(2)仏法の演繹的側面・帰納的側面・類推的側面、一念寂照

 実際の世俗世界は、個々人の需要の総和としてのニーズ・社会的政治的国家的ニーズ・それに個人毎の欲望等が渦巻いて混沌としている行動世界ですが、人と人との交渉で成立っている面では、演繹的帰納法等としての分別世界・思考と言説の世界・と考えられます。これに即して仏法の論理的な各側面を調べてみたい・と思います。まず演繹的な側面からするとどうでしょうか。

 社会現象としての我々信仰者の行動は、妙法という一法に基づいて、この思想と働きとを力にして、現実の諸活動を展開して行く。千変万化の活動に立向かって行く。これは<一から多へ>行く方・即ち演繹的な方向です。

 信心という事柄の基本・を考えてみると、一切を妙法に基づいて考えたり行動したりする。これは<妙法という一から・実行の多へ>の方向です。この意味では演繹的な仕方を取ります。

 化他の為に人を化導しようという時は、理解力はメじゃないのです。問題は<洞察力>です。この時には仏法という一法から演繹して観察し・事に当たります。「仏法は演繹法だ」という言い方は、この局面と・正見に住する為に反省に基づく演繹諸行為(自行)をしている局面・とについての事で、決してこれ以外ではありません。取違えたり拡大したりしては甚だ困るのです。

 信心の在り方から体験的に・仏法は演繹法だ・という言い方になっているのでしょう。仏法そのものが・法として演繹法だ・という受取り方をしては誤りになりますが、今の意味では正しい訳ですね。

 そうです。でも、信心はそれだけではありません。私達は朝晩勤行をする。それで「(日常の何かで)苦しくなったらお題目を沢山あげろ」と言うでしょう。お題目は一で・沢山唱える事は多です。沢山唱えて専念している所は<お題目の一>です。こうして・一から多へ、そして多から一へ向かう。多を通じて一に専念しています。一 → 多・ 多 → 一 と往復しています。

 一 → 多・は演繹的な形、多 → 一・は帰納的な形、往復・は演繹と帰納とが合体した形・という事ですか。形で言えば演繹的帰納法といった趣になっています。妙法そのものは直接には検証出来ず、唱えて、自行化他の結果から利益を得る実験的検証によつて真理性を確認出来る……という所からは、正に仮説演繹法その儘の姿になっております。

 演繹法は一から多へ向かう・と言う。一の中に既に多は内含されているのであって、内含されている多を表へ顕在させる手続きが演繹という事でしょう。若しも信心の在方というものが、演繹だけで好いのなら、お題目を一辺唱えてそれで終りで良い訳です。仏法の多なる万法が既にその中に内含されているのですから……。

 後はその万法の多を表へ辟在させるべく、学と化他行だけを励めば良い。そうなったら肝心な反省もしないで、唱題の方はそれで終りで好い訳です。

 しかし、実際はそうではありません。沢山唱えて・題目の一に専念する・という帰納の方を重んじています。更に、諸行動についての我々の信仰の日常は、法を求めて、寧ろ多から一へ向かっています。この面を見れば、行き方は明らかに帰納的になっております。

 化他の対話について、人に指導する・という時には、演繹の筋道で仏法の道理を話しますから、これは演繹だ・と言う事は許されます。聞く方も演繹の手続さをきちんと正して聞かないと・判らない事になります。然し実際には多方面から一の妙法を説きますから・この面では帰納です。化他の対話や教学の研究の仕方も、実際のやり方は帰納的ですね。

 色々な現象から一つの法則へ辿り着いて行くのが帰納法の特徴です。多から一へ向かう・という事は、結局、色々な経験・体験・色々な思想や思索・人生観、これらを通じて・唯一の動かすべからざる妙法へ辿り着いて行く。これは、外から見ていると明らかに帰納的です。

 その妙法は・待絶無分別の不可思議境・という智法ですから、最早分別(論理・合理)世界ではない……。

 仏法は理としても・理論面についても・皆・演繹法だ・と思い込むのは間違いです。類推・帰納・弁証・何でも在ります。古因明の理法や経文の譬諭説は類推です。体験談を交換し合うのも或る意味での類推でしょう。類推は各概念の内包のうちの一致点を頼りにして推理し推論を進めます。

 「乳は雪の如し」などがこれですが、<白い>という一致点を捉え損ねると「乳は雪の如しと聞いて冷やかなりと思う」(『止観』)の愚に堕る訳です。類推ばかり強調していると自分の意見の強制になってしまうし、類推法は論理としては証明力の余りはっきりしたものではなく、極く蓋然的なものです。

