(5)止観明静前代未聞――聞香討根

 愈々(いよいよ)最後ですが、四句分別に就いて「この章で述べる所は私(石田)個人の研究であり試論であるから<敲き台>として公表する」との事でした。その結果、@四句を組替える事・詰り・次の組成が述べられました。

  1、無     (世俗無分別の反省否定)

  2、有     (分別の定立・感覚知肯定)

  3、非有非無 (両否定双遮・破迷・自行)

  4、亦無亦有 (両肯定双照・建立・化他)

次に、天台迄に・そしてその後にも述べられていなかった点が二つ述べられました。それは、A空の双照表現として<亦有亦無>が成立する・という事と、B中は<亦無亦有>と表現出来る事・及び・この双遮表現として<非無非有>が成立する・という事でした。以上三点が新説・という事に成ります。

 以上は理論内容上・竜樹や天台等と食違った所は無い事が今迄説明されて、私としては納得致します。でも世間は広いし学者は多いし、世に広く承認される事は難しいのではないか・とも思います。

 現状ではそれで良いのではないでしょうか。この新説が刺激に成り発火点に成って、四句の研究がうんと盛んに成る事を望みます。末木先生と面談の折、先生は「四句分別には歴史上三つの流れが在った」と言って居られましたし、その具体的内容を私は全く知りませんが、この様に、史実としても研究に値いするテーマが現に在る訳です。

 又、或る教授(某大学)からは「これでは元から離れてしまう」との御意見が有りましたし、新説への異論や批判は当然在って好い・と思います。四句は釈尊以前から用いられていた<論の一形式>で、仏教発生後に仏教内部から出現した<因明>よりも古く且つ根強いインド流の思考形式でしたので、内容としても、今後の研究に大いに値いする・のではないでしょうか。

 それには「聞香討根」という事でしたが……。

 理的な面からの研究に就いては『止観』に言う「流れを〇(く)んで源を尋ね・香を聞きて根を討(たづ)ぬ」という方法をお奨めしたい・と思って居ります。要するに、最も本源な観点から見直して出発すれば宜しいので、そうしたら必ずや何等かめぼしい成果が得られるものと存じます。

 この章全体を通じて述べられた所は、仏法での法理は<反省法>であって、この反省内容は四句の手続で行われて来た・という事でした。この反省法は常に修行という行(ぎょう)と一体で分離しては成らない・という事でした。事理不離が強調されました。

 発表された文章は・何時でも執筆者から離れて一人歩きを仕勝ですから、この章を読んで、文の抽象から理上の会得だけをされると、この章全体が死法門に成ってしまう危険性を感じます。論理学詰り形式科学の一分野の様に扱われそう・にも思います。

 天台は正観章で「亦破亦立・非破非立」という事を述べています。文義に亘って亦破亦立・非破非立でないと「文に封ぜられて意を局(かぎ)り」、断惑という目標を見失ってしまい、「蚕(かいこ)の自ら縛するが如し」で、文章(仮名)に縛られて見惑を増長してしまいます。「見の網は蒙密にして出づることを得べきこと難し」で、解脱という目標へ向って出発した筈なのに、逆に見思の惑を増して逆効果に成るのです。分別理を知る事は悟りではなく・悟りへの一条件でしか無いのです。

 そこが<分別虚妄>に堕ち入る所なのですね。あれこれ引用して仏法を現代化して述べる素人向けの講演・対談などにはこれが多い……。

 そういう事です。「如来の教門は人に無諍の法を示す、消(化)すれば甘露となり・消せざれば毒薬となる、実語もこれ虚語たり・語見を生ずるが故なり」(正観章・破法遍)と示しています。如来の教門でさえもこうなのですから、私達のこの章も、読者に取って、願わくばそうは成らない様に祈るしか有りません。本章は新説を三つ含むだけに尚更その様に祈ります。

 要するに、四句分別を用いる・という事は止観行への<方法>なのですね。手段であって目的ではないから、<絶言>と言って、絶言の四句から立行を促進する、三諦への三観を促進する……。

 そうです。破法立法・と言って、智法の低段階を破り開いて・次々と限り無く・遍(あまね)く法を破り開いて行きます。すると、名字妙法の一法が出現します。出現した所が立法(建立法)です。これへ<止>と言って<自分の一念を集中する>のです。この事を・念を法界に繋ける・とも・(智)縁を法界に繋ける(結ぶ)・とも申します。待境へ反省精神を集中するのが「止」です。集中(し反省)合一(観)すれば不動不寂という理想境智に成ります。大止観禅定行成就です。

