(4)事と理と百非洞かに遣る中道

  では最後に締括りとして、<虚妄仮>と<建立仮>との違い目の別の面はどうでしょうか。どうして<有(非無)>を仮諦・と言うのでしょうか。

 <有>に就いては「衆生は虚妄に分別して実有の想いを生ず」と在りますが、この虚妄から<虚妄仮>と言うのでしょう。諦の仮有は、虚妄仮を反省して・仏様が実相観を建立して、反省量・詰り思量仮を得た上で、諸行諸法の有は皆・因縁和合なり・と宣言したから、有を事・理・共に仮有・<建立仮>と言うのでしょう。有の内容が明らかです。

 ですから諦としての仮有とは、実相を得た悟りの上に立った如有を指します。この如有から円融の仮諦が出て参ります。ですからこの如有は・双遮双照を経た上での事で<即中の仮>……中諦の上での仮有の諦・という事です。如有は、限りは有るが得道には礙(さわ)り果てないのです。

 分別上、決定して実でもなければ決定して虚でもない<非実非虚>なる三界仮有ながら、離虚妄の点で真実なる仮有……これが如有です。仮諦です。

 空に就いては<非有非無>と定義されていますが、これは双遮の上での表現でしょう。すると双照の表現も在る筈ですね。

 普通使われてはいませんが、道理の上からは在る筈ですし、寧ろ無ければ可怪しい事に成ります。仮の有の場合は双遮双照を経た建立の場合でも<有>(非無)これ一つしか在り得ませんが、又強いて言うなら非中非空・亦中亦空でしょうが、空諦の空は双照表現も道理上在り得る筈です。

 元来、仮(有・非無)は事相上の問題で、有(仮)は差別で差別事相。空は事相差別の上での・その内奥(脈絡感覚体系上)の・理無差別平等・理無差別法・という事でもありますから、外部感覚知(事相)したの上にはい法でして、差別のを強調すれば・有上の無・で、空の双照レンマは

亦有亦無(そして亦仮亦中)

 と成るべきです。これは整理以前の古式第三句その儘です。詰り・基本原型の新第四レンマの上下を逆転した形が空の双照レンマになる道理です。これは<即中の空>……中諦の上での空諦・という事です。ですから第四レンマ<中>から見れば

  亦無……実 有                      としては・無い――

  亦有……仮 有                      としては・有る――即中の仮

  亦無……実体空                     としては・無い

  亦有……空亦復空(無自性・無本質)の仮名立名の空としては・有る――即中の空

という事に成ります。この点からしても第四レンマは、無が前・有が後・という<亦無亦有>の順でないといけない訳です。

 してみると<中>にも双遮表現が在り得る道理で、無かったら可怪しい事に成ります。それは<非無非有>という訳で、非空非仮と同じ事ですね。但中・不但中は双遮されるべきです。この双遮の非無非有は第三レンマの上下を逆転させた形・という事に成ります。これで宜しいのですね。

 宜しいです。

 非有非無(双遮)・亦有亦無(双照)――空

 非無非有(双遮)・亦無亦有(双照)――中

この様に成ります。これで判る様に古式四句では空の双遮双照しか出来ていなかったのです。空のレンマ止りだったのです。

 縦の反省は・有から無へ・無から有へ・と段々深く堀下げ反省を重ねて行く訳です。従って<中>の<亦無>の<無>は単無ではなくて、空の句の後半の<非無>を受けた<非無亦無>という重層無なのです。こういう有無は横に並べて二者択一をするのではありませんから、非有非無と非無非有とは・即一ながらも・事態が全く違っております。事態は事・四句は理です。

 仮と空とに就いて、今<事と理>という事が出て参りましたが、<事>は主語法の事法・理法に亘る事相の上のことですから<差別>で、この差別は確かに誰にでも直接に見えています。仮諦はこの差別観の上の諦(真理・悟り)ですね。

 次に、空は、差別事相の個々の・その全てに通じている所の、肉眼では見えない、法眼でないと見えない<事相の内奥の理平等>で理無差別法です。そこの悟りが、無差別観の上の諦としての空諦です。これは外部感覚知には無いけれども、人の心識活動の<脈絡感覚知>の上に有ります。そこが空に就いての心行所です。ですから・空は理ではないが・理を<空理>と言う訳です。理は全て空なる<こと>です。ですから空理は世俗で言う……スラング(俗語)の「空理空論」の意ではありません。あらゆる理・理性・性理・は反省してみると空だ・という事です。

 こうして考え・反省してみると、我々人間の実際生活には、事と理とが在ってこれ以外は在りません。それで、事は仮・理は空ですと、中諦の<中>はどんな風に在ることに成りますか。

 空理は<空観の上に建立された理>という事ですから、形而上学的な理――これは仮理――とか・世俗の比量で得た理――これも仮有理――などとは違う訳です。この二つの理は、それに対して空観を施さない限り空理の資格は生じません。でないと只の分別虚妄です。

 これが理で、もう一つは先程貴方が述べた、事・で、「事は仮、理は空、後は無い」というのが普通・凡人が考える思い・です。ですが、仏様の頭脳は凡人のそれとは違うのです。事理を横とし・縦に迷悟が在ります。縦横に事理迷悟が交錯しています。これに就いても中道が在ります。

