8 四句分別の総括

(1)理論が脱線していないか

 今迄私達二人で考えられる限りは、あらまし尽くして来た・と思います。そこで、最後にこの長かった討議を総括して結論にしたい・と思います。

 これ迄を振返ってみて重要な事は、何故・昔ながらの古形式をその儘用いないのか・という点でしょう。次には、主張している様な新形式にして宜しいのか・という点でしょう。古形式では第三句は<亦有亦無>でした。これでは非有非無を双照形にしただけで、その儘ストレートに<中>とは言えません。ここに第一の難点が有るのです。

 この理由から古式を持てました。元々形式とか型とかいうものは使用に伴って出来上ったものです。剣道の型・柔道の型・相撲の型・論理の型・文章の起承転結その他の型……全てそうです。これ等の型(形式)というものは、それがどんなに立派であっても、未知の新しい型が出現する事を禁じている事ではないでしょう。

 末木先生は『論理学概論』の序文の中で「生きた論理は各自がそれぞれの思索によって開拓するほかは無い。かく言えば、『いや、論理は万人に共通な普遍の道理である』と反駁されるであろう。確かにその通りである。しかし一本の道も千人が歩けば千本の道である、それ故、私には私の論理があり、読者諸子にはまたそれぞれの論理があって然るべきである」と述べて居られます。

 Aなる使用からはAなる形式(型)しか出て来ません。一形式に強く拘泥るのは他の使用を禁ずる事に成ります。Bなる使用からBなる形式が出て来ても何も可怪しい事は有りません。<使用と形式>が一連のものとして合理性を持って整いさえすれば宜しいのです。<脈絡の一貫性>さえ崩れなければ宜しいのです。

 新形式の四句に於いて、第四レンマ亦無亦有は<中>を表現する・と言われました。更に、亦空亦有とも表現しても宜しい筈だ・と言われました。その<中>を天台は<非空非有>と表現しております。中が非空非有であり亦空亦有ならば、中を亦無亦有と立てるのは勝手な所見で、理論が脱線している事には成りませんか。

 これは難問でして、自分でも・そう言われそうだ・と思って居ました。円融の中は・空でもなく且つ空でもある・仮でもなく且つ仮でもある・のでして、これは空仮に対して<否定(無)かつ肯定(有)>という事ですから、空仮いづれに対しても<亦無亦有>という判断に成っております。四句の実質は、有・非有非無・亦無亦有の三つです。非有非空()は、有と・空・詰り非有非無とを排除する事で、非空非有()ならば同じく非有非無と有とを排除する事ですから、残りは亦無亦有しか在りません。それで、非空非有(照立)=亦無亦有・という事に成ります。即ちこれが<中>の 双照レンマと成ります。

 何しろ釈尊から天台迄の間に、更にそれ以後にも、四句分別の解説書というものは全く一つも無い から困るのです。「文無く義無きは信受すべからず」ですから、この点から責め立てられると、確かに 勝手な見解だ・という事に成ってしまいます。

 ですからこの意味では・個人の研究だ・という事で御勘弁願うしか有りません。然し無根拠で主張しているのではありません。三諦という事の事実内容・意味内容から四句の語用を考え、そこから構文としての新形式を編んだのです。総括に際しても、ここを踏まえて理論の筋を展開して行きたい・と思います。その拠所を天台に求めて参ります。義を天台に探し求める訳です。

 四句分別は三諦と無関係な使方はしない、仏様と人師論師との間に・そういう暗黙の了解が有る様だ・という点、これは竜樹や特に天台の三大部を通覧してみると、疑問の余地が有りません。それで、今迄は四句分別で三諦を見て来ましたから、今度は三諦から四句分別を見返してみたらどう成りますか。

 円融三諦では、まず仮諦の有ですが、双照円融ですので、これには双照体内の双遮形としての・中でも空でもない・という遮破の側面と、同じく双照体内の双照形としての・その儘中でありその儘空である・という建立の側面とが在ります。詰り中に照らし立てられた有・空に即して建てられた有・という側面が在ります。それで・仮(有)は、非中非空と亦中亦空・という表現も成立ちます。円融双照の仮はこう成ります。同様にして、空は非仮非中と亦仮亦中。中は非空非仮と亦空亦仮・という表現も成立ちます。以上を整理してみると次の様に成ります。@は論法原型・Aは応用型です。

 実は天台では<非・非>の両否定の方を双遮・<亦・亦>の両肯定の方を双照・と言っております(『文句』)。双遮(両否)は仮→空→中と<虚妄仮>から悟りを求めて登って行く<自行>の側面、双照(両肯)は中→空→仮と勝義から<建立仮>へ化導の為に再び戻って来る<化他>の側面です。

