(5)己心の自覚にのみ成立する矛盾

 ギリシャにおいて溌剌(はつらつ)としていた対話法としての弁証法も、ヘーゲル・マルクス以来・形式化されて<正・反・合>の弁証法に図式化されてしまいました。いわゆる認識の弁証法・存在の弁証法・自然弁証法などがこれです。どれも矛盾の弁証法だ・と主張しますから<矛盾>が問題となります。果たして自然や存在や認識の中に・矛盾は正当に成立しているものでしょうか。

 認識・存在・自然・のいづれの中にも、<同時両立不可能>という<矛盾>は成立していません。

 自然や存在ばかりでなく、認識の中にも・矛盾・というものは成立しない・となると、厳密な意味で矛盾が成立する領域・というものは在るのでしょうか。在るとすればそれはどの様な領域でしょうか。

 ところがここで、認識を経て・自分の己心の中の自覚・という観点から見ると、今度は矛盾が出て来るのです。お嫁さんを貰うのに、候補者が沢山居ても、誰でも好い・という訳には行かないでしょう。誰か一人・と決める事は、他を全部否定する事です。同時には両立を許しません。同時両立不可能で矛盾です。

 宗教になって来るともっと峻烈です。仏法に南無(帰命)という言葉が在りますが、これを文字通りに取れば命賭けで帰依する事です。その命賭けで帰依すべきものが二つも三つも在ったら堪ったものではありません。こちらの命はたった一つなのですから……。

 会社ならば社長の下に副社長が居ても矛盾も不思議もありませんが、宗教はそうは参りません。御本仏の他に副本仏が居たり、正本尊の他にまだ副本尊が在ったりしたら邪道です。矛盾です。

 法律上信教は自由で、各教・各宗・各派は在るけれども、自分が帰命すべさものは一つと、反省自覚が深まれば深まる程唯一になってしまうのです。ここに初めて本当の<矛盾排除の弁証>という事が成立する訳です。これは、客観の立場ならば演繹による選択決定であり、一人称の反省の立場ならば弁証法での矛盾排除です。

 元旦は神社詣り・結婚式は教会で・葬式は仏教で・という日本人の遣り方は、同時性は欠いても矛盾です。信の一貫性・という面からすると・同時に両立させている事になりますから矛盾です。家の中に何でも祭っている”五目信仰”、この日本人の遣り方は本当に矛盾しております。西欧では見られない事です。

 同時であろうが異時であろうが、信の<根本>には他の対象を容れる余地は全く無い、こういう在り方は矛盾関係でしょう。ですから・真実の弁証法というものは・己心の反省自覚の中にしか無いのです。

この事は宗教では非常に顕著です。どんな宗教でも<正理を修行する>のが宗教の宗教たる所以(ゆえん)なのですが、正理に高低浅深が在る筈ですから、高深を取って低浅を捨てる所に矛盾排除が有ります。この取捨は反省と自覚とによります。だから・真実の弁証法は反省の世界にしか無いのです。反省のプロセス(過程)が弁証法なのです。

 この<正理を修行する>筈の宗教が、<正理>は看板だけで、中味は・背理・曲理・邪理・妄理・等だったら、これは反省の対象にさえもなりません。正しく見破って捨てるだけでしょう。然もこれが多いのです。正法の宗内にさえ・邪解に由って背理〜妄理は出現してしまうのです。

 折伏するのも元はそこから起こります。攝受の場合はまあ一応暗黙の内に一時は許して置くとしても、自覚が深まれば深まる程・そういう言い方は引込めざるを得ません。矛盾排除を相手に説けばどうしても折伏になってしまいます。

 法律上では信教は自由ですが、宗教の各派は仮りに・どれも正理を説くものだ・としても、説く法理に必ず縦に高低浅深が在る。それが横に肩を並べて同位や優位を主張するから・自覚の世界から見る・と矛盾します。折伏が必要になります。

 「信心の世界には矛盾は無い」という話が流行っていますけれども、これは全く逆なのでして、本当に困った事です。この主張は所詮・無知から起こった妄分別なのです。これは<矛盾イコール悪>と極め付けているからです。虚妄仮と建立仮とは矛盾です。信心の世界の矛盾です。

 矛盾には善矛盾も悪矛盾も在ります。元々は善悪無記ですが、人次第で善にも悪にも現われます。信仰・信心・の世界にこそ矛盾も弁証法も在るのです。自覚者こそ矛盾を抱えているものです。これは大事な事です。大理想こそ矛盾の塊りなのでして、善き大理想は善き大矛盾なのです。矛盾は向上路にしか発生しないのです。向下には発生しません。

 この矛盾が在るから反省も有る。矛盾が無ければ反省も有得ない。反省が無ければ反省のプロセスたる弁証法も又有得ない・という事になりますね。

 矛盾は否定される訳です。弁証法は否定を基盤とした論法でしょう。<無>は<有るべきものの欠如>という形で存在世界や認識の領域にも有りますけれども、<否定>は純然たる判断の領域・心の中の領域にしか無いのですから、否定による弁証法も・心の中・判断の中・にしか在りません。真実の弁証法は反省の世界にしか成立しないのは当り前なのです。

