(5)縁起因果は無窮因果――根本原因・究極結果は断見

 因果とはまず以ってルールから始まる<経験法則の枠組>である事が大切です。これは講談社現代新書『現代科学思想事典』の「因果性」の項を見ると能く解ります。

 「コーザリティ(因果性)という言葉で意味されるものに因果律、因果関係、因果決定論の三つがあ り、多く混同されているが別のものである。

 因果律は、同一事象(原因)には同一事象(結果)が伴うこと。その具体例が因果法則。

 因果関係は、二つの事象間の関係で、この二事象が因果律・因果法則の事例になっているとき、 この二事象には因果関係があるという。

 因果的決定論は、因果律の普遍妥当性を主張する学説。

 因果律―― 因は果に対する最小の十分条件。巨視世界では厳密な意味での同一事象は無いから、そこでは厳密な意味では因果律は成り立たない。巨視世界を研究するモデル世界で成り立ち、現実の巨視世界には近似的に用い得る。因果は巨視世界の諸事象をまとめる形式、理解する形式であり、現実にそれらの形式を用い得ることがまさしく経験的事実なのである。これに相当することは素粒 子の世界では成立しない。

 因果関係――「真の原因」「真の結果」ということは自然事象間には無い。ある事象の原因として何を数えるかは、問題の状況および当事者の問題意識に依存する。その際、本来数えあげるべき事象をすべて数えあげることはしない。因果関係とは一般には事象の系列を見る形式にほかならない。それらは実用的な概念であり理論的な概念ではない」

要約して抜書きにしてみると、ざっとこんな風に書いて在ります。これで大体宜しい訳ですね。

 そう思います。世俗の学問上ではこれで立派なものです。この因果についての構造的な解明は非常に参考になります。因果一般については大体これで見当が付くと思います。因果は物事の流れを<見る形式><まとめる形式>です。

 例えば、因果関係が逆転したとすれば、何の前作用も無くいきなり酔払って、その後に酒を飲み出した・という様な事が起こる筈です。電灯が付いてからスイッチを入れる事が起こり、先に子孫が居てその後に結婚した・という事が起こります。これでは理に合いません。

 これで判る様に、世の中には不可逆現象が在るものだ・とまず承認し、その不可逆現象を<見て纏める形式>が因果なのです。因果は経験法則ではないのです。経験法則を成立たせている<人間側の認識上の規則>なのです。自然法則の枠組です。

 「蛙が鳴けば雨が降る」と言いますが、これは相関関係にすぎず、因果からは相関関係を追出さなければなりません。又・因果連鎖を言う以上、因果と時間とは切離せない事が判ります。因果と時間とは相互依存で縁起の間柄です。

 条件と事象との間の因果連鎖は時間に依存します。ところが<計る>という点では時間の方が因果連鎖に依存します。相依です。ところが竜樹によると・因果は色や非色の存在ではない・空だ・と言っています。この意味は、因果は外界の事物事象の中にそれ自体として在るものではない・因果を実体化するな・という事です。人間の身の上での因果関係そのものの抹殺ではないのです。

 因果律は約束事であり、これを対応させる現実世界は無窮の連鎖連続体だ・となれば、因果関係はこれ又・無窮の連鎖にならざるを得ません。ですから因果に始まりや終りを考える事は出来ない事ですね。

 始めも無ければ終りも有りません。無始無終です。根本・根幹も無ければ枝葉も在りません。特に<枝葉>は<原因>の名に値いしません。そんなのはもう原因ではありません。因果の境法化は危険千万なのです。

 日常言語では能く「何々の根本原因は……」などと平気で習慣的に使っていますが、これはとんでもない話で、絶対に仏法や哲学内部へ持込んではなりません。三人称世界であれ一人称世界であれ、<根本原因>などというものは決して在りません。

 私の身の上なり行為なりに何か結果が有って、これに何か行業上の根本原因が在ったならば、根本原因に対する時間上の過去当時には、もう原因は無かったのでしょうか。私は無因で暮らしていたのでしょうか。竜樹が「無因よりも生ぜず」と言っているのに、私は・無因生の存在・だったのでしょうか。

 この・根本原因・という発言は、何事かを強調しよう・とする場合に、無闇やたらに乱発される言葉です。使わない人の方が珍らしいぐらいです。

 若しも<根本原因>というのが在るならば、<究極結果>というのも在るべきで、始まりと終りとが出来て六師の<断見>になってしまいます。こういう脱線は因果を実体化するから起こるのです。『華厳経』には<無尽縁起>を説いて、そんな馬鹿な話は有得ない・と明かしております。

 「事象の原因として何を数えるかは、問題の状況及び当事者の問題意識に依存する」という指摘も大事な事だ・と思います。

 病気をした。その原因は何だったか。これは、お医者は医学の立場から原因を数え挙げる訳です。医学の窓口・という制限付きで数え上げるのですから、別の窓口からの指摘を拒否出来る力は無い訳です。

 東南アジアへ旅行してコレラ患者になって帰って来た。これは生ま物を食べたからだ・と言う。でも同じに食べて患者にならずに帰る人も居る訳です。偽原因は有得ぬ事ですが、生ま物を食べた事が必ずしも<主原因><真の原因>とは言えなくなります。原因そのものは真ですが、<真原因>は有得ないのです。

 東南アジアヘ<行った事>が原因かもしれません。生まれて生さているからコレラという病気をしている。でも<行った事><生まれた事><生きている事>を原因に数え挙げる人は居りますまい。ところが十二支縁起では・生まれて生きている事・を諸苦――コレラという病気も諸苦の一つ――の原因に数え挙げているのです。<生>も立派な原因です。以上を一括して<業>が原因です。

 生きていないと病気はしませんから、本当はこれも立派な原因ではある訳ですね。すると、原因には相当に人間の<勝手>が介在している・と言えそうです。正に「実用的な概念」です。

 世間では病気・貧乏その他、何に付けても、生理条件・身心の能力条件・社会条件・の方だけを原因として数え挙げる訳です。これも考えてみれば随分人間の<勝手>な訳です。その他・巡り合わせや運を条件に数え挙げる人も居りますが、普遍的な原因だ・とは世間は認めないでしょう。然しこれも立派な原因と言えます。

 善運・悪運は前業の所産だ・とすれば、巡り合わせや運は、寧ろ<普遍的原因>である訳ですね。然し客観の立場としては、これは認めない……。

 以上を纏めて言えば、横に空間軸上に展開した諸条件・諸原因だ・と言えないでしょうか。若しも縦に時間軸上に原因を探し求めて行ったらどうなりますか。そこを個人の一身上に追及して、<業が因となる>と教えている所が仏法独特の因果論になります。親の因果が子に報いるのではなく、子の因果が子に報いるのです。

 行業・作業が因となり必ず果を招く、どういう果を招くか・と言うと・十界のどれか・という果を招く。因縁・果報・というのがこれです。身を慎まなければならぬ訳がここに有るのです。道徳屋のお説教などとは訳が違うのです。一人称世界の自分一身の上では、悪業因からは決して善果は得られません。必ず悪果です。地獄因業からは必ず地獄果・仏因からは必ず仏果です。因果は厳しい・と知るべきです。


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