(3)因果と縁起と空

 世俗では、因果は<何故か>との問いに応じて答えられ、第三の様相の問いに対しては出て来ません。第三の問いに出て来る答は統計的な確率決定論の方です。

 その辺が世法と仏法とで噛合わない所でしょう。それで、因果(ルール)は・自然界にそれ自体として存在する事柄ではありません。その癖自然界に対して人間が適用する事は正当に出来るのです。智法です。

 それは、<経験法則に対する枠組>として人が<設定>出来るからです。こういう意味合いからも因果は空です。空だが自然界へ設定出来る。設定出来れば今度は<因果関係>が自然界の方に<有る>という事になる。この様に非有非無・亦無亦有ですから空です。中です。因果で経験を法則化するのです。ですから「不分別を行ぜず」(『止観』)です。

 人類は初めは因果を<経験法則への枠組>とは考えていませんでした。勿論<もの>とは考えませんでしたが、客観的に実在する・と考えていました。ギリシャ哲学もそうでしたし、ガリレイやデカルトもそうでした。「神様の介入で妨げられる事の無い<自然因果性>」と考えていました。

 これは、実際には可怪しいのでして、イギリス経験論者達が・因果性の客観実在を否定・した所から、因果の研究は本格的進歩を始めました。

 それに較べれば、仏法では釈尊の昔・竜樹の昔・から正確に捉えていたのですから凄い事です。それで仏法では縁起内(一〜十二)の第二番に位置付けている訳です。無分別界(境智法)には因果は在りません。無分別法は非因非果です。但し無分別行為には有ります。それが行道因果です。「体(法・十界)は因果に非ずと雖も因果に頼(よ)って現わる」(『止観』)です。行業因果の方は分別行為――分々の無分別行為――になります。因果は能顕・法(十界)は所顕です。

 それにしても、因果は特に<分別>の舞台での主役なのです。<物事を秩序付けて見る形式>なのです。エントロビーは乱雑さの法則で・これは第六天の魔王の側の役、因果性は秩序の規則法則で・これは菩薩の側の役・という事になります。所顕の法は非因非果です。仏様は非因非果中道の尊極位に居します。

 尚、現象間の規則的な因果関係と・理由と帰結との関係としての因果関係とは・分けて考える方が妥当である・と思います。

 現象間のは<自然因果性>、理由・帰結間のは<論理的関係>という事ですね。

 そうです。縁起法というものは「仏・人天の作に非ず」ですから、縁起法が<どうして>出来たのか・と成立ちの理由・原因を問うても無意味です。無いものねだりです。人間は皆十界互具の当体だ・と教えられて、<どうして>と問い返しても、これは問いにはなりません。

 一般に自然法(じねんぼう)は天然自然に<その様に在る>訳でして、因果で構成されてはおりません。でも、その自然法に貫かれている現象(諸法)間の常無く縁起して行く<推移について>、今度は、人間が<秩序付け>て把握する為に<因果律>というものが・人の側・から設定された訳です。

 ですから空であり中であるのです。仏道は不苦不楽中道行という因果修行で中道を行ずるもの・ですから、因果は<中>である事は容易に判ります。然し<空>である方は案外見落とされ勝ちなのです。

 因果と空との密接な関係・と言いますと……。

 色々な関係が有る・と思いますが、我々に取ってさしづめ大事な点は、因果とか因果関係なども空なるものだ・という事でしよう。言替えてみれば、因果に実体は無い・という事です。因果はこの意味でも空です。

 因果・と言えば、必然的な関係・を指示していますから、この必然性から普通の決定論……因果決定論が出て来る事でも判る様に、どうしても、仮令・体ではない・と判っていても、因果を実体視したくなります。だが、竜樹は・それはいけない・と言うのです。

 三諦論からすると、一切合財皆空ですから、この面からは・因果も空だ・という事が納得出来ますが、これでは余りにも公式的で釈然としません。もう少し突込んでみて下さいませんか。

 空が元々何処から出て来たか・と言うと、<縁起−無自性−空>でしょう。縁起するものは無本質で空である・という事です。因に由って果有り、果に由って因が知られ、因と果とは相待した縁起関係です。普通の事象縁起は空間軸上で横に並んで相待しますが、これは時間軸上に縦に並んで相待しています。「これを累(かさ)ぬれば縦」(『止観』)の方です。