 反省−自覚・という事になりますと、仏法には、唯識論によって展開された第六識・第七識から第八識へ到る・自我の自覚その他・意識の段階的な反省掘下げが有ります。自我が妄識での誤った自覚である事はさて置いて、この事と・反省においてのみ成立つ弁証法とは、どの様な関わりを持つのでしょうか。

 仏法では、弁証法というものの使い道は、立行の選択についての用途が主になる・と思います。これ以外では、己心の世界へ入る為の”バネ”或いは棒高飛びの”棒”という以外には無い・と思うのです。これは反省操作の上での<選択>についてのオルガノン・という訳です。

 第六識は・五根によって得た外部の知覚を纏めているので、この時には心はまだ外へ向いている訳です。けれどもこの外部の知覚を纏めているものは何ぞや・という事になって来ると、心は外から離れます。演繹や帰納をして離れる訳ではありませんので、この離れる所に反省否定の弁証法が働いています。そして次の・心が<着くべき所>の<選択>にも弁証法が働いている訳です。

 そういう心の・離・着・は、本有の機能の働き・現われ・であって、合理だ非合理だ・という議論を超えてしまっていますね。

 離れると今度は、纏めているものは<何ぞや>から又一転して<誰ぞや>になって来て自我の自覚を生ずる。これは、第六の意識が今迄外を向いていたのが、今度は内へ向いてそういう自覚を生ずる。この<又一転>の所にも弁証法が機能し、自我の自覚についても機能しています。ここが、己心の世界へ入る”バネ”という働きです。

 ところでこの自覚は実は、第七のマナ識が深層領域で働いて・第八識を相手取って作り出したもので、マナ識では意識されない自覚だったのが、第六の意識へ浮かんで来て自覚化・意識化したものだそうです。そしてそこに、自我の自覚を持った世界観が成立して来る訳です。そして誤りなのです。

 そうした第七識の段階から、「識は善悪共に出入は瀑流の如し」と言われた第八識への自覚の深まりは、どの様に行われますか。

 自我の自覚を持った世界覿の段階で、あれは何であるか・これは何故で如何にあるか・と対象を様々に分別し把握しています。この分別の有りようは、第八識に染付いた、本人の行業果が種子化した<薫習種子>に左右される・というのです。

 この種子が備えた傾向が表層での判断を左右している・と言うのですから、第七識から第八識への自覚の深まりは、迷いから迷いへと・悪い方へ深まって行っている・と言うべきでしょう。

 世上の信念は皆その様にして出来て行く・と言えそうです。

 ところが、分別する・という事は、或る意味では外へ<出る>事で、こちらの心の中から外へ出なければ分別にはなりません。この<内から外へ>出る転機についても弁証法が働いた・と言うベきです。

 そこであれこれと分別する事の基体になる”工場”が第八識で、これは常に意識される事が無いが非常に激しく、瀑流の様なものだ・と言われるのです。焼付く訳です。そしてその出入口が第六識です。こうした第七・第八識は、世間の常識を借用して言えば、弁証法的に反省した自覚で発見し把捉したものです。第七マナは反省識なので思量識と名付けました。

 禅定修行をして識転じて仏智となった所は、第八識の奥にもう一つ在る・という事の暗示と取れましょうか。弁証法反省で迷いの第八識を発見して、ああそうか・で終わっては真の自覚とは言えませんから、当伏・もう一度、弁証法的再反省が加えられる筈で、それは自覚の<対境>への期待が有った筈です。つまり、結果から言えば第九識への期待的予想・予見を持っていた筈です。

 多分そうでしょう。その・期待的予見が、現代で言う・仮説演繹法で行われた訳です。昔はこういう言葉は無くても・実際にはやっていた・という事です。ですから転識智は九識心王真如の都を暗示しているのです。

 ですから、天台が九識と言ったのは・何も彼自身の特別の発明・発見ではありません。悟れば仏智となり涅槃へ入る・というその仏智となった所が第九識で、これは動ぜず・という事になります。この第九識が妙法の境涯の大智つまり<心王>であり、第八識以下は<心数>と言われております。

 西洋の場合には、心の作用に着目して、これを感性とか知性に、又・悟性・理性・統覚などに分割します。そうすると、各々の性がそれぞれ実体化され、実体化した各性が寄り集まって心というものを構成している・かの様に理解され勝ちです。これと同じ様に、仏法で・第八識とか第九識とか言った場合、勿論そういう実体的なものが在る訳ではありませんね。

 第八アラヤ・第七マナは「迷っている現実の人間に取っては実在する」と言っても実体ではありません。体ではなくて用です。そう言っても結局は「ただこれ名のみ」の<言説の仮名>なのです。

 例えば知性というものにしても、一般にはこれを単純に「有る」と決め込む訳です。然しこの「有る」は四句分別の中の最初の<有>にすぎません。この有は仮りの在り方での有です。分別の上にのみ成立した<仮有>です。これを再び反省してみればこの・仮りの有・は無くなります。単純なる有から重層なる無へ転化して行きます。

 この様に転化して行くものであるから<転識得智>という事が可能なのであり、反省によれば成就する事になる訳ですね。

 そうです。この様な、仮名で色々と表現された仮有は、皆・分別から生じた事ですから、これらの仮有を全て纏め上げてしまうと、今度は無分別有という重層なる唯一の有に転化してしまいます。そして又<言説の仮名>について、実語か妄語か・が認識と実践修行との両面で厳しく問われる事になります。


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