 仏法の論理的側面は、究極には、反省をバネにして入る四句分別の世界です。更に、それをも滅した・言語道断・無分別・の行為世界です。何処迄も基本は反省自覚法です。

 仏法は演繹だ・というのは、言われた局面についてだけの側面論だった・という事を忘れて、無制限に拡げたり解釈違いをしてはいけないのですね。

 仏法は演繹法だ・と決め込んでしまったら、固定化と言うか実体化と言うか・大邪見でして、大変な偏向になってしまいます。こういう段階的な所へ座り込んでしまったら進歩が無くなります。頂堕という堕落・転落です。

 こういう転落を防ぐ為にも、演繹法とか帰納法とかについて、基本的な所をはっきりさせる必要が有りますね。不注意な誤解や混同によって、実践上にもどれ程無用な問題や混乱が起こって来るか・知れないでしょう。現に多くて因っています。

 確かにそうした学的理解は、行の中に包み込まれたものとして、化他の為には必要です。結局は日本人全体がそうなのですが、論理学の基礎論に弱い所が有って、それで目茶苦茶になって仕舞い兼ねない。論理学と数学とは形式科学という科学ですが、論理基礎論と数学基礎論とは単なる科学ではなくて哲学でもあります。丸きりこれに弱いのは困ります。

 「一念寂照」と在りますが、寂照という所は論理外の領域ですね。

 これは反省自覚の領域です。寂照は無分別世界・つまり・認識の領域を超えた・体得実感の世界です。そこは最早・単なる仮有の世界・縁起の世界・でもなく、待対を絶した不可思議無分別の心行所滅の実存世界です。念は動き働いていて然も有無等の二辺見を寂し制している状態です。

 心行所滅は概念操作を超え・認識を超えてしまっている……。円融三諦の妙理を体得実感すべき世界ですね。

 実感には厄介な面が在ります。「私は今嬉しい」と言っても「御馳走を食べて美味しかった」と言っても、それ、説明は出来るけれども、どういう風に嬉しく・美味しかったか・という、実感した肝心の体験内容は一部しか言語化出来ないでしょう。

 現に私と貴方とがこれを食べて、「美味しかった・美味しかった」と全く同じに言い合ってみても、好き嫌いの程度や・味覚の敏感さの度合いや・体質の差その他に違いが在り、どう美味しかったか・という事は説明しきれません。所詮・無分別なのです。

 その一般化しきれない所が<生の哲学>でもネック(障害)になっております。

 その説明しきれない言語道断の世界、仏界についての言語道断のその先の感得世界が<寂照>です。これは反省の否定に否定を重ね――少くとも四回反省否定をしている――た挙句の判断・反省自覚の世界です。音は耳に聞こえていても闇夜に居ても寂照は寂照です。

 更に、何を本尊として選んで信ずるか・という・他の本尊との両立(矛盾)を許さない所の自覚弁証法の世界です。「一念寂照」というのは明らかに弁証法的です。もっと正確には四句分別的です。更にもっと正確には絶言的です。無分別です。仏界の無分別です。

 論理や認識が発出して来る・凡夫の分別以前の、仏様の無分別の領域が寂照ですが、その寂照は、帰納や演繹で得た世俗の経験を踏まえ、それを反省して客観的な認識の領域を踏み破り、究極的体験の別世界へ飛び込んで行く事によって自覚されて来る……。

 その別世界は、勝義から見た世俗の中での他ならぬ己心の法の己心そのもの・一念三千の一念そのものです。そこ迄辿り着く・迷悟・の両立を許さない・自分の選択に関する<矛盾排除過程>が弁証法なのです。辿り着いた所は弁証法をも脱け出した所です。それは、自己反省という行為をバネにしてだけ・飛び込んで行ける世界なのです。そこは最早・言説・言語・では表現出来ないから「言語道断・心行所滅」と言う。

 我々凡夫としては世俗の仮の中に生きているので、因位の者に取っては、弁証や四句分別を介して寂照の世界が有る・という事ですね。

 教観いづれも欠くべからず・と言うのはそこの点を指しています。世俗世界での日常経験は、充分認識しながら処理して行ける遣り易いものです。この遣り易い所からもっと突込んでみると、深層心理であって自分としても掴みきれない面倒な体験世界が出て来ます。

 そこへ飛込んで行くそのオルガノンが弁証法や四句分別な訳です。この二つは<プロセス(過程)の道具>です。ここからそこへ飛込んで行くには、叙述上の肯定も否定も止(や)めた――止めた・も反省否定――という・行動上の弁証法や四句分別のオルガノンに拠るしか方法が有りません。それは分別を廃めたのですから無分別でしょう。有りの儘正面から全的に世界を抱込んだ場面です。


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