(4)対話における弁証法

 弁証法というのは、元々ギリシャにおいて・ディアレクティケー・と言われ、発生的には対話から出て来た・とされています。

 純学理ばかりではなくて、政治・倫理・全てに亘って真理を求める為に、誰かが議論を立て、これに対して理路整然と反駁を加える人が居る。そこでどちらが勝れるか大いに議論をし・弁証する事によって真理というものを煮詰めて行く・という。

 学問的発生の歴史的な出来事としてはその様です。ですからこの対話の弁証法は、真理を生むについての産婆だ・という事で<産婆術>と名付けられました。

 何故そういう事を考え付いたか・という抑もの起源を考えてみるべきです。ギリシャの哲学者達、何故そういう事を考え付いたか・と言うと、人と議論する前に・自分の心の中でそれをやっていたのではないですか。弁証しながら自問自答で思想を磨いていた。

 ものを考える・という事は、そういう事なのですね。

 心の中で「自分の考えはこれで良いのだろうか・悪いのだろうか」と否定肯定を重ねて反省しながら学問を進めて行く。こういう人間が沢山居なかったら、ギリシャの様な弁証し合う対話というものは発生する訳が有りません。寧ろ・こういう知識人がいっぱい出て来たから、弁証法が成立ったのでしょう。

 一人で考える・という事は、自分の心の中で・否定を基軸にしてそういう対話を繰返している事ですね。

 自分が今迄に得た思想や概念と、絶えず戦っている訳です。否定したり肯定したり、その肯定を又否定したり、修正を加え・練り合わせ・現実と照合してみる。これが思考であり概念操作です。

 対話として自ずから弁証という形になる・という事と、人間は元々心の中でその様に考える・という事とは、どちらが先とか後とかではなくて同時でしょう。

 どちらが先に発生したか・と言っても、結局時間的な先後は付けられないでしょう。でも・本源的な発生源は何処か・と言えば、個人個人の心の中でしょう。

 そこでの弁証法による対話のポイントは、単に自分の意見に対するイエスかノーかの返事を求める事ではないでしょう。

 相手の人に「貴方の心の中はどうか」と聞く事です。妙案……<更に高度な意見>を求める訳です。求道です。

 問題を反省して高度化する事が出来る相手でないと、そういう対話は進みません。これは智人の仕事になります。

 問題を高度化した次元で解決する所が正反合の<合>でしょう。こういう合ならば高級な訳です。

 そういう相手であった場合には、弁証法の対話法は有効でしょうね。

 有効であり非常に高度だ・と思います。智人・賢人の類いの対話は弁証法対話になります。凡俗の世界ではなくなります。

 そうした弁証法対話をお互いに交わして行った行着く先は……。

 対話の成果と言うか終点と言うか、それは・お互いに相手を対象として取っている自分の態度を反省して見る・自分の己心を反省して見る・という世界でしょう。我が心念を観じ見る観念に帰着します。観は反省です。自覚へのオルガノンです。

 己心を見た場合、そこに何が浮かんでいるでしょうか。

 原理原則が浮かんでいる筈です。真理とか正義とか博愛とかデモクラシーとか、普遍とか尊厳とか最高善とか、とにかく、個人として・社会人として・国家の構成員としての・望ましい・在るべき原理原則が浮かんでいる筈です。

 相手に対しては、拒否拒絶的に反対論を指し立てる・という反批判を去って、相手を認め包容しよう・という正批判の態度……これが我が己心の中に浮かんでいる筈です。そうでなければソクラテスにしろプラトン等にしろ、聖賢の名に値いしなかった・と思います。この意味では、まだまだ無名の智賢やそれに近い人が沢山居たのではないでしょうか。

 我々信仰者としては、己心を見た場合、そこに何が浮かんでいるでしょうか。

 十界が浮かんでいるでしょう。我が心は十界のいづれなりや・という所に落着くでしょう。迷か悟か・という所です。

 更に言えば一念三千の観心……。

 お互いにそこへ合意する・という事になります。疑いが全く無い無疑の世界です。

 そういう最も有効にして厳格な対話というものは、弁証法対話であるべきだ・と言って好いでしょうか。

 究極は正統弁証法の対話です。それは、これこそ正統弁証法対話だ・と意識するしないには関らない事です。

 弁証法と較べて、類推法を用いた場合はどうでしょう。

 非常に初歩的なものです。類推で行けば、結局・自分の意見の押付けになってしまいます。高度な稔りは期待出来ません。古因明が学的には稔り少ないものだった・と言われるのは類推だったからで、これが一つの証処でしょう。

 対話においてどういう論理法を使うかは、論ずる対象にも、又相手にもよる訳ですね。

 テーマが同じでも相手が違って来ると論法が違って来ます。非合理な論法でないと言う事を聞かない相手も居ます。子供に「言う事を聞かないとお尻をぶつぞ」と言うのは、余り論理的でも合理的でもないでしょう。恋人同士の対話はフィーリングで共鳴を要求しているだけです。だから実際の対話の中には、正規の論法の他に・心情的論法という非合理な論法も在る訳です。

 裸の子供に「着物を着ないと雷様におへそを取られるぞ」とか、物を食べてすぐに横になると「牛になるぞ」と言う様な威嚇論法とか・心情的論法というものも在る訳です。更には目茶苦茶論法というのも在ります。バナナの叩き売り口上などがそうです。新興宗教などの論法は・殆どこうした心情的論法で固まってはしませんか。

 弁証法対話によって行着いた己心の寂照の世界から、演繹法や帰納法を見返したらどうなりますか。

 演繹法とか帰納法という分別は・結局・俗諦の世界なのです。行着いた己心の世界からは、照らして使う・という拘(こだわ)らない態度での使い方が出て来る事でしょう。これが「無にして有なり」という双照の建立の仮です。

 大体、本来の弁証法対話は、文字通りに<論を弁じて証明して行く方法>を採用した対話ですから、そこには・類推・帰納・演繹・が充分に活用されて行くのが当然です。<正>なる事象が在ればそれに対立して<反>なる矛盾敵対現象が必ず現われる・などという薮睨みの世界観などではなかったのです。ヘーゲル以降の弁証法は邪道で誤りです。こういう必然論は全く戴けません。


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