(2)使用と形式――原型と使用・その応用型

 理解し賛成したい立場から言うのですが、それだけに疑問点の解明には全力を尽すべき責務を感じます。こういう意味から・もっと追及してみたい・と思います。

 そうして下さい。元々・仮と空とは、仏様の時代から、有と非有非無という四句レンマ構造式で表現され説明されて参りました。然るに、仮・空・中は一連の反省判断なのに、何故<中>だけは四句レンマで表現されていないのか……私はこれが不思議で<中の四句表現>を考え始めたのです。

 仏様から天台迄を通じて<中の四句表現>は、応用型以外にはまだ無かった事は事実としても、仏者の化導は論理研究ではないのですからそれは宜しい事です。でも、この事と、中を四句表現出来るか出来ないか・という事とは、全く別の事ですし、仮・空が四句表現出来て中だけ出来なければ、寧ろ不自然で可怪しい。空が表現出来ている以上は・中も表現出来る事は必然である……こう考えたの です。これは正しい道理ではないでしょうか。

 その点は了解致しました。前に一度出た話ですが、四句の総括に際して重要だ・と思いますので、再び取上げてみたい事が有ります。それは<形式>に就いての理解です。

 元来、<形式>というものは<意味・語用・構文(形式)>の関連に於いてのみ生きて働き・出来て来るものです。これが<論理性の脈絡>というものです。詰りこの三つは相依相待の縁起関係のものです。切離して放(ほう)ったらどれも無く成ります。

 そして物事の初めに於いては、意味を表現し伝達したいから語用をします。この語用に連れて、語 用の形式(構文)が発生するものです。詰り・<意味→語用→構文・形式>の順で整って来るもので あって、決してこの逆には成りません。その後に、出来上ったその形式から語用を行い、以って意味 を表現するのはエピゴーネン(追随者)のする事です。

 四句分別も昔の最初の段階では、そういう事で古式四句が出来ました。その形式が、一・有、二・無、三・亦有亦無、四・非有非無、でした。こうして出来た<形式>は、剣道の型などと同じ事で、新しい形式・新しい語用・新しい構文・を拒否するものではない事は既に申し上げました。

 この古式形式出現の後に釈尊が出現して縦型使用を開始し、天台が三諦に使いました。これは新使用ですから・一部分・古式四句形式に合わないのは当然です。合わない部分は、天台は応用型を用いて埋合せました。そこで「新使用には新形式を」という事で私が提案したのが、一・無、二・有、三・非有非無、四・亦無亦有、という事でした。これは、宗因論合結を宗因諭の三支の新因明に成長させた陳那の行為に、幾らか似ているかも知れません。

 そこ迄のお話しは納得致します。そして、<非・非>という両否は、元々は上求菩提・求道自行での面、<亦・亦>という両肯は、下化衆生・化他での面、そこをしっかり把握していれば、双照は中諦から発する態度ですから、亦無亦有は中諦の表現だ・という事は理解出来ました。

 極意に達してみれば、今度は両否も化他へも使えますし、両肯も自行へも使えます。この点は見易い所です。でも、説明としてはそれだけで終りでしょうか。

 説明はもう一つ有る様に思います。それは、<無・有・非有非無・亦無亦有>というレンマは、何処迄も論法上の基本原型だ・という事です。この意味では代数式の様な原型だ・という事です。例えば(AB2A2+2ABB2

というのは数学・代数の一例としての原型でしょう。論理ならば

  PPPP   同一律

  〜(P,〜P)   矛盾律

  PV〜P      排中律

 これは論理三原則の原型でしょう。同様に、四句分別……山内氏は・四句分別という漢語訳は妥当でない・と言っておりますが、訳語の妥当不妥当はこの際別にしまして、語用上、兎に角・四句分別の 有     は ”仮諦律”(律は約束事の意)

非有非無 は ”空諦律”

亦無亦有 は ”中諦律”

とでも言うべき基本原型なのです。そして

 非中非空・亦中亦空 (有)     仮

 非有非中・亦有亦中 (非有非無) 空

 非空非有・亦空亦有 (亦無亦有) 中

というのは使用上の具体的な<応用型>なのです。

 非空非有は非空非仮の意・亦空亦有は亦空亦仮の意で、天台の論書では、肯定否定という論法と・三諦という諦論とが、<混合>されていたのです。この点では、仏界の如是相は「非相非不相にして而も如是相なり」(『文句』)・「非漏非無漏の中道の業あり」(『止観』)などの・又・八不中道の「不一不異」などの・応用型の一例の域を出ないのです。古形では表せないので応用型で示したのです。

 応用が有る以上は、応用の基に成る原型が必ず在る筈ですから、応用に対して<亦無亦有が中>と用いたのは、論法の基本原型の立場で用いたので、応用型の(天台流の)亦空亦有と矛盾する関係には成りません。両立可能です。非空非有とも同様です。

 その事も了解致しました。

 ですから、今迄述べ、そして説明して来た様な二つの筋道・理由から<中=亦無亦有>を主張したのでして、これで納得して貰えるのではないか・と思って居ります。論理の物事の始りは、<意 味>の為に<語用>して、この為に<構文>という形式を構えるのですが、<構文と語用>で<意味>を決めるのが論理学の常套手段ですから、手筋のこの常套手段を適用して<非無非有・亦無亦有を中 と決めた>と思って頂けば宜しい・と存じます。

 存在判断として<亦無亦有は中>と思えば反合理に見えるでしょうが、非有非無(第三)も非無非有・亦無亦有(第四)も存在判断ではなくて、智法の側の事としての反省判断だ・という事を忘れないで欲しい・と思います。<在る法>ではなくて<知る法>です。

 反省判断だからこそ、ここから事象へ適用して概念化への道も開けて来るのです。論理や論法の終局は肯定(有)でなければ成りません。ですから四句の終りも重重の肯否を経た上での<有>でなけ れば成りません。第四句下半の<亦有>はまさにその事です。若しも否定で終れば「四句百非安息所無し」で、サンジャヤ外道がそうだった様に矯乱論に成ります。


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