(3)反省的否定操作のオルガノン

 非合理領域の論法である弁証法というものは、論理ではなくて操作、意志的な操作です。形の上では一応論理扱いされるとしても、論理ではなくて論法であり、意志的な否定操作・反省操作です。この点で合理領域内の類推・帰納・或いは演繹とは性質を異にしております。

 但・念を押して置かなければなりませんが、西洋流に言えばそうだ・という事にすぎません。実は仏法には、弁証法とは全く違った四句分別という論法が在り、釈尊以来・四句分別を柱に反省を操作して来ております。この事は極く大切な点です。その事は章を改めて詳述致します。

 弁証法は反省法である・となれば、まず・反省とはどういう事か・という事が正確に掴まれていなければなりません。行為を反省する事と・思考や判断を反省する事とは、自ずと違った分野になります。弁証の反省は思考・判断・の反省になります。

 この弁証の反省・というものは、本来は、帰納や類推で得た体験法則を演繹的に展開しつつ・尚且それだけでは到達出来ない分野へ達する為に・高次の分野へ入る為に・否定命題を立てて<正対反>という局面を作る訳です。正と反との同時定立は<非合理>(反合理とは違う事)領域を展開する事になります。論の構造が縦型になります。

 この新領域を又・合理的に推論して得た結論結果が<合>という局面になります。ですから、全部の<流れ>の推理は合理で行い、<流れ>る命題の<組み方>・つまり命題の型は縦型構造になり、この命題の<組み方>が<弁証法>という<規則的な法>という事になります。純粋に智法です。

 ソクラテスの弁証乃至弁証法は、この本来の弁証だったのでして、そこで彼のは正統弁証法だった訳です。ところがヘーゲルやマルクスのはこういう仕組のものではありません。その上に・図式化してしまった邪道のものです。矛盾と反省とは智法でして境法ではないのです。

 江戸時代にも<反省>という用語は有ったかも知れませんが、有ったとしても倫理的なものに留まった筈です。思考や判断を反省する・という事は・日本の場合は・江戸時代にはまだ見受けられません。

 昔・儒教で三思三省という事が説かれ、<省>は<かえりみる>という事なので<反省>という用語が出来た・と思われますが、これが学術的な意味合いで語られる様になったのは、西洋の諸学術が入って来た明治以降だ・と思います。つまり極めて新しい事です。

 反省というのは、これだけを考えては能く判りません。<思考>と比較して考えて初めて判る事です。<考える>という事は、何事かについて・その多様性を統一する事です。つまり、主語で何事かを指示して・述語でその主語の多様性を統一する事によって、纏まった一つの知識を得る事です。

 その主語・述語で構成された論述命題は<無矛盾>の保証を要します。体系の中に矛盾が在ればその思考は成立ちません。誤りになります。

 ところが弁証法では、最初の命題の規定に限界と矛盾とを生ずる・としております。これは正しい事です。その結果全く逆の命題が考えられる・としています。これも正しい事です。これが<正>に対する<反>です。逆命題ですから正反は当然・矛盾する訳です。この反は正との矛盾を媒介として(動因として)発展する・と称しております。

 ここから怪しくなって来る訳です。何処が怪しいのか・と言うと、正・反・を横並べに<比較>の場面に展開する所がいけないのです。横に空間軸上に展開するからいけないのです。こうなると、矛盾は絶対に解決される事にはなりません。総合不可能です。

 とにかく弁証法側の言分としては、次に正と反との矛盾が解決され、否定の否定が行われて総合の段階つまり<合>に至る・この合は正反を止揚したもので・正と反との諸規定を内に含み・正反よりも高次元の概念に進展したものだ・と説明しております。

 正・反・を横並べにすると総合不可能。縦並べにすると・矛盾の解決・不可能、総合は矛盾を抱えたまま只重ね合わせただけ・という事になります。ですから図式弁証法はどう巧妙に言い繕ってみても詭弁の域を出ないのです。弁証法を・カントが<仮象の論理>だと見捨てたのは正しかったのです。

