(5)宇宙の内外・表裏

 仏法で境とか界と言いますのは、智法に待した境……境法としての法境の意味ですが、器世間・と言えば物理的客観的な存在世界の事に成ります。三千大子世界・と言った場合の「世界」も物理的な世界です。地球と宇宙とに就いては、仏法をも含めたインド人独特の世界観・宇宙観が語られています。

 須弥山を中心にした三十三天構造、北単越・西クヤニ・東弗婆提・南閻浮提・という地球構造説は、古代インドのもので、仏法でもその儘採用されている訳です。時間の方も無暗に長大な単位が長々と語られています。劫などはまだ途中の単位で、無量大数に至る迄、極限・と言える所まで単位を積重ねております。これらも面白いのですが、ここでは割愛します。

 宇宙・と言っても変なものです。宇宙に<外>が在るでしょうか。宇宙に外が在るならば、その外も又宇宙の中へ入って来なければ宇宙には成らないのですから、宇宙に外は在りません。宇宙の外は真空だろう・と言うのは子供の発想です。

 外が無ければ、外在っての内ですから、宇宙に<内>というものも在り得ません。これも又無くて、内外共に無し・です。同様に、宇宙に<表>とか<裏>とかが在るでしょうか。どちらも無い訳です。同じ事で、真中(中心)も無ければ端っこも在りません。

 要するに宇宙は無分別そのものです。内外・表裏・中端・は、分別し限定し得るものには適用出来ますが、無分別に対しては適用不可能です。この<無分別>という特徴が、宇宙に関する一切の立論を困難にしています。物理としても、宇宙を計る妥当な座標系など・立て様が無いでしょう。

 どんな概念にせよ、どんな立派な学説にせよ、これらは全て分別として定立したものです。従って分別には正当に適用出来ても、無分別へ適用して正当である・とは申せません。余程綿密な注意が要る事に成ります。

 今の・内外・の話ですが、世俗で言えば、我々は宇宙の内に住み、宇宙の内の地球の表面に住んでいるのですが、又、子供に聞くと、宇宙というものが在って、その外は真空だろう・と言いますが、現代の物理学ではその真空は在りません。限りは有るが果ては無く、光速度の関係で限界されているのが、我々の経験出来る宇宙・という事です。

 形而上学的な話に成りますが、思考実験をして、無理に光速を超えて宇宙の壁を破った所迄行って見たら何が在るか・というと、やはりこういう様に星が散らばっているだけだろう・と言うのです。

 これは学問としては仮説ですが、恐らく正しいでしょう。だから、宇宙というものには外が無い。外が無ければ内も無い。外在っての内、内在っての外ですから……。そうすると表も裏も在りません。真中も端も在りません。更に、速度論からすると、超高速ロケットで飛べば、ドップラー効果の所為で、真後ろの星だけ除いて、宇宙は皆前方の一点へ集ってしまうそうです。

 然し、こう言切っている我々に取っても、宇宙に内は在るのです。現に夜に成ると星に取囲まれて暮して居ります。その内に居ますもの……。だから宇宙は非内非外で、更には宇宙の内外は<有に非ず無に非ず><無でもあり有でもある>。これは当然で、自然に成立って来るのです。

 電波天文学から言わせると、宇宙は静寂どころか活発で、非常に荒々しいもの・だそうです。諸行無常の見本みたいなものだ・という事です。宇宙の話と言えば膨張宇宙説が有名です。これなど、四句分別の上から見たらどう成りましょうか。膨張や縮小は相対概念ですから、相対性理論の相対運動を離れた膨張宇宙説ではない筈ですが……。

 私は膨張説には疑問を持ち、否定的に考えている一人です。そうかといって執著しよう・と思っているのでもありません。現代天文学の定説を引繰返してやろう・と野心を持っているのでもありません。無分別へ強引に分別を通用させよう・という態度に不審を抱(いだ)くのです。それは一面だけの事で片手落ちなのではないか・と思っているのです。

