(2)何か(状況)・何故か(因果)・如何にあるか(様相)

 今の話は自明の様であって案外に見過ごされております。ここから見れば、<因果>という事も、観察と推理との為の<形式オルガノン>だ・という事がはっきりします。少し解説してみて下さい。

 <何か>という事を問うてみると、一般にきりが有りません。問う、これは何か。答う、本デアル。値が高いものデアル。難かしいものデアル。厚いものデアル。紙をいっぱい重ねたものデアル。四角なものデアル。私の所有物デアル。……デアル。仕舞いには、何だか判らないものデアル。……という具合で、あらゆる答え方が出来る訳です。

 だから、答は、その問い方の<要求>に応じて、無数の中から選んで、初めて一意に決まった答が出せる訳です。化学的に言えばこれは紙デアル。紙とは何ぞや。それは有機質の材木を加工して作ったものデアッテ、白いものデアッテ、……。

 こうして<何か>という問いへの答は無限に出せる訳です。無限に出るのだから、これは何所か必要な所迄で止めて、後は切捨てるしか無いでしょう。すると、問いは必然的に<何故か>の方に移らざるを得ません。何かを問うて、出た答に従って、ではそれは<何故>そうなっているのだろうか……こういう問い方です。

 その問い方の違いに連れて、これ又答えの出し方がいっぱい有る訳ですね。

 そこに木が生えているのは何故か。うちの祖父さんが植えたからだ(縁起因・機会因)と答える事も出来ます。これは温帯植物で、ここは温帯だから生えているのだと、こうも答えられます。

 土質が適(あ)っているから、日当たりが良いから、肥やしが効いているから、手入れが良いから、工場や自動車の排気の公害に遭っていない。煙や一酸化炭素のガスを浴びていないから、所有者の私が切らないから、……から。答は無限に出せる事になります。

 そうなると、<何故か>の問いへの答も、必要最少限度の所で止めて、後は切捨てるしか有りませんね。そして次の問い方<それは如何にあるか>という局面へ移らざるを得なくなります。

 そこで、一体その真相はどうなのか・諸法実相如何・と反省的に問うて、必然的に様相の問いへ移って参ります。これへの答も必ずしも一通りには出て来ません。この答も沢山出せます。それで・人間は・さしづめ必要な答・しか求めません。

 必要な問いと必要な答こそ大切なのです。ですから仏法でも「仏は四衆に囲繞せられ」ていて、発起・影響(ようごう)・当機・結縁・の四衆の内でも、発起衆という質問者が非常に高い待遇を受けているのです。

 これら三種の問いの段階を追って、その一つ一つについて、答の肯定・否定が言われ、然もそれが無限に在る。問いも無限・答も無限・という事になりますね。

 問答が無限に続いている間は迷っている訳です。そこで天台は『玄義』で、「無窮の問いに堕するのはいけない」と針を刺しています。分別の世界は迷いである・という事がこれでも判るでしょう。

 とにかく肯定とか否定という事も、問いに従って色々ニュアンスが違って来て、一筋縄のものではありません。様々な様相を持っている訳です。この辺は論理基礎論でもっと明快にされて好い所ではないか・と思います。

 問答も客観の学問では肯定と否定との二つの操作だけで終わってしまいます。ところが仏法へ来ると今度は、四句分別の<否定・肯定・二重否定・二重肯定>という反省操作が在って、二重否定と二重肯定とによって<元の肯定には戻らない肯定>を立てる・という工夫が出て来ます。これが難解なのです。

