(3)存在判断から反省判断へ――虚妄と建立・その異同

 次に振返ってみたい点は、原型四句分別は<一人称非合理領域>で使用する反省論法だ・という点です。一人称非合理領域の論法・と言っても、顛倒虚妄六道の人間生活は決して反省上のそこか らは始りません。文字通り<諸行>から始ります。

 その諸行を・無常なり・と言うのはまだ一人称世界ではありません。「無常なり」と言う局面はまだ三人称世界です。そこで、この三人称である虚妄と一人称である建立との関係を明らかにすべきだ・と思います。

 人間生活の事法は、常にカオスの無分別のなかで行われていて、自分の事は判らないのはこの為です。或る生活事法を・そういう事法だ・と知るのは反省後の事です。ですから、<知った>事法は、無分別事法から切取って分別して始り、この始りは必ず存在判断から、感覚判断からです。これが現量です。この現量には必ず六道のどれか・という色合が着いています。

 これは、眼耳鼻舌身の五根で入った五入前五識の感覚世界、一人称の非合理領域です。そしてこれを六界の色着の儘・その儘実有実在だ・と思うから虚妄であり、虚妄なる実体世界観が出来上る訳です。自分が着けた六道の色着だ・と思わないのです。これは未反省だからそう成るのです。

 この感覚判断はその人に取っては実有であっても、その当人に取ってさえ真実ではありません。現量とはそういうものです。これにいち早く気付いたのは西洋ではデカルトでした。

 外道の実体観は皆そうした着色現量実有の<思い>の線から出来上ります。着色現量実有から抽象して脱色比量実有――本当はこの二点が間違っているのだが――を導き出したからです。仏教のなかでもインドの上座有部詰りアビダルマ論者が堕入ったのはここ(脱色抽象)なのです。

 唱伝(アーガマ)に忠実ならんとして伝承した仏法を、分析で教法の解明をやって、修行(一人称世界の反省行)そっち除けで客観(三人称世界の認識)をしてしまったから<我空法有><三世実有・法体恒有>という六道抜きの抽象実有観・実体観へ転落してしまったのです。

 だから竜樹に「三世実有とは何事か、過去も現在も未来も無い、時間は存在としては無い」と叱ら れた訳です。これが仏法内での<実体対非実体>の論争の始りで、次が三論法相久年の諍いで、最後が伝教(天台宗)・徳一(法相宗)権実論争で、これで実体非実体の争いは終っていたのです。

 それ以後は南都北嶺何処からも・抽象・非抽象を問わず・正式に実体論が表明された史実は無く、真言宗の大日如来(大日は元は太陽の意)や浄土宗の西方浄土の実体化も、皆こそこそと蔭で密やかに行われ、表に主張された事は有りませんでした。

 鎌倉時代・江戸時代を経て、実体の為の論争は・権実論争以後全く見られなかったのです。所が明治から入って来たギリシャ哲学の影響で、十界も顛倒も離虚妄も論じない悪質な形で、昭和の現代に復活して来たから一大事なのです。ここで止めて置かないと大変です。

 それに就いてはこの対談全体が論破しておりますから今は置きましょう。竜樹の時間論に戻ります。時間は客観存在としては無い。然し生活上の関係事象の系列相続を見る形式としては有る。相続を<知る法>として・人のカルマ(業)と業の因果とに相依して実存として有る。そこで・時間は空・と成ります。この空なる時間が無いと<感覚>さえ成立しません。

 序でに申し述べますと、<三世実有・法体恒有>を「三世は実有であり、法体は恒有である」と、三世の実有と法体の恒有との二つの主張と解したのは後世の俗解なのです。何処で何時始った俗解なのかは私には判りません。最初は「法は三世に於いて実有なれば法体は恒有なり」という主張だったのです。「三世実有」は理由条件で、論旨の主語は「法体」だけだったのです。時間の方は、『発智論』ではないか・と思いますが「世(時間)に多体(別体)無し・法に依って立つ」で、初めは実体時間論が主張されていたのではありませんでした。

 話を元へ戻します。感覚判断には客観的実在性は有りませんが、感覚者に取っては実有として現れます。ここが仏法では<虚妄仮>と言われる所です。

 客観や分析で得た世界認識詰り比量は、これも五根五入の六道顛倒感覚世界の延長で、延長から一歩も出ておりません。ですからこれも衆生の迷いの<虚妄仮>の内でして、人々の共通の知識は万事そこから出発しております。アビダルマ論者は仏法法理をこの<虚妄仮>のなかへ押戻してしまった訳です。法性の六道偽見化・虚妄法化・顛倒化です。