 「有に動ぜられず、無に寂せられず」と言うその不動不寂ですね。精神集中が止観の止……。我々も勤行の時には妙縁へ信心・反省精神を集中しています。観は信心……。

 台家では、現前刹那の因位の我が陰妄の一念(直前の作用念)を取って返(飜)して対境に据えて<止>という集中をしますが、我々は御本尊を対境として一念を集中する訳です。原理には何等変りは有りません。台家では陰妄一念の相性体を<観>(反省)じますが、我々は<勤行>をして・御本尊に待し――仏界(縁・境)待九界(因・智)――て自動的に<観>――法界と冥合する――に成っています。

 すると、<御本尊及び自分の心>の相性体・果ては、力作因縁果報本末究竟等・この全てを観じ行じた事に成って参ります。意識するしないに関わり無く、自動的にそう成ってしまうのです。色法成仏の法・と言うのがこれです。四句はこういう行への手段として用いられ語られたものなのです。

 四句分別を用いなければ実存法界の相・性・体への仮・空・中が辿れないのですね。四句に拠らないと相・性・体に就いては推理の比量しか得る事が出来ない。反省判断(思量)である空仮中を得る事が出来ない。認識には成っても決して反省得悟には成り得ない……。

 仏法は、己れの一切法界の一切法に就いて・この全法を反省(因行)するものです。他人の法界や他心の法などは・推理は出来ても・反省の仕様が無いのです。反省とは常に自己にのみ適用出来て・他心の法には適用出来ない方法なのですから……。従って二人称・三人称の世界には適用出来ないし、これらは自分の実存法界ではないのです。哲学が言う様に、成程・実存は二人称世界から生れますが、生れた実存は一人称の己心にしか無いのです。

 これで事態は明らかに成りました。仏法とは・実に・仏様から我々一切衆生の端々に到る迄・その個人個人の自身の己心の法界を相手取って施設すべき法な訳ですね。「己心の外(ほか)に法無し」とはこの事ですね。

 「心外無別法」の「」とは・横に・社会的に・多人数に亘った普遍心ではありません。縦に・個人の乳児時代から老年に迄亘って続いた作用連続心(縦の普遍心)の事でもありません。常に、この自己の・現在そのものの現在心を指すのです。ですからこの「心」は非縦非横の仮名心(作動心・ノエシス)なのです。認識された客観心ではないのです。只今働きつつある現在作用心なのです。

 ですから仏法は科学ではないし、哲学としての存在論や形而上学(無形存在の学)ではないし、認識論でもない。又、仏法法理そのものは科学化も哲学化も形而上学化も出来ない……。「日蓮大聖哲」などという表現はとんでもない邪智の表現でしかない……。

 こういうのを「妄見網中」の妄見と言うのです。これで判るでしょう。存在論化した仏法用語の解説は一切邪道だ・という事が……。比量(推理)化した解説も一切邪道だ・という事が……。我々の内外の多くに於いてこの存在論化・形而上学化・比量化が実に沢山行われて、今の所それが正しいものの様に通用していますが、その実・これらは悉く非法・邪法・謗法なのです。仏法は境法・在る法・ではないのです。何時でも常に仏様の・そして自分の・智法・知る法・なのです。

 総じて、推理推論の法ならば全て六師外道の法です。現代哲学としての推理推論の法と雖も内容上六師の法にすぎません。況や仏法を説明する為の実体論・本質論・客観因果論・科学論等々は仏 法に取って論外の邪法です。幾ら妙法に名を借り・妙法を説くと雖も六師の邪法にすぎません。説く者は六師外道の邪人です。六師外道そのものです。佐渡御書の通りです。

 この事が確固として判るには、只・四句分別の反省判断を会得する以外には無い・のですね。竜樹の『中論』が四句分別の塊みたいだったのは・実にこの点に有ったのですね。内外・大小の勝劣を明らかにした……。

 そうです。そして天台も又然りです。我々が拝読する御書には・権実・本迹・種脱・の三相対しか出て来ないのです。内外と大小とは遥か昔に論じ尽くされ・決着が付いて、最早時代相応の論題ではなく成っていたからです。今頃<内外一致>では困ります。

