(3)特殊相対論・一般相対論の場合

 物理学に於けるアインシュタインの相対性理論は余りにも有名です。初めは世界中が認めなかったし、認める様に成ってからも、正しく理解出来る人は少なくて、日蝕の観測で・空間の曲り(歪み)が実証される迄は、単なる理論上だけの話だ・という考えが蔓延(はびこ)っていた・という事です。

 今では学生でも充分理解して居りますから、思えば隔世の感有りです。でも五十年しか経っていない訳です。この相対は相待の一局面ですから、相対論は縁起論であり、「全て空と説かれる仮説」(『中論』)という事に成ります。空ですから相対論は非有非無なる現象を論ずる説・と言えるでしょう。有の世界で・非有非無の方が真実・と認められた事は、考えてみれば刮目に値いする事です。

 物理は有を論ずるものですから、この点からは、相対論は寧ろ・亦無亦有を論じている・とも言えそうです。特殊相対論の<同時性>の問題は、当面の私共の課題に取っても、興味有る話題を提供する・と思いますが……。

 そう思います。今、走行中の列車の真中に光源が在って、車内の両端へ光が届く様に成っている・とします。列車の真中に乗っている人に取っては、列車が走っていようと停まっていようと、列車の前と後とに光が到着するのは同時です。列車が停まっていれば、車外から見ている人に取っても同様です。

 所が、線路の外で見ている人に取っては、走っている列車の後方に先に光が着き、列車の前方には遅れて到着する事に成ります。その訳は、光速度はどの観測系(座標系)の誰に対しても同じであって、列車内の人に対しても外の人に対しても光速不変だからです。

 すると、同時・と言っても、走る列車の中に居る人と・その外で見て居る人とでは<同時が違う>と言うのが特殊相対論の結果に成ります。二人の<同時>は根底が空なる出来事(亦空亦有)で、絶対性・実体性を持つ事は出来ないのです。

 もう一つ。一見奇妙な現象として、特殊相対論には、高速度で進行するロケット内の<空間の短縮と時間の遅れ>という現象が在ります。

 凄いスピードで飛ぶロケットを地上の人が観測すると、ロケットの中に在る時計はどんどん間伸びして遅れると共に、ロケット自体が進行方向へ縮んでしまう。ロケットの速度が遂に光速度へ達すれば、ロケットの進行方向の長さはゼロと成り、時間の経過は停止する事に成ります。

 それなのに、ロケットの中に居る人に取っては、何も変った事は起ってはいないので、只・地球の方からはそう見える・というのです。立場を逆にしても同じ事で、ロケットの中の人に取っては、地球側の時間が間伸びして、地球はペチャンコに潰れてしまう事に成ります。そして地球側に居る人に取っては別に何事も起ってはいない訳です。

 では、潰れるのか潰れないのか、どちらが本当か、と言ったら、どちらも本当なのです。二辺見通用せず・です。正にこれは八不中道の一異問題で<一に非ず異に非ず>です。どちらが本当かの<本当>に就いて分別したら、非有非無・亦無亦有の両レンマに成ってしまいます。

 私達が普段・これは本当だ・真実だ・真理だ・と思込んでいる事は、案外この時間空間の伸び縮みみたいなもので、結局、相待の仮設・虚妄仮・である事が多い・と思います。幸福だ不幸だと思込んでいる事も、他人の状況と相対して計った上で・自分の倖せの大きさの”脹れ””潰れ”を自分側に感じている場合も多く有りはしないでしょうか。

 相対の格差が無い原始社会と、有過ぎる文明社会との差が生み出した<相対現象>というべきものです。こういう事に就いての<事の真相>は特殊相対論からも充分学び取れる・という事です。

 一般相対論に成りますと、更に、<空間の曲り>という全く新しい結論を出して来ます。これが先程述べた・日蝕の観測で、単なる理論上の話ではない事が証明された・有名な理論です。

 それは、こういう例で説明されています。真四角なゴム膜をピンと張って平面にし、真中に<重し>を乗せて曲面を作って、片隅からボールを一つ転がす。するとこのボールは必ず一定の通しか通らない。ボールの運動エネルギーの消費量が最小限になる様なコースしか通らない・と言う。ボールは省エネでケチる訳です。

 確かに、曲面を作ってこのゴム膜の上にボールを転がすのですから、そうなる筈です。真中の重しの玉がA、転がした球がBAB間の相対運動だけに注目して、ゴム膜をそれらを含む空間だ・とすれば、空間は歪んでいる訳です。これは、そういう<見え>を伝達した光がひん曲ったからだろうと言うのは通らないのです。

 というのは<光速不変>という大原則が在るからです。光はどの系の誰に対しても<向きも速さ>も全く変えません。やはり、曲ったのは空間の方な訳です。何も無い筈の空間に<曲り>が有る・曲り具合はそこに在る星の質量に連れて決って来る……無にして有でしょう。第四レンマです。

 運動の相対性・という事に関連してですが、人類は、初めは天動説に拠っていたのが地動説に変り、到頭・相対説に迄成って来ました。こうした考え方の発展の中に、単純な有無だけに頼るのではなく、四句レンマに拠る考え方をせざるを得なく成った事情が暗示されている様に思いますが……。

 沢山の深い観察が四句分別を生んだのでしょう。我々はどう頑張ってみても、この地球が廻っている・という実感は持てません。実感出来るのは太陽が廻っている・という事だけです。これは「日の転ずる者・大山転ずと打ち思う」でして、落語の<親子酒>を笑っては居られません。この局面に就いては我々も全く同じな訳です。けれども地動説に依れば、こちらが廻っている。然も自転・公転と二重の廻り方をしている・という。これも真実です。決して曲げる訳には参りません。

 然し、もっと高い立場から見て、運動は相対的だ・という事に成れば、どちらか片一方が動いている・と言うのは、もう一方を座標系上に固定して観測しているからにすざない。だから・系の取方次第で・運動というものはどうにでも成り、どちらが動いて(有)いてどちらが止まって(無)いるのでもない(無)・という事(非有非無)に成り、我々の実感とは甚だ掛離れているのです。

 その辺が<無>なのです。ですから、実感を土台として考えている人は、地動説を無と受取り・相対説も無と受取るのです。逆に<有>と受取る例は、我々に取っての地球の重力(引力)です。然し有人宇宙船で地球を廻る乗員に取っては<無重力>です。こちらの人は同じ地球の重力を<無>と受取ります。

 これに対して、それは、ロケットと乗員とが、同じ速さで地球へ落下し続けるからだ・と説明してみても、地球の方がロケット側へ上昇し続けてもいます。乗員の<重力が無い>という実感を拒否する訳には参りません。真実は、有に非ず無に非ず・無にして有なり・に求めるしか無く成ります。

 地動説に拠る人は、逆に、太陽の動きを<無>と見る訳ですね。

 ええ。相対説から言えば、どちらも<無>なのです。然もどちらも<有>なのです。相対の一方の太陽や地球は、運動しているに非ず・運動せざるに非ず・非有非無・という事に成ります。然もこの銀河系が他の星雲に対して動いている・という事に成ると、皆<無にして有なり>と成りませんか。分別虚妄→不可説です。

 

 


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