6 帰納・演繹・弁証法

(1)多から一へ(帰)・一から多へ(命)

 演繹とは一般的法則から個別的な事柄を導き出す操作の事です。例えばユークリッド幾何学ならば<五つの公理>が一般的法則として前提され、個別的な事柄としての全ての定理はこの五公理を演繹する事によって得られます。この前提を認めながら・その演繹命題である諸定理を認めない・のは矛盾になります。演繹は一から多へと進みます。

 演繹法の特徴は、一般的前提法則の中に、演繹命題は既に含まれていて、それを明らさまにする操作が演繹ですから、この導出関係は絶対に正しい訳です。どんな思想の人でも一致する事になります。

 この正しさは、誰の経験にも全く関係無い正しさですから、アプリオリな真で・形式真・とも言い、演繹体系である<論理学と数学>は<形式科学>な訳です。論理は言葉の計算・数学は数の論理・で、これは”兄弟”です。この二つの学は、経験に関わり無く絶対に正しい替りに、全く内容空虚なものです。

 帰納は演繹とは反対の性格を持ちます。多数の個別的事柄の集合から一般的な法則を導き出す操作が帰納です。多から一へと進みます。この個別的事柄は全て経験事象ですから、帰納は物理学や化学などの経験科学の法則を生み出します。

 その、個別的経験から法則へ・と一般化する過程には、絶対的な正しさを得る方法は、原理上有得ません。ですから帰納して得た法則つまり知識は・蓋然的に正しい・だけです。その替りに空虚ではなく稔り多い内容を持ちます。

 演繹は絶対に正しいが内容空虚。帰納はどんなに確度が高くても蓋然的に正しいだけだが内容豊富。男と女みたいなもので、相補関係になっています。両方を合わせると・演繹的帰納法という科学の方法になります。

 「無量義は一法より生ず」などは、思想としては表面上<一から多へ>向かう演繹形になっておりますが、「仏法は演繹法である」という説明はその儘で宜しいのでしょうか。

 <一から多へ>向かう表現は経文に色々在ります。又・経文でも釈論でも・文の述べ方・は演繹を無視しては展開不可能ですから、この限りでは演繹法です。唯それだけの事で、事情は世俗の学問の文章でも同じ事です。仏法は演繹法だ・という話は、自行と化他との為の洞察・に関しての話です。

 仏法は無分別を行じ・且つ・教えるものなのですから、分別のオルガノンである演繹法が仏法の骨格を形成する訳は有得ません。唯・仏法は般若(知慧)が重要ですから、無分別般若・分別般若の内、後者の中には当然・演繹も登場する訳です。

 そういう事では、分別の分野には、演繹ばかりでなく、帰納も類推も働く訳ですね。分別や無分別の分野には、部分的には弁証法も見受けます。

 仏法という教法や経典の<思想の骨組>が演繹法だ・と言う話ならば、とんでもない大間違いで大邪道になります。仏法は必ず反省自覚法であり、その事を説く経典は、四句分別・という独特な論法を縦(反省)にも横(比較)にも自在に展開した<無分別の分別>で、断じて演繹法ではありません。「仏法は四句分別論法なり」です。

 然も更には、本当はそうした分別を超えないと仏法ではありません。経文を見れば帰納法も随分在ります。表現としての「毘蘆舎那一本異ならず、百子枝葉同じく一根に趣くが如し」などは完全に帰納法です。これらや仏法での演繹は思考と説明との補助にすぎません。

 反省面を差置いた一応の話としてですが、不変真如の理に帰する方向は帰納法・と言えましょう。諸考えを不思議一法の方へ纏めて行きます。

 然も認識的な帰納法ではなくて、体験的実践的な帰納法です。元々帰納というのは実際的体験的な分野でしょう。演繹というのはこの反対で・形式世界の真理・思考の方法・概念や言葉の計算・頭脳操作の計算・です。形式合理のオルガノンです。

 やはり一応の話としてですが、随縁真如の智に命(もとづ)く方向は演繹法……。反省上での演繹諸行為をしている……。この演繹を誤れば妄分別を得て邪見になってしまいます。正見へのオルガノン……。

