(4)仏法は二因二果の行業因果――因果は実体ではない、関係である。

 正確に言えば<因果>と言うだけでは中途半端です。<因果律>か<因果関係>か<因果決定論>か、どれかに決まった形でないと用語として成立しないでしょう。

 そうです。そしてこの三つは各々内容の違ったものです。普通・仏法で<因果>と言う場合は<因果関係>(因果性)という意味で、その省略型として使われています。全てがこの省略型だ・という事を心得ていないと可怪しな事になります。「仏法の因果律」など説いてません。

 仏法での因果関係・と言いますと……。

 基本から言えば、仏法では縁起因果関係として<行業因果>を説く訳です。つまり身口意の三業に亘る作業(さごう)についての因果です。一人称世界での因果です。これは実存因果でもあります。テーマは<人の作るカルマ(業)>です。業相続を見別けて向上していくことです。

 確かに<地獄の業(因業)を行って天界を得た(業果)>などという事は有得ない事です。地獄道の行業因からは行業果として地獄界しか得られません。これが縁起行業因果というものです。この<行業>が仏道修行という行業になれば、行業因果の枠内のものとして<修行因果>という事になります。行が満ずれば非因非果になります。

 修行という現象は常に<連続して連鎖>して行きます。縦に時間的には連続し・横に空間的には諸行動に連鎖の輪を繋ぎ広げて波及して行きます。これによって功(功徳)を積みます。滅悪生善の功徳を積みます。

 我々に必要な事は、連続し連鎖して行く修行や現象について、唯<因果連鎖が有る>というだけでは仕様が有りません。真に必要なのは<どの様な因果連鎖が有るのか>の方です。事実が必要なのです。

 <地獄の因行から天界を得た>のが事実ならば、偶然論の方が真実になってしまいます。事実、<因果撥無>と称して偶然論も昔のインドに在った(六師説の一)のです。修行の因果論というのは、その中心は、<天界(六師その他)なり仏界(仏様)なりを実証出来るかどうか>が焦点なのです。これが修行因果というものです。これは実存因果です。

 その辺はどうなりますか……。

 仏法では殆ど、修行上と修行者の位・つまり行と位……行位の上の修行因果です。果を弁ずるものを縁も含めて因と言い、因は能弁・果は所弁・と説明しています。それでも、先行する事象と後行する事象との関係について用いる場合も有ります。

 唯・客観的な認識面については余り論じていない様です。というのは、直接把握を客観化した認識面は、一貫して縁起で論じていますから。

 学問の因果と仏法の因果との違いは……。三人称と一人称との違いですか。

 学問での因果というのは、古いギリシャの動力因・機会因・目的因・形相因・質料因・の話は別として、近代以降では・客観説の上の因果として一因一果説です。一因からは必ず一果で、二果多果にはなりませんから必然性を持つ事になります。これがコーザリティ(因果)という事です。

 つまり、エンゲージメント(約束事)としての<ルール(規則)コーザリティ>を人間が自然界へ投掛けて、それで自然界から人間の方へ与えられるのが、因果関係で秩序付けられた<ロウ(法則)コーザリティ>という事です。化学ならばそれを質料因の面で追及します。三人称客観の場ですからこうなります。

 仏法の場合は体験上の因果でしょう。つまり主観者の一人称世界での連鎖因果……。行動諸般の万端に亘ってどんどん拡がって行く=……。

 人の<実存上の因果>です。そこで一般に学者が言う二因二果説なのです。つまり、「因縁果報」と言いますが、因は内なる因、縁は外縁とも助因とも言い、外縁・助因・という事は「助因は縁なり」(『玄義』)で<外なる因>なのです。だから因縁で二因となります。これは質料因などではなく、縁起因――機会因がこれに近い――の面です。

 学問での客観の場合は、縁が抜けていますから一因説です。仏法の方は二因説です。それから果と報とでしょう。果と報とは同じか違うか・と言えば、詮じ詰めれば・一身に受ける・という点では同じです。結局、因果の果の方も二重になっていて、強いて言えば二果説なのです。こういう事で二因二果説です。

 その辺の事情は観心本尊抄に在ります。「釈籤第六に曰く『相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り』」……。

 だから普通に「因果・因果・」と言っているその因果は心に対するものです。縁は色心に・報は色だけに・来ている訳です。果は心の方・報は色の方ですが、色心は本来一つのものです。すると果報もこれ又一つのもので、結局は果の中に収まって二果となります。不一不異な訳です。

 科学は客観世界だから一因一果、仏法は行動世界(一人称)だから二因二果、ここが科学と仏法との違いです。但・この・二因二果・というのは学者の言い方でして、仏法自体の中で言っている事ではありません。この言い方を流行らせるのは警戒ものです。

 イギリスの経験論者ヒュームは「自然界の中では事象と事象との間に因果関係は経験出来ない」と否定した・と言います。これは正しい訳です。竜樹の因果否定と一脈通ずる様ですが……。

 ヒュームは<因果性の客観実在>を否定し、竜樹は<因果の実体化>を否定した所が違っております。これには『プリンキピア』を書いたニュートンの考えを参考にすると好いのです。そこでは、世界の事象については 「同一原因から同一結果が導かれると規定すべきこと、それにより自然界に整合的な秩序があると見做すべきこと」の二点が主張されています。

 ギリシャの昔からデカルト迄の間、長く支持されて来た<自然因果性>という考えは、科学的に完全に否定された訳ですね。という事は因果の実体性が否定された・という事でもあります。

 つまり、因果は・まず最初に人間の約束事・エンゲージメントとしてのルール(規則)として立てたもの・として有る・という主張です。人間が勝手に――但し重々に理由は有る、決して・手前勝手に・ではない――決めるのだ・という事です。

 人間が自然界へこのルールを投与するから、その見返りで、今度は自然界が人間へ・因果法則・という自然法則を与えて呉れるのだ・と言う。これがロウ・コーザリティ(法則因果)による整合自然法則だ・という事です。

 人間と自然との間でギブ・アンド・テイクをする、そこに自然株序を人が認識する・と説いています。このルールが<経験法則の枠組>として働くのです。つまり因果とは・カオスを排する<分別の枠組>なのです。人の行業の<指針>なのです。

 カントが、形の無い大空も丸い窓から見れば丸く見え、四角い窓から見れば四角く見える――物理学・中谷字書郎博士説――と言った認識構造論も同じ考え方ですね。『プリンキピア』を踏まえている・と思います。

 こういう因果なら、有るとも言えない無いとも言えない・無くて有る・という非実体因果法です。因果は客観のものとしてでも、関係であって実体ではないのです。まして仏法のは一人称世界での連鎖因果です。始まりも無ければ終りも無い無尽(無窮)因果です。無始無終です。命が無始本有だからです。

 実存因果・縁起因果・行業因果・行道因果説を奉じた竜樹が「客体因果は無い。客観してこれが因であり・これが果である・という固定した法(定体)は無い」と言うのは、この非実体因果を強調している訳でしょう。この事は『涅槃経』で<非因非果中道>を述べている事と完全に合致しております。


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