(4)出来事としての有無と素粒子の振舞

 同じ出来事も・感性で受止める場合・理性で受止める場合・座標系を換えて見る場合・又、四句レンマによる直接把握の場合・とでは、異った側面が出て来ますね。

 その点から言って、勝義と対立すると必ず<有無>が出て来て、択一では矛盾する筈のものを肯定しなければ成らない場面が出て来るのです。この両肯定が、無でもあり有でもある・という<中>なのです。その適例が先程申した・長さが有って無い<線素>です。これは宇宙内の実物・とは言えませんから、形而上存在なので今ここでの例とは為し得ませんが、矛盾を非矛盾と受容肯定した例には成るのです。

 では宇宙内の実例としてはどうでしょうか。

 今我々が現に夜空を眺めて把握している<見えた宇宙像>がまさにそうだ・と思います。あちらは銀河系の天の川(銀河中心附近)だ・あちらは別の天体だ・あっちは何星だ・と夜空の中に散らばっています。写真に撮ればばっちりと平面上に現出します。

 所が、これは”本物”だ・と言えるものでしょうか。天文知識が教える所では、途方もなく遠いのは何光年・何十・何百光年掛かって光が遣って来る・と言います。すると、現在では既に爆発して消滅してしまった物も在る筈です。これでは、もう無い物・を見ている事に成ります。亦無亦有です。普通ならば立派な矛盾です。

 遣って来る光年に従って、あちらのは何年前の物・こちらのは何十年前の光・そちらは何百年前……という事ですから、これは恰(あたか)も、赤ん坊の時の私の頭・少年時代の私の胴・青年時代の両手・現在の両足、そういったものを掻集めて一枚の写真に映し出して、これが”本物”の私だ・と言っている様な事に成ってはいませんか。

 ですから・現在の宇宙像・というものは、誠に<素直>に矛盾を非矛盾として肯定している訳です。無くて然も在るものを・肯定しているのです。”虚妄仮”である宇宙を肯定しているのでして、これを拒否しては天文学は成立ちません。何も彼も<承知の上>で肯定する・という事は、勝義としては<建立>(双照)という事です。建立した以上は<中道>です。

 只今何時何分何秒現在・での”確実”なる宇宙像……これは原理上、絶対に得られない・という事ですね。これは『普賢経』の「汝の眼根の因縁は……」の文を想い起させる事件・と言えそうです。「世間虚仮」の例・とも言えそうです。

 我々の宇宙というものは妙なもので、「太陽は今あそこに在る」と言っても、それは八分前の太陽にすぎないし、おまけに、空気の曲率が在って、この二点からして、今太陽はあそこには無いのに在る様に見えているのですから<無でもあり有でもある>のです。マクロとミクロとの世界は皆そうです。一括して現量虚妄です。

 これらは決して・存在としての現象・とは言えません。最早これは<出来事>の方です。第三レンマ及び第四レンマでの有無は、存在としての有無・ではありませんね。知り方の問題です。

 存在としての・物としての有無ではありません。出来事の認識としての有無(肯定と否定)です。反省世界から・当面している現実・を見渡した際の判断だ・という事です。詰り、第三・第四のレンマは高度な反省判断です。客観的な世俗に対してさえそうなのです。出発点の単純な直接存在判断ではありません。そこは甚だ頼り無い仮りの<有>だけです。

 出来事としての<無>の側面・というのは、具体的にはどう成りますか。

 ここは信濃町です。中央線をずうっと西へ行くと八王子へ行きます。こちらは東でそちらは西です。これは<在る法>ではなくて<知る法>としての関係性です。関係性も事物へ適用すると出来事のうちの一つです。所が青森の人から見るとどちらも南でしょう。沖縄の人から見たらどちらも北です。

 こうしてみると、その状態に関して、有り方として一義に決められない・という所が<無>に成るのです。反面、座標系の取方次第で一義に決る・という所が<有>に成ります。「東西に非ずして東西を生ず(亦無亦有)」(『玄義』)という様な事です。遠い・近い・という関係に就いても、そういう事が見られます。

 遠い近いは距離詰り空間関係ですが、「諸法相所対不同」で相対的なものですね。

 それも有りますが、それとも違う事も有るのです。東京から沖縄県内の小さな離島へ行くのは、アメリカ本土へ行くよりも遠いのです。距離の方ではなくて時間上・遠いのです。片方は船の乗継ぎで時間が掛かり、片方はジェット機で一飛びですから……。”遠くて近いは日米の仲”という事です。遠近に非ずして遠近を生ず・という事に成っているのです。この関係は四句レンマです。

 ミクロ世界の話が出ましたが、素粒子の振舞が現す<粒子と波動との二重性>も興味深い現象ですね。

 以前は、粒子と波動とは・相容れない矛盾した概念・として捉えていたのですが、現在では、矛盾しないものだ・と考えなくてはいけない訳です。

 可怪しな事に、実験の結果、ここから一個の光の粒子を放射し、向うに二つの穴を開けて置くと、同時に両方の穴を一個が一緒に通過してしまう・と言うのです。光が粒子という粒であったら、これは不可能を行った事に成ってしまいます。矛盾が現実に行われた、という事に成ります。

 レンズを置くと、一個の光の粒子がレンズ一杯に広がって通って行く。詰り、飛んで行く時には、波動性を現しながら、然も・煙の魂・の様な按配で飛んで行く。所が、捉えてみると、たった一個の粒子にすぎない・という。これは勿論そうでしょう。発射した時にはたった一個の粒子だったのですから……。

 そうすると、一個の粒子・という原子論的な意味での実体的な素粒子と、波動という現象的な性質的な在り方と、更に、途中の・粒子の占める幅・と言うか大きさ・と言うか、その<煙りの塊>みたいな状態ですが、この三つをどう統一して理解したら宜しいか、迷う事に成ってしまいます。

 こうなると、我々の常識的な二者択一の考え方からすると全くお手上げで、一にも非ず異にも非ず・所ではなく成ってしまいます。これなどは、素粒子論でも非常に八不中道的な考え方に近付いて来た見方ではないでしょうか。

 更に、素粒子には、次の様な現象も有る・と言います。何かプラスの素粒子をぼんと抜き出すと、瞬間にその跡が空間に成る。所がその穴がマイナスの電磁力を持つ・と言うのです。という事は、マイナスの素粒子を生じた・と同様です。

 プラスが在った所から、プラスを除くと、その瞬間にマイナスの電磁力が生ずる・と言う。元へ戻りたがるのです。そしてその場限りの現象としては、そこにマイナスの素粒子が在るのと同じ状態に成る訳です。然もそこにマイナスの素粒子というものは無い。在るのは穴だけです。然も両者を区別する理由も手段も無いのです。

 段々<有にも非ず無にも非ず><無にして有なり>の様な状況に成って来ますね。

 こう色々並べて見せて、さあどうだ・第三レンマと第四レンマとを承認するか・と言えば類推には成りますが……類推ですから論理としては弱いとしても、信じさせる説得の根拠には成りませんでしょうか。


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