 その事はさて置きまして、<思考>には<矛盾>が有ってはなりません。

 ところが<反省>の場合はそうはなりません。「悪に強けりや善にも強い」などと言いますが、成る程・善と悪とは・相依の概念で・左右の法なのですが、悪を反省して善を行う・という行為には<無矛盾の保証>が有りません。悪の多様性をどう統一してみても、それが善になる・などという合理的保証は無い訳です。思考問題として・この善悪を眞偽と入替えても同じ事です。

 寧ろ・悪から善への移行には、<矛盾>を媒介にして、悪という<正>から飛躍し――これが本当の<反>――て善という<合>へ進んで行くしか有りません。この合は正反の否定的統合では決してない訳です。思考問題ならば・偽から飛躍して眞へ……です。

 こうして反省は矛盾を媒介し飛躍して行われて行く訳です。これは正反合と言っても、ヘーゲルやマルクスのそれとは丸で違うでしょう。反は命題ではなくて<飛躍行為>です。彼等のは命題です。これは結果的弁証法です。

 そういう事例は昔から沢山有りました。反省は矛盾を媒介にして行われるからこれは弁証法である・という事でしたが、これとは又別な事例がソクラテスに見られます。彼は正統弁証法の第一人者として知られている訳ですが、彼の対話は何時でも相手に<己れの無知を自覚させる>様に論述を進めて行ったそうです。

 無知を自覚すれば反省して知を求め、愛知の精神が向上するからだ・というのがその動機であったそうです。つまり相手は「身分は有知だ」と思っていたのに、「無知だった」と思い知らされて、その<矛盾>に気が付いて目覚める・という事だそうです。これもやはり矛盾を媒介にした弁証法になっています。矛盾が智法である事をも示しています。

 こういう自覚はどうして出来たか。それは今のソクラテスの例で判る事ですが、較べるものが目の前に現われたからでしょう。相対が反省自覚への契機になる訳です。そこで発憤するかしないか・が分れ道です。

 自分は美人だ・と思っていても、スタジオへ行って女優群に取り囲まれてみると、周りはそれ以上の美人ばかり。自分の方は色褪せてしまってちっとも美人ではなくなってしまう。矛盾を感じてしまい、しょげて悩む・という事になります。何事につけても<矛盾>は悩みの種なのです。

 美人・不美人の問題は気の持ち様でくよくよする事も無い訳ですが、善悪となるとそうは参りません。悪は気の持ち様で善にはなりません。必ず反省を必要とします。

 下品な人は上品な人に囲まれると格差の矛盾に悩んで品位を求め・劣勢を回復したい・と感じます。人は俗っぽいから風格を求めます。俺はそんな事などしない・と言う人も、能く見ると着物・持物で身を装って風格の埋合わせを計っています。ここに・こっそりとですが、矛盾やら反省やら弁証法やらが在る訳です。

 反省と言うと、普通は良い方へだけ受取られますが、今の場合は実は悪い方へ働かせていますね。してみると、こういう矛盾や反省や弁証法などは、全て自分の<心内の問題>ですね。<己心の法>ですね。人の智法ですね。悪反省も有りますね。

 山川草木や犬猫が反省した・などという事は無い訳です。苦しんでいる犬猫は居ても<矛盾に悩んでいる>犬猫などは居りません。これらは人間独特の能力です。自分は極めて有限で大した事は無いのが現状だ……という自覚が無ければ、反省も努力も向上も救いも悟りもへったくれも無い訳です。

 人間には必ず<良心>が有って、良心の咎めに刺激されざるを得ませんから、向上しようと努力もし・救われたいと思い・悟りたいと希求する訳です。動物と人間との差はそこです。知っただけでは仕様が無いが、まず、鏡を見て己を知る……その鏡が仏法です。己の何を知るか。それは過去現在の善業悪業、その業因業果を知る。所詮は己れの<己心>を知るのです。知るから反省出来ます。

 「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と言われております。これが本当の自己反省です。

 その「見よ」ですが、見てどうするか。見て推理しただけでは「ああ判った」でお仕舞いです。何の足しにもなりません。ですから・見て自覚し反省し・然るべき処理を取らなければなりません。ここに・矛盾・自覚・反省・弁証法・というものの役目が有る訳です。真の弁証法はここへ用いる反省弁証法・そして自覚弁証法でなければなりません。