 一般の学問では、肯定と否定との択一関係だけで処理されています。様相論理でも、肯否の二者択一を保留して置く・というだけです。

 それが世俗の限界です。世俗には・後は・弁証法による自我の自覚・が有るだけです。

 仏法で何故二重否定にならなければいけないか・と言うと、結局、叙述の肯定と否定とだけでは<空>という事が捉えられないからでしょう。真如は明らかにならない……。

 ええ。対象の世間自体・自分自体・が無常の連続だからです。自分も含めた全存在にまつわっている・変って行く所から来る空の一面が捉えられない。

 <何か・何故か・どうなのか>という三種の問いからすると、空はどんな風に問題になって来ますか。

 仏法から行きますと、<何か>という事は、まだ・感覚された存在の有か無かを言っているだけでしょう。その上で存在の状況を指定している。これは本当は存在ではなく、仮り(一時的)の佇まい・という在り方で仮です。仮有仮在です。仮存です。

 <何故か>になって来ると、有か無か・だけではなくて、<理由付け>という無形の要素が入って来ます。万事・因果というのは無尽連鎖であって、<もの>ではなくて<関係>ですから目には見えません。だがそこに<因から果への必然性>という一つの移行的な”エネルギー”を孕んでいます。

 因果……これは勿論・事物ではありませんが、出来事そのもの・事件そのもの・存立そのもの・でもありません。出来事・事件・存立・の流れの前後を繋いでいる<規則的な関係>です。アリストテレスの論理学では取扱う事が出来なかったものです。

 事件間に、目に見えない・関係的な・流動する……一方だけには帰属しない性分が入り込む。ここの所へ・空なる因果・というものが出て来た・と言わざるを得ません。<何か>という第一の段階では空なる因果は出て来ません。第二の段階から因果が出て参ります。だから仏法は業因果説である・と言う。業(カルマ)の遷移に就いての因果説です。

 因果説と空とは密接な関係になっているのです。更に第三の<如何にあるか>という様相の問いには、ずばり・空だ・と答える事になります。これは究極の答え方、諸法実相による答です。

 その「空だ」と言う仏法での答は、反省の立場からの答です。一人称世界としての答でもあります。この立場からすると又「中だ」という答も出て来る事になります。「万物は如何に在るか」「一色一香無非中道として在る」……これも立派な答です。

 客観的立場で境法を問えば、一人称の立場から・客観性を加味して答えたらそう言えるでしょう。この答は単に問いへ答えているだけではありません。逆に間者に対して、一人称世界への深い理解を求めている<勧め>でもあるのです。暗に・言外に「一人称世界を理解しなさい・貴方も自分の判断を反省判断してみなさい」と勧めている訳です。

 一人称世界というものが理解出来ないと、この答は解らない訳です。

 そういう事です。社会関係ともなれば、答は……答の中味は、只答だけ・という事は無くなります。<言外の含み……逆要求>が答の中に沢山入って参ります。ここが学問と実際生活との違い・というもので、これに鈍感だと「あいつは馬鹿だ」という事になります。問う方としても、答者がハイハイと答えているだけで、答の中に<押返し>が含まれていないと、やはり「あいつはお人好しだ」と軽蔑してしまいます。

 ですから、ここが学問と実際生活との違いであって、大人になればなる程・この点が重視されるでしょう。問う方も答える側もそうなります。この<含み>は悉く<様相>という事になります。<肚芸>もここから起こる訳です。謎掛けでもあります。

 そうすると、問いの三種は<如何にあるか>で終りですが、実際にはそれだけでは終らない・とも考えられます。

 三種の問いは客観上の・三人称・二人称・世界での事です。更にその上に、客観ではない・二人称・一人称・世界の問題として、<如何にあるべきか>という問い・が加わる訳です。どうあるべきか・こうあるべきだ・という事です。

 客観して、問う・貴方は今如何に在るか。答う、只今六道に在る。……では仕様が無いのです。菩薩界・仏界に在るべきではないか。そうでありたい・その方法を教示願いたい……でないといけない訳です。

 ここから再び<何故か>の因果の問い・へ戻って来ます。仏界を得られるのは<何故か><何の因果によってか>へ戻るのです。そして因位の衆生はここから人生構築の再出発をする訳です。これが仏道修行です。


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