 それが明治期以来の成行で、西洋からギリシャ哲学乃至現代哲学として、六師の法と全く同じ内容を持って日本へ入って来た……。結局、六師の法が仏法理解の学理として現代に復活してしまった・という事ですね。若しもこれがインドから入って来たのなら少しは用心もしたでしょうが、西洋崇拝の日本ヘヨーロッパから移入して来たから、不用心の儘受容れられてしまった……。

 ですから再び竜樹・天台の様に・四句分別を手に取って立向わなくては成らなく成ったのです。『止観』破法遍に次の様に在ります。能く能く心を澄まして御吟味願いたいものです。

 「一往の四句とは、凡聖通途にみな四句を論ず、この意知んぬべし。……。結位の四句とは……単・複・具足等のごときは住著亡ぜず、すなわち凡夫の四句なり。もし句義なきを句義となさばこれ聖人の四句なり。攝牒の四句とは、凡夫の四句を結して牒して有の句となし、二乗を牒して無の句となし、菩薩を牒して亦有亦無の句となし、を牒して非有非無の句となす」

「句義なきを句義となす」ですから、句義は凡夫・外道の句義からは自由な筈です。仏の法に従って自然に相応しい句義が生れるのならばこれも自由な筈です。私の新説もこの視点からして許されて良いもの・と存じます。

 全四句は、凡夫に取っては何処迄も<有の句>です。有(四句)を以って有(諸法)を横型に論じ、虚妄仮有へ住し著して住著迷心は頑として亡じません。これは判りますが、「仏は句義無きを句義とし、四句中・非有非無を中心句として四句を用いるのが仏である」という所が難解です。

 人の発音・言葉・文字・文章・句・等は皆・仮名立名の仮施設なのて本来は無義・無意・空・です。義とは、世間の諸法分々の理を見て・これを表現すべく自由に人が作ったものです。ですから本来は無記無句義で、仏様はここから仏としての句義を作り立てます。

 本来無句義の儘に・然も凡夫等の一切句義を削捨て・無くして・立てる所を・仏は句義とするのです。非有非無(自行化他実相般若空)を<中心句とし(これが仏の句義)>て四句を<縦(これも仏の句義)横>に用いるのが仏です。亦有亦無(化他双照方便般若空)の立場で四句を運用するのは菩薩です。

 ここでは各々の立場を示して

  凡夫の四句      有    の句

  二乗の四句      無    の句

  菩薩の四句      亦有亦無の句

   仏 の四句      非有非無の句

と配当され、凡夫は虚仮迷妄有系列・虚妄法の魂の<有の世界>に・二乗は還滅の<無の世界>に生きている事を示している・と思います。二乗の<無の世界>は沈空尽滅の世界(智法としての境涯)を指している様です。化他には出る事の無い心理的独悟独居の在りようです。

 菩薩は化他の為に空に心を立地して働きます。化他の為には空から再び衆生の<有>の世界(迷妄・虚仮の世界)へ踏込みますから<亦有>で、自行の時には、又、その有から空悟へ入りますから<亦無>です。それで又<亦有亦無>は化他双照の在りようを示しています。亦有亦無が空の双照表現と成る・と言うのはこの点にも拠ります。双照は何時でも化他建立の行(安立行)です。

 仏界は、ここでは「非有非無の句」と示され、竜樹の八不中道と同意・と成っており、中の表現としては間接的だ・と思います。私の新説では・中の直接表現として<亦無亦有・非無非有>の立義を述べました。その論法根拠も開陳しました。改めて大方の御批判を乞いたい・と思う次第です。

 「執を破し迷を遣るときはすなわち得意の四句あり」とも述べられています。

 願わくはこの新説も又<得意>に叶いたいものと存じます。最後に次の文を挙げてこの章を閉じたい・と思います。

 「諸法の四句の門は三(三乗)の四(四句)を権となし、一(一乗)の四(四句)を実となす。開顕の四句とは、一切の四句を関してみな一実(一実乗)の四句に入る。もし一実の四句に入ればみな不可説なり、仏教の四句はここに斉(かぎ)る」

 この様に教えられているのですから、四句分別に就いては、不可説不思議の妙法立行の為の四句として、語用を正して分別し反省し絶言し、以って立行精進すべき事を旨として、この四句分別の研究を締括ります。


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