 末木先生の 『論理学概論』 には

 「自己反省による一人称の自己認識は矛盾に陥り、合理性を喪失することによって、そこに主観的 な非合理な認識を獲得する――それは矛盾を媒介とする思考であるが故に弁証法である」

と在ります。弁証法は心の問題を取扱う論法である事が明らかです。

 本当の意味で己を知る・というのは、こんな難しい事は無いのです。深層心理内に無意識層を抱えているからです。

 己心の中へ入って行く場合、自分の心の中で弁証法的な対話が行われて行きます。考えている自分と、考えられている自分とが分けられると、その考えている自分を更に考える自分が有る……という様に、反省操作の主体としての自己は次々に対象化され、瞬時に過去化して客体になってしまいます。こうして・主体自己は不可得無所有だ・という事でした。このノエシス・ノエマの話は既に済みました。

 自分というものは、絶えず主観主体であると共に客体である・という心理的な操作の弁証法がそこに有ります。そこで仏法には、西洋には無い、二値論理に非ざる・様相論理にも非ざる・三諦論、空という問題が出て来ます。

 俗諦は究極の真には非ず・と反省否定して、究極の真はこれなり・と反省肯定する。ここで認識とか実用とか・という功利的な領域から抜け出し、悩みを解消し解脱する・という体験的な真諦の世界へ入って行くのです。

 そこは寂照の無分別世界ですが、説明出来ない世界へ入ってしまったという事で黙っていたのでは、誰にも伝える事が出来ません。そこで又、その世界に閉寵もるに非ず・と言ってもう一度否定し、再び言説の世界へ帰って来るのでしょう。

 だから空は二重否定で「有でもなければ有でもない」と言う。二重の反省否定になっている訳です。有でもない・という事はゼロという事ではありません。実有に非ず・肯定するに足らず・という事です。非有は決して無や虚や絶対無などではありません。「有に非ず」と言っても「実有には非ず・肯定に値いせず」と言っているだけです。

 人に取って何等かの有はその人に取って事実であっても、その人に取ってさえ真実ではなく、無常だから物事はどんどん変って行きましょう。それを時間上で一時的に捉えて・実有だ・とは言えません。それに連れて、もう固定化してしまった言説も真実ではなくなります。

 真実ではないからといって、真諦の世界へ入って「言語道断だから物言うのやめた」と言うのでは、どうにもこうにも衆生済度にはなりませんから、説明しきれない事を承知の上で、又言説の世界へ舞戻って来る訳です。無分別を因縁を頼りに説きます。

 その分別を尽くさなければ無分別世界へ飛込めませんが、一面、分別は邪魔でもあるのです。因位の衆生はそうなのです。然も・不分別を行ぜず・で、分別も行ずるのです。

 帰納法や演繹法という分別世界を超えるオルガノンが弁証法。これによって言説の世界から言語道断の世界へ入る……。

 自我の自覚弁証法は「我れ思う」という自我の自覚の非合理領域へ入るだけですから、仏法の言語道断の悟域とは違って、迷いの九界にすぎませんが、与えて言えば無分別の一部には到達する訳です。

 分別の世界と無分別の世界とが在って、仲々行き来し難いのです。例えば棒高飛びというのが在りますが、幾ら忍者でも棒無しではあんな高い所を飛べません。やはりポールというものを使わなければなりません。弁証法はそういうオルガノンなのです。

 分別を飛超えて入って行った世界は、無分別な己心の十界の世界……。

 寂静の世界と言っても好いし・涅槃と言っても好いし・言葉は色々在ります。悟り・解脱・法身・般若・と言っても好い。

 或いは「随縁不変一念寂照」の寂照・と言っても好い。やはり・寂照・という所に一番深い意味合いが有りますね。不変真如の理に帰入して帰った所から、又・随縁に命(もとづ)いて発現する所、この寂照の世界が一番深い……。

 一番深い訳です。そして特に「一念寂照」と言って、わざわざ「一念」という言葉が付いている所に味わいが有る。寂照はその一念の中に有る訳です。寧ろ・その一念が寂照になりきっているのです。世法一切を寂し遣り蕩かした上でその世俗を積極的に照らし支えて安立しています。


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