(妄語つまりヴィカルパ)は、科学の進歩で随分防がれていますが、これに較べると、論理操作から来る誤り・語用論上での誤り・の方はまだまだだ・と思います。論理面に慣れる事が必要です。又、妄語を見破る力を養う事が大切です。

 この・妄語を見破る力・に関してですが、貧乏や何かで逆境に育った者は仲々人を信用しません。人の話には疑って掛かる習慣が出来てしまっています。こういう人を「辛い奴だ」などと評します。

 一方、坊ちゃん嬢さん育ちは人の話を何でも信用して騙され易い。人が甘い。これらは人を見抜く 力(洞察力)に関する事でして、この両者のは、ここで取上げている<妄語を見破る力>とは違った 問題です。


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