 計るものを乗せる座標系を措定する事と・光速度不変を認める・という二大前提に立って計った上で、宇宙膨張説が言える訳です。ですが、宇宙には相待させる相手が無いのだし、無理に求めれば<過去の宇宙>しか無い道理です。兎に角宇宙それ自体の他に座標系の求め様が有りません。

 すると、さっきの話のパリに在るメートル原器、これが伸びつつある・という様な話が膨張宇宙説に成っていませんか。この原器は計るものであって・計られるものではないのです。伸び縮みを言うのは無意味です。座標系が膨れ上って行く・という話も無意味です。

 宇宙の膨張も同じで、無意味な話・と思うのですが……。この膨張は、<宇宙の一点から見る限り>という制限的前提の上からしか言えない事です。無分別体を勝手に制限しても宜しいのでしょうか。

 物理としても不審な点が有る訳ですか。座標系は形而上学的に構成して設定する事が出来るとしても、宇宙をそれに乗せて計るとなれば、宇宙の外(そと)に尚、座標系という他物が在って、これでは<あらゆる一切合財>という宇宙の概念規定に反します。

 概念上からしてもそれは出来ない相談ですし、物理としても出来ない相談な訳です。実は膨張説には二つのからくりが有ります。

 その一つは、これは思考実験的な立場に就いての批判に成るのですが、観測者が、自分を宇宙の外(そと)へ立て、宇宙を自分の外へ立てて、<宇宙対自分>という二元分化をした上で膨張を言っている・という事です。これならば、自我の自覚の弁証法の場合と同様に、必ず<矛盾に由る撹乱>が這入込む筈です。対象の外側をぐるぐる周って視点を沢山取って<見る>という<部分学>の例の客観手法は、宇宙に対しては通用しない筈です。一元を二元化した話に絶対性は有得ません。

 自分又は座標対宇宙という二元化は、この事自体が矛盾しているのです。こうなると、物理でありながら形而上学だ・と言われなければ成りません。二元化しては成らない(不可能)ものを二元化してしまったのですから、これは<仮説・仮設>の域を一歩も出ておらず、事実論とは言えません。

 その点は判りました。もう一つの方は……。

 もう一つは、<部分を測って膨張を主張している>という点です。全体そのものを測っての説ではないのです。外からは測れないから内から部分部分を測っている訳です。部分を測ればどの部分も爆発に拠ると思われる膨張現象を見せていて、そうでない部分は実例として一つも無い、だからあらゆる部分を総和し再編成した宇宙に就いて膨張を主張する……という手続に成っております。「全体は部分の集合と同じ」という思想で・六師ミーマーンサー派と全く同じです。

 客観の手続(分析−総合)……部分化→再総合は、必ず、<現物と全的には一致しない>のが普通です。帰納という手法は、実りは豊かではあるが・絶対確実の保証は有りません。これとか・こうした事々に、私が膨張説に疑問を持つ根拠が有ります。物理と数学とで育った私には、物理と数学との塊である膨張説ではあるものの、どうしても納得は致し兼ねます。地球の地上という一特種地点からの<見え>の絶対化説は受取れません。

 でも物理や電波天文学では・膨張している・と言います。ピック・バングと膨張とに就いては、益々証拠が増えつつ有る・と言います。すると、四句分別から見返すと、膨張しているに非ず・していないに非ず(双否、第三レンマ)、膨張せずして膨張している(双肯・第四レンマ)という事に成りますが、どうもこれが適格な真相なのではないでしょうか。

 片寄らない判断・というものは難しいのですね。この判断に就いて、天文学者に素直な意見を聞いてみたいものです。

 片寄った一方的な判断(二辺見)には迷わない・と成ったら中道です。結局、四句分別は空仮中三諦の為のレンマです。これを世俗へ応用してみたら、部分的事例から膨張説迄・以上の様に色々な事が見えた・という事です。


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