 智に基づいて一切の信仰活動・一切の生活・をやって行くのですから、これは反省に立っての演繹的な生き方でしょう。ここに一応・仏法は演繹法だ・という局面が見られます。論理の窓口から見ればそう言えます。だが立行は無分別法です。

 実際の信仰生活は、反省立行の大枠内で、演繹法と帰納法とが一つになっている……。

 ええ。一つになり演繹的帰納法になっています。十九世紀の後半ですか、帰納法だけでも駄目だ・演繹法だけでも無意味だ・結局・現実の世界を見るには・演繹的帰納法でなければならない・という議論が、イギリスのミルから起こったのではないですか。

 ミルは十九世紀に<帰納論理学体系>を作った人ですから、演繹的帰納法は、その後継の人達の手でもっと研究が進んだ筈です。十九世紀末から二十世紀初めへ掛けてでしょう。現在・科学研究の好い武器になっております。

 演繹は形式世界の真理を示し、厳密正確であるが、現実世界での具体的な真理を直接に現わす事は全く無く・内容を欠く。帰納は現実世界の実際の法則を示すが・厳密正確さの保証は無い。

 そこで、両方を合体させて演繹的帰納法を作れ・という発想が起こった・と言います。これは<一から多へ>と<多から一へ>の合体化で、いわば思考上での往復運動を考えた・とも言えそうです。

 真理に二種類在るでしょう。常に現実から離れない世界と・現実の事象を要しない計算の世界・との二つです。<数>は物の性質ではなくて<概念の性質>ですが、演繹法は例えば、十は十一引く一・と言っても好いし、百割る十・九足す一・十分の一掛ける百・という様に、十という数に対する説明は無限に在ります。

 これは計算ですから・必ずしも直接的な体験を必要とせず、万人に共通です。

 勿論、事の次第を語れば、先祖代々から色々な経験を積み、そこから十進法という約束事を発明して、そこで初めて出て来た方法ではありますが、これを受継いで現実に使っている我々としては、別に直接経験を必要としない純粋計算の世界です。この意味でアプリオリです。

 けれども、アプリオリでない生々しい真理・という事になると、帰納法で立向かう以外に無い。どう立向かうか・と言えば合理的に立向かう。その為にはどうしても演繹法を使用せざるを得ません。

 昔から実際にそうして来たのだし、更に一歩進めて、そこで演繹的帰納法・という事が言われて来る訳でしょう。帰納法と演繹法とを相互補完させた・とも言えそうです。科学進歩の有力武器になります。

 演繹的帰納法はミルが『帰納論理学体系』の中で「帰納法を助ける為の演繹法」として提唱したものです。演繹的帰納法は、その中でも、仮説が直接に検証出来なくて、唯間接にだけ検証される場合・を特に<仮説演繹法>と呼び、これも含めて、多くの既知の法則を・より包括的な法則・の下に統一組織付ける場合等に用いられます。

 『哲学辞典』(平凡社)には「これは、まず観察された事実によって暗示された仮定を仮説としてかかげ、その仮説より論理的結果を演繹し、その結果を、現実の事実として合致するか否かを検証する、という方法によって法則を確立するものである」と在ります。

 これは何処迄も帰納法が主体で、これを助ける役目で演繹法が使われている関係になっています。『事典』には「例えば直接には検証出来ない仮説から演繹的に展開された結論を・実験的に検証して法則を確立する為の方法であって、演繹法と帰納法との結合に他ならない」と在ります。この方法は物理学のミクロ世界の研究に非常に役立つています。

 次に、仏法でも用いた古因明は類推法で、新因明は演繹法だ・という事です。この類推法は帰納法の一種だ・という事ですが……。

 帰納推理に・特殊的帰納法と一般的帰納法とが在り、伝統的には・特殊的帰納法が類推法と呼ばれ、一般的帰納法だけが帰納法とされて来た・という事です。個と普遍とを相対して言えば、一般に普遍概念は個々の個それ全部を帰納して得たもの・という事になります。「普遍は唯の音符にすぎない」面も在る替りに、帰納された極めて現実的な半面も在る・という事になります。


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