5 様相論理および因果説

(1)有無の確立論的操作等としての多値へ

 様相論理学と言うと、普通の真偽二値論理に対して<真偽不定>という要素が加わる訳です。この真偽不定の状況を表現する名辞が<様相結合子>で、沢山在るのですが、代表的且つ一般的なのが<疑惑性・不確定性・可能性・必然性・蓋然性・偶然性>といった所です。いづれも境法ではなく智法です。

 様相論理はその系が認める真理値の個数に従って<三値・四値・……・多値>となります。論理学として形式化出来るのは主に三値の範囲で、四値は特殊となり、それ以上は形式化が無意味になって参ります。

 学問の世界とは違って、日常生活で使われるのは寧ろこの様相論理の方です。

 仏法は人間の日常生活を取扱いますから、二値論理よりも様相論理の方が仏法に馴染むのではないでしょうか。

 そういう面が有ります。要するにこれこそ「有無の二道は本覚の真徳」という<有無二道>――この場合は横型――の操作の問題でしょう。厳密な演繹論理で言うと、否定は否定・肯定は肯定・という風に<一意>に決まっていますが、日常の判断は必ずしもそういうものではありません。

 現代科学での<可能性>の扱いはどうなっておりますか。

 「デキルかデキナイか」「ナルかナラナイか」という点についての、確立論上の度合を求める事、つまり、出来事の未来についての予測・見通し・という事の確率論上での推理・ではないでしょうか。

 素粒子などの世界は、因果決定が近似的にさえ成立しない世界で、確率の領域です。現代の素粒子科学はドイツの物理学者マックス・プランクから始まった訳です。

 <プランク常数>というのは、エネルギーの不連続性を言立てた訳でしょう。そこから始まって、現代の素粒子論の中では「一意的な因果の必然関係は認められない」という事になっています。然しこの事は「法則性が無い」と言うのではなく、確率論上の法則性が支配している・と示されています。

 素粒子は、運動量を正確に掴むと居る位置が判らなくなり、居る位置を正確に掴むと運動量が判らなくなります。これは測定手段が未発達な為ではなくて、原理的にそうなってしまうのです。そこで、今の所では<不確定性原理>迄来ていて、これは<運動量の不確定度×位置の不確定度=プランク常数>という式で表わされています。

 因果法則は通用しませんが、替りに確率上の法則が支配し、因果決定論ではない統計的な法則決定論が成立っている・と言う。集合論的な論理の領域・と言えるでしょう。これは、論理学側から見れば・様相論理の世界である・と思います。

 現在の物理学は様相の領域迄足を踏み入れて来た訳ですね。

 「何か・何故か」を通り越して「どうなのか」(如何にあるか)となると、これは究極の所・様相論理です。学問の上で言えば、物理学はここ迄来ております。相対論と共に今世紀前半に開拓された新分野です。

 極微(ミクロ)世界と巨大(マクロ)世界とを取扱っている内に、マトリックス(行列式)や、もっと難しい・訳の判らぬ式を使って、世界の様相へ迫ろう・という所迄来ている・という事です。様相は「世界は如何にあるか」という問いへの答です。問いと答との様相も決して単純簡単ではありません。

 <問い・答>の様相と言うと、例の<問いの三形式>――<何か・何故か・如何にあるか>の三つの事ですね。智法ですね。

 そうです。人間の頭脳は自由ではありますが、先天的に限界が在って制限されています。子供から大人迄、問いの形は三つしか持っていません。だから答も三通りです。幼児は初め「これなぁに」と聞くでしょう。少し進むと「なぜ・なぜ」と聞きます。「どうなんだ・如何にあるか」は大人の問いです。

 因果というのは第二の問いで、その中には<理由条件を尋ねる>意味合いも含まれます。そして第三番目へ関わって来ます。ですから仏典でも・論理関係の縁起は<由る>と書き事象の縁起は<依る>と書き分けています。

 この三つの問いに対して、答は原理上無数に有得るから、問答の様相は決して簡単なものではありません。現代の自然科学の確率論は、第三番目の問答の答として出来ているのです。

 第三番目の<如何にあるか>という状況把握への要求は、自然科学でも必要になって来ている・という事ですが、社学科学ではもっと必要性が高まります。要するに・人間臭い分野になればなる程・様相論理の世界になって来ています。

 例えば経済学などは特にそうでしょう。社会での経済状態が如何にあるか・国民の総需要が如何にあるか・といった無形の要素をベストに把握しようとしても、これは原理上不可能であり、常にベターに把握する事しか出来ません。

 そのベターな把握の上に立って、経済学が得ている既成の法則を当嵌めて行く事しか出来ません。その法則が又極めて蓋然性に富む・制約されたもの・ですから、経済は様相論理の世界にならざるを得ません。

 経済や政治の分野になると<如何にあるか>を把捉する事が、欠くべからざる出発点になりますが、そこでは第二の<何故か>という因果の問いは余り威力を発揮しませんね。この分野の出来事には、必然性・が欠けているからでしょう。

 社会は多数者の生存欲で動いて行きますから、一定の社会状況が出来たとしても、その時には又新しいニーズ(要求)が発生して来ます。仮令それに応えたとしても事情は同じで、繰返しになるだけです。

 こういう状況の中では、因果の問い<何故か>は無力になってしまい、高々集合論的な法則決定論で立向かう以外には無いでしょう。統計が重要視され・盛んに数字が挙げられるのはこの為です。情報操作が横行するのも同じ事情によります。テレビなどを使ったマスプロの商品宣伝などが好い例です。

 経済や政治の分野では世界の様相さえも操作され、そこでの様相論理は後からの言訳にすぎないし……。

 そういう事です。特に政治では一寸先は闇です。外交は<武器無き戦い>と言われ、<可能性>がしきりに追及されます。人物評価や歴史批判になりますと、人により時代によって、同じ材料から正反対の評価を引出す事が珍しくありません。

 マルクスは東側の国の人に取っては偉大な哲学者社会学者であり、西側の国では愚劣扱いをされています。様相を論ずると、人物や歴史に関してはこんなものです。明らかに・特定の基準に基づいた操作・が入込んでいる訳です。

 文明や文化については<様相>を考える事が特に大切になって来る・と思います。どこでも個人や国民の活動が世界化して参りましたから、他国・他民族に対する・文明・文化の押付けが危険である事が盛んに指摘されています。

 寒帯の文化を熱帯へ押付けても仕様が有りません。何でも都市化を計れば好いものでもありません。技術文明の押売りも考えものでしょう。飢餓の救済に乗出すと、人口が増えて又元の木阿弥になってしまう・という事実も指摘されています。要するに、深く<様相>を考えて対処する事が大切になります。


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