 この様に、因果関係は相待の縁起関係の一部、その特殊部分なのです。因果関係は、縁起一事象の・変って行く経過の中に、又は縁起しつつある二事象の間柄について・認められる<関係>であり、縁起という大枠の中に納まる<縁起因果>です。

 科学には縁起因果という事は在りません。これは仏法に独得な考え方です。因果は縁起の一種だ・としても、両者にはやはり違い目も在る訳でしょう。

 大雑把に、一般の縁起と因果との違い目は何処か・という事になれば、事象縁起は無必然性――これは偶然性ではない――のものであり、因果は関係として必然性を持つ・という点です。

 それでありながら因果も縁起を必要とし、まず縁起しないと……因と果とが縁起し・事象が縁起しないと、因果関係も成立ちようが有りません。それで、縁起するものは全て空なり・ですから、当然・因果関係も空である以外は有得ません。

 縁起は相待関係そのものを示しています。この相待について、それは必然に起こったのか・必然ではなくして起こったのか・を問い糺してみても、確かに答は出せません。つまり質問が無意味です。ですから縁起は非決定論の局面を展開しています。因果関係はその中での特殊局面として、決定論の局面を展開している・という事でしょう。

 縁起の方には必然性は要りません。学問では、因果の方には必然性が付いて回ります。やはり仏法でも、因果と言えば、学問程強くはないが・必然性が付いて回っています。学問程強くない理由は、因だけで果を生ずる事は無いからです。因と縁とが和合しない限り・果を生ずる事が無いからです。

 仏法で単に「因果……」と記述している場合は、必ず・その<因>は<因と縁との合称>という約束になっております。果に望めば因と縁とを合して因とする・という事だそうです。

 ところが縁起という事になると、必然とか偶然とかいう事を超越しております。この二者択一は通用しません。私がここで大いに喋っている。貴方がそれを聞いている。更に偶々(たまたま)部屋へ入って来た人も聞いた・とします。

 見た限りでは縁起で関係している訳ですが、これは果たして必然か・という事を論じてみても、どう仕様も無いでしょう。調べたら・答は悪しき形而上学の方へ行ってしまうかもしれません。縁起は<必然に非ず偶然に非ず>空です。空だから又・必然とも現われ偶然とも現われる事になります。この必然と現われたのが因果です。

 必然でなければ偶然・偶然でなければ必然・という具合に、横に並べて二者択一をする思考態度が狭いのですね。この両方を超越する・という考え方は仲々取り難い・と思います。因果が先入観念として染付いてしまうと、どうしてもそうなります。

 町で友人と出合った・とします。すると、これは相待縁起ですから別に因果に目くじら立てる必要は無い事です。人の行動ですから自由意志が要素の中へ入っていて、客観上の因果だけで煮詰める事は出来ません。互いに原因の先に又原因が有って、結局・因と果との間の思考的な”距離”は遠退(の)くばかりです。そうしたらもう因果ではないでしょう。

 縁起関係は必然でも偶然でもない・と言っても、この関係が一つの局面を決定してしまう事も事実です。この意味では<縁起決定論>という事も成立する・と言えそうです。確率による法則決定論と同じ様な状況になります。

 そこが「仏天の計らい」と言われる所です。諸天の加護もその様にして起こります。これと同じ様な筋道は、普通の因果が通用しないミクロの物理学での確率論的認識にも妥当する事です。マックス・プランクが「決定論と非決定論とは両立する」と言ったのはこの意味です。

 そこでは論理の様相結合子である・必然・蓋然・偶然・という概念も正当に働きが与えられるでしょう。様相論理の必然性と因果・蓋然性と確度――偶然は確度数値ゼロ――という様に結付いて来ます。仲々一筋縄では行かないものです。

 この問題としては、大事な所がまだまだ相当有りそうですが、話を因果の方へ絞って行きたい・と思います。

 様相については・仏法の奥の所と科学の学問理論の先端の所との絡み合いが非常に複雑です。 只ここで指摘して置きたい事は、様相論理は真偽二値を一概に極め付けずに、態度を保留して反省的態度を保つ・という点で、空仮中三諦の考えと何処か通じた所を持っている・という事です。


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