 頭脳が違う・という事は、これは余りにも当然な話ですが……。

 中道に就いては<空でありながら仮和合を具えている所>を中と言い、有を具えていない中は無い訳ですが、現量仮有を四句分別で再々反省した思量仮有を具えていて、これを表に押出しているのが中です。これは何度も触れて来た通りです。然も押出された思量有に眩惑されたらもう<中>とは言えなくなるのです。そこで天台は

 「三諦を円(まどか)に修して無辺(空の辺・否定の辺)のために寂せられず有辺(仮の辺・肯定の辺)に動ぜられず、不動不寂にして中道に入る。これを円の行と名づく」(『止観』)

と、変って紛動したがる性質の仮有に対する不動・からっぼのなかへ吸引して無化させ様とする空に対する不寂・を強調して、正しく中道へ入るべき事を教えています。これは仏様の代弁です。この様に仏様の頭脳は凡人のそれとは違うのです。それで仏様では、非事→非理→亦理→亦事・と反省の順序を踏んで

 非事非理(双遮)――

 亦理亦事(双照)――中

と成ります。事理の中道は<非事非理・亦理亦事>という型で立派に在る訳です。事理の言語道を超えている<中>ですが、四句分別の因縁有るが故にこの様に表現出来る・という事です。非事非理中道観は『文句』や『止観』や『次第禅門』に在ります。

 反省操作としての四句分別の検討も愈々(いよいよ)煮詰って来た感じですが、反省した思量仮有を具えて表に押出しているのが中であり、然もその思量仮有に眩惑されたら中ではない・という話でした。この事は、結局は建立仮に還った所が中諦だ・とも思えるし、そうでない・とも思えます。仮諦と中諦との関係は結局どうなのでしょうか。

 建立仮に還った所が中諦だ・と言うのは誤りではありません。その上で尚且つ仮諦と中諦とは違った一面を各々持合っているのです。そこの所は不一不異です。亦一亦異でもあります。

 両者は離れても居らず全的に合致もしていません。そして合致もしているし離れてもいます。離れていなければ名目に仮諦中諦の区別を言立てる必要が無く成ります。合致していなければ円融でも一法でもありません。ですから両者は<不合不離・亦離亦合>の緊張関係を保って相依存立している事に成ります。

 三諦と四句分別との関連に就いての詰もあらまし尽きて来た・様に思います。四句は言説の仮名であり、三諦は本来そういう分別領域で得たものではありません。してみると、当然の事ですが、まだ余韻は在りそうだ・と思いますが……。

 そういう事です。円融の三諦は、妙仮・妙空・妙中、又は正仮・正空・正中、円仮・円空・円中、このどれでも宜しいとして、妙は不可思議に名づく・と言う通り、起計不可得・不可思議・絶言なのですから、因縁有るを以って説き得た所の・空=非有非無・中=亦無亦有・で全てが尽きた・と思ったら大変だ・と思います。<分別化すれば・分別領域としては・仮名の表現としては・理としては>という条件を附けて置かなければ成りません。

 体得無分別の所は、仮も空も中も、如来秘密・神通之力と同様に、用の神通之力を以ってしても尚・秘密として残る部分が必ず在る・と思わなければ成りません。寧ろその”余韻”こそ円融三諦の極意・と言うべきでしょう。「三諦は玄微にして唯・智のみ照らす所なり、示すべからず思うべからず……視聴を絶し……百非洞(ほがら)かに遣(や)り四句みな亡ず」(『止観』)です。

 実際自分で手掛けてみると、四句分別というものは大変な大課題を内蔵しております。現代論理に馴れてしまった頭では操作が非常に困難です。論理の虜(とりこ)に成っている事も法愛法執で、無明の爾(しか)らしめる所なのでしょうね。

 そうだ・と思います。「法は知るべく学ぶべく著すべからず」(『止観』)です。四句分別は私等二人も思索し研究する事が必要ですが、若い優秀な頭脳を持った人達に、これから大いに研究して貰いたい分野です。『止観』に第三レンマの四句百非を用いて

「仏、徳女に告げ給わく、無明は内にありや否や、徳女答えて云わく、否なり。仏のたまわく、外にありや否や、徳女、否なり。仏、内外(亦内亦外)にありや否や、徳女、否なり。仏、非内非外にありや否や、徳女、否なり。仏、(無明は)かくの如くしてあるなり」(註この場合の非内非外は、理で言えば、己心の中の・一人称世界としての・物理学等で言うモデル世界の事。事で言えば・自分が働きつつある己心の宇宙の事・実世界の事。要するに無分別――行為は無分別である――な全法界の事。無分別の故に内も外も無い)

と在りますが、要は、無明は縁起して成立ち出現しているだけで<実体無明>は全く無い。仮和合の仮有存立だから恐れるな・という事です。この心意気で無明を恐れずに四句分別と取組む人が欲しい・と思います。その遣方は「香を聞いて根を討つ(たづ)ぬ」(『止観』)という根元的な手法を取ったら宜しいでしょう。


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