 そうすると、仏法もその虚妄仮から出発する訳ですね。

 そうです。そして無常→縁起→無自性→空と行くのです。ここに世界の人称上の境目が在るでしょう。「受者空」(『大般若経』)でも感覚者は自分です。

 と言いますと……。境目は無自性と空との間ですね。

 外部感覚の延長上で得た客観の存在世界詰り三人称世界、この虚妄仮から反省に由って、<平衡感覚>……外界と・自己の心の内界との関係の感覚・意根に拠る法感覚・脈絡の感覚の<我れ>という<一人称世界>へ入るでしょう。そこに空が成立して来るのです。と言うのは、受者は実は<我れ>ではなくて、只・因縁に依って<受ける>という作用が起きていたからです。

 詰り、空とは、五根五入前五識の外部感覚から突抜けて、虚妄仮を第六の<意識>の法感覚の脈絡のなかに取込んだ際に、その際だけに生じ得る<反省判断>なのです。行為の上では現量からいきなり思量へ入るのです。比量も又メタ現量ですから行為上では現量です。色→受→想→行→識です。

 そしてこの一人称世界の脈絡上の現有の在り方を、得た心が・平衡しているかいないかで分けて行けば、地獄界……人界……仏界の十界が出て来るのです。十界も又・内外の脈絡の感覚・法感覚なのです。但し、未反省では六道だけを得、四聖・仏界は発心反省しないと得られません。

 ここ迄来ると、空もその先の中も・十界も・十如も・三世間も・従って一念三千も、妥当な現実理論だ・という事がはっきり判りますね。

 そうです。これらは決して形而上学概念ではないのです。空も中も・脈絡感覚・法感覚の上での反省判断です。すると<中>から仮有へ帰って来る双照の<建立仮>も、脈絡感覚の一人称世界の仮(有)です。これは九界の着色が消えて仏界一色に成っている訳です。

 仮の当体・仮有の当体は・内外因縁仮和合の焦点体として一つしか無いが、衆生の虚妄仮は五根前五識の外部感覚の延長上に在り、仏様の建立仮は・第六の意識の奥の・九識に即した<第六識の脈絡感覚上>に在り、仮有が乗せられている舞台(心行所)が全く違っている訳です。重点の繋(かか)り・が、衆生は外縁に・仏様は内因の方に・在るのです。

 ですから仮有の当体は一つでも、乗せられている舞台(心行所)は二種ですから<一に非ず異に非ず・一即二・二而不二>という一異問題に成るのです。仏法を仏様の己心の法と言い、四句分別を内省論法だ・と言うのはこの為です。第三レンマと第四レンマとが無いとどうにも成らないのです。

 双遮双照の二つのレンマでは、二重否定の結果は最初の有には戻らず、二重肯定の結果は最初 の<有>そのものへ戻ってはいるが然も<元の有>そのものではない。言わば有(a)と有(A)との違いを生じている。唯一の<有>であって二つだ・<一即二・二即一>だ・という意味がこれで能く判ります。

 ですから「眼の転ずる者・大山転ずと打ち思う」と在るでしょう。落語の<親子酒>がこれで、五根前五識で捉えた外部世界が転ずる訳は無いのに、脈絡感覚が狂って内外不調和に成った者は、大山転ず・と思込む訳です。そしてこの顛倒見を実有と信じ、実体化して思込んでしまいます。

 そこの関係を仏法では<一水四見>と言って、一物に対する思量上の見解が、果報に従って分かれてしまう・と教えています。大分けして虚妄見と真実見との二種四見です。

 それと同じく御本尊を「二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、仏は悉皆金色の仏身と見奉る」とございます。これも己心の法の<一人称世界の脈絡感覚>に関わっての事だ・という事が能く判るではありませんか。我々衆生は早く反省する事に慣れて、須らく虚妄仮を建立仮に変える訓練を積むべきです。

 反省すると、五根に従(よ)る外部感覚世界から、内外の脈絡の己心の法世界へ移りますから、二重否定の結果は元の有へは戻らない。両肯定でも同じ事です。してみますと、外道の使用法ではいざ知らず、仏法での四句分別というものは、最も現実的なレンマ反省法・把握の論法であって、極めて正確妥当なものです。世にこれ以上の論法は在りません。


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