                          双遮(両否)     双照(両肯)

                 仮(有)――@非無(非非有)  亦有(亦無無)

(仏の側から照立した)        ―――A非中非空     亦中亦空

  円融三諦 ―――   空  ―――@非有非無     亦有亦無

                    ―――A非仮非中     亦仮亦中

                 中 ―――@非無非有     亦無亦有 

                    ―――A非空非仮     亦空亦仮

 行道としての<絶待(これは教道)の中道>は<待絶>で言語道断・心行所滅なのですが、言説化すれば双遮双照の二筋道が最小限な必要且つ充分の条件です。自行面は反省否定で行くから双遮、化他面は自覚再肯定でするから双照……。

 ですから、今ここに仮・空・中のレンマとしての形式表現を並べた事、この表現形式に就いては、誰も別に異議は無い筈です。それで天台が一般に使っているのは、仮=有・空=非有非無・中=非空非有(非空非仮)という表現です。そして<空・有(仮)>を双照して肯定表現をすれば亦空亦有(亦空亦仮)で、これも天台学一般にまず文句は無さそうです。

 そこで問題は、四句を分別の内容として三句に整理した場合に、亦無亦有を<中>に当てて良いかどうか・という事に成りますが、これは先程説明した通りです。表現の三句から有と空とを排除すれば亦無亦有しか残りません。

 四句でも三句でも同じ事ですから、その点は宜しい・と思います。仮(有)でないレンマは第三第四の二つで、中は空でない側面からすると第三を否定するから、残るのは第四だけだ・と言われた事も宜しい・と思います。天台は中の自行の側面を非有非空(『玄義』)・化他側面を非空非有(『文句』)とした・と言われましたが、化他で教えられて初めて知ってそう使った衆生側としては、自行の双遮面からすると<中>は否否の非空非有(非空非仮)ですね。レンマの構造式としては第三レンマに留(とど)まりますね。

 そうです。そして円中は・両否だけの一側面に片寄ると論法形式としては完全性を欠きます。円の中である以上は・双遮双照と・両方へ跨がらないといけません。非空非仮に待するその双照の方が亦空亦有(亦空亦仮)です。これは天台説への追加です。

 前表でも非空非仮・亦空亦仮と成っておりますが……。

 論法順序としては、双遮は・仮空中の<中>の直接前の<空>の否定=非空から始らないと成立しませんから、前表でも、論理性を厳密にする立場を取ってそうしました。双照の追加で内容が変った・という事ではありません。

 そうすると、<中>の双遮双照は<非空非有・亦空亦有>と成ります。

 非空非有の方は元々そう教えられた衆生の求道自行の面からの<中>で、元来<中>そのものは仏様だけの悟りですから、否定面が無用に成った仏様の絶言の立場では非空非有は消滅してしまいます。仏様(報中の応仏)を基点として見れば、中は化他に用いる亦空亦有だけしか残らないのです。 だが、その仏様が衆生へ化導上示す際には、衆生因位自行のオルガノンとして、空・有とは違う非空非有――天台の言方でも非空非有――を教えなければ成らない訳です。そこで仏様からすると、非空非有は、再び建立するから、無いのだけれども有る。亦空亦有は、応仏化導の道筋として元から有って今も有る。大体こう成ります。

 ですから、仏様の方からは、無いけれども有る。そうならばこれは・この面からも亦無亦有でしょう。求道自行の衆生の方からすると、有るのは教えられた非空非有だけで、仏様の手元の亦空亦有はまだ有りません。仏様の方には有っても衆生の方には無い。すると衆生の方からは亦空亦有は「有れども未だ無し・無所得・空」で、これ又・亦有亦無です。そこで仏様の方と衆生の方とを両方総括して、元々の古形第三句<亦有亦無>の上下を逆転させた形

 中  亦無亦有  第四レンマ

と、帰結を建立仮の有論にした――分別である以上は決して無論では終らない――というのが三句に整理した立て方で、反省否定で連関(脈絡)を維持する四句分別の筋道から脱線した理論立だ・とは思えないのです。そこで

 無(否)   第一レンマ  (カオス無分別を分別化)

 有(肯)   第二レンマ  仮  建立

 非有非無  第三レンマ  空  双遮

 亦無亦有  第四レンマ  中  双照

 (第三第四句内の有無は重層有・重層無。単有・単無ではない)

と隔別の三諦から円融三諦という風に組んだ訳です。これでいけない・という根拠は見付出せないのです。

 何せ仏法の経釈論の中に、紹介書は在るが、『四句分別解説論』というものは全く無いので、この立て方に異論が有っても、その反論的異論も又「文無く義無きは信受すべからず」に成ってしまいます。大体以上で御理解願いたい・と存じます。


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