(2)時間と空間との理解

 時間と空間との問題は、哲学でも科学でも古来・難問の部に属していまして、色々な学説が出ては否定され・出ては消えて行った歴史を持っています。外道と仏法との間でも、無記無答や・断見・常見・非断非常の中道見の問題として、大きな論争の種に成って来た所です。

 『中論』から拾ってみますと、<生滅>とすれば有始有終となり、<不滅不生>とすれば無始無終という具合に、時間論が登場して来ますが……。

 その上で仏法に在るのは<久遠><無始>と<尽未来際>ですが、始りが在れば久遠ではなく、「久遠元初」は言語上・矛盾・という事に成ります。この問題は別に後の章で論じます。兎に角、久遠は数学上では無限問題に成り、時間論と数学論との両方を考慮しなければ成りません。

 <無限>には<無制限>と<無限大>との二つが有りますが……。

 数学者の説明に依れば、無制限の方は、任意の〔n1〕は常に成立つ・という事で、無限大は、こういう無制限に依って生産されて来る数を皆掻集めたもので、記号としては∞です。と言っても説明には成切ってはいないので、どちらも進行形のものですし、実在世界には対応すべきものが無い形而上学的なものです。詰り<知る法>です。理想事態への<能顕法>です。

 同じ事は、ゼロに就いても言える訳ですね。ゼロの発見者はインド人ですが、その人は仏法の空からゼロを思付いた・のだそうです。これも<在る法>ではありません。

 <ゼロ>というのは、何も無いのだけれども〔nn0〕〔n00〕という式に於いて成立している訳で、このゼロと無限とは数学を成立たせている土台なのです。ゼロと無限とが数学の土台だ・という事は、ゼロと無限とは、言わば無分別の側に属している訳で、分別としての数学は、この無分別の上に現出している・という事です。能顕法が分別上<在る法>(所顕法)を顕すのです。

 そしてこの数学が様々に応用されている訳で、こうなると、ゼロというのは、何もかも丸々の無だ・と言う訳にも行かなく成って来ます。空が完全無ではない様なものです。<皆無>と言う訳には行かず、無でも役割を担えるのですから、<有に非ず無に非ず><無でもあり有でもある>で、レンマの綾・というのはそこなのです。ゼロは<層>内に役割を隠した重層無・という事に成ります。

 <無限>の方も同じ事です。現実には対応すべきものは無い・という点では<無>です。けれども、ゼロと相待し縁起して数学を成立たせている・という事に成ると、今度は<有>に成って来るのです。無くて有るのですから亦無亦有です。それも単なる有ではなくて第四レンマの重層有です。

 「心は但之れ名のみなり」と言って、無いのだけれども名は立つのだ・と言われていました。ゼロや無限はこの<心>と全く同じですね。無いが立名出来る。仮名存在として表現出来るもの・こういう形而上存在として承認出来るもの・という事に成ります。

 ですから、ゼロにしても無限にしても、個々の凾数式の中に有用性を持って現れて来る性質が有るのです。この凾数式というのは言わば縁起式で、ゼロや無限は、何も無い癖に凾数式の中に現れて、凾数式・凾数関係を成立たせ・意味付けるもの・としての有用性の<働き>が在るのです。

 何も無いのに働きが在る。これはどういう事か・という訳で、段々と<有でもなく無でもない><無でもあり有でもある>……こういう匂いがして来ますね。

 ここ迄が世俗の議論です。けれども、勝義の目から見てもう一度世法へ立帰って来ると、以上の事例は、単なる有ではなくて<有でもなく無でもない><無でもあり有でもある>という型で在るのです。時間での<久遠>や<尽未来際>という事も、<在る法>ではないが、こうした<知る>出来事なのでしょう。久遠・尽未来際は、実はこれは<無時間性>の主張・なのでして、こう受取ると却って只今の実存の中に厳として存立して来るのです。

 色々とそういう事が在るので時間問題は難しく、現代でも、時間問題はまだ未解決な所が残されている・と言われております。

 元々<時間>そのものが、事存在ではなく<亦無亦有>なる理存在なのです。心体や心の因果を<能顕>する<知る法><能顕法>なのです。この事は竜樹や天台が論じた通りでして、結局は「一念の心中の理」だという事です。実体時間は無い・実存現象時間は認められる・と竜樹は言っております。時間とは<事象・特に業(カルマ)の相続を見る形式>なのです。ですから一念の心中の理です。

 もう一つ……。時間には感覚時間という別種の時間も在ります。地獄の時間は長く天界の時間は短い・同一時間の伸び縮みの具合が違っている・という話です。これは今の話には余り関係が有りません。伸び縮みは実存と相依相待して決まる・という事実の指摘で、従って<伸縮>は非有非無という事に成ります。兎に角、世間で認めている物理時間・客観時間は、時間のうちのほんの一端にすざないのです。内法を人為で抽象し外法化したものなのです。

 今度は空間に就いてですが、<純粋空間>というのは形而上学的なものですね。プラトンのコーラ(素材空間)としてのヒュレー(質料)などはこの一例に当る・と思います。

 プラトンの場合は空間を材料として扱ったのですが、多くは昔から<容物>視して来たものです。昔の物理学では、空間が在るからして物を容れる事が出来るのだ・として、物の容物みたいに考えていましたが、現代では違うでしょう。

 今では、運動物が在るからこそ空間が有るので、運動物が無かったら空間など無いではないか。その証拠に、何の物も無かったら、何に依って空間を計るのか、認識すら出来ないではないか・という議論に成っています。昔とは見方が完全に逆転した訳です。

 という事は、物理学は、長さなら長さ・面積なら面積を<計測する>という作業を前提として成立っている学問だからです。そこでその為には、座標系を立てる・という<人の仕事>を必要とするので、昔の世俗と今の物理学とでは、空間に対する見方が逆に成るのです。こうして今迄の世俗を引繰返した所が現在の世俗常識に成った訳です。

 という事は、どちらが本当で・どちらが嘘だ・と極付ける訳には行かない・という事でもありますね。窓口違い・立場違い、ここを無視して絶対化してはいけない筈です。

 大前提で合意出来ない話は噛合わない訳で、それではどちらも極端説です。もう一段高い所から見れば<有でもなく無でもない><無でもあり有でもある>という第三レンマ・第四レンマが登場して来るのです。


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