7 客観論理の範囲内での事例

(1)四句レンマの部分的事例

 ひとたび中道の立場に立てば、「一切法皆是仏法」という言葉が能く顕している様に、世俗に即して勝義を説き・勝義に即して世俗を説く・という事に成ります。そこで、勝義の仮諦を論理面から説く・というのも有効だ・と思いますが……。

 <世俗の仮>は否定して遮すべき虚妄仮、<勝義の仮>は照らし出して肯定された建立法性仮です。<遮照>という重々の反省作業(さごう)からこの違いが出て来るのです。この意味から、東西古今の色々な諸学説を仏法と比較相対して理解し、その上で用いる・という事は有効な事だ・と思います。これも世俗安立の救済行に成るでしょう。

 仏法から諸学を見れば、諸学の困難な問題・詰りアポリア(難問)が、どうしてそうなのか・どうすれば解けるのか・という事などが能く判る事が多く有ります。解き易いのです。全てとは言いませんが、多く解けます。そうした事例を取上げてみたい・と思います。

 逆に、世法から仏法を見て・仏法を説明する方向も在る訳です。現実に、現代哲学なり・理論物理学なり・或いは数学基礎論・論理基礎論というものが、非常に仏法の考え方に接近し、今世紀へ入ってからは特に急速にそう成っていますから、これ等の窓口から勝義を説く事は非常に有効です。現にこの対話でも、論理基礎論の窓口から随分説いて来た訳です。

 四句と諸学の論理とが触合う事により、更に新しい思想も芽生え、実用の推論として役を果たして、科学にも新しい展開が起りそう・にも思います。所で、これ迄・諸学には四句分別という構造的な考え方は、当然ながら全く無かった訳ですが、尠くとも個別には、非有非無・亦無亦有・という四句レンマの考え方は見当らないものでしょうか。両連ではなくても・その個々でも好いのですが、事例は見当らないものでしょうか。

 昔でも今でも東洋人でも西洋人でも、同じ人間には違いないのですから、インド人だけが或る思いをして他の人種は全くそういう思いはしなかった・という事は恐らく無い筈で、四句に相当する事例の経験は、思考を深めた人には必ず在る筈です。

 ですから四句法の個々の考え方の事例は、全く無い・とは言えない・と思います。諸学の分野としては、多くは<矛盾構造の承認>という事で事例が在ります。社会科学でのマルキシズムの登場もこうした一例だ・と思います。然しこれは完全に誤っておりますから、ここでは取上げられません。

 社会科学は”永遠に不確実”な学問ですから、事例としては適切でない・と思います。別の分野へ目を向けたらどうでしょうか。

 十九世紀以来の数学で、<無限と連続>が集合論で再検討されました。この中へ四句レンマの考え方が顔を出して来ます。

 線を無限分割した極限要素を<線素>と言うでしょう。線素は点とは違うものです。そして、その長さは「ゼロであって同時にゼロでない」と定義付けられています。詰り<亦無非無>でして、無であって無でない……これは第四の上半と第三の下半との両レンマが合体した形でしょう。考え方は完全に四句の考え方に成っております。矛盾律違反を承知で定義した訳です。

 哲学や物理学の分野では、決定論と非決定論とは両立可能である・と言うのなどがそうでしょう。合理・非合理の両存もそうではありませんか。こんな風に、ばらばらには色々在る・と思います。

 具体的事例ではどうですか。

 そういう例で、有名なヴィトゲンシユタインの発言を拾ってみますと、次の様に<非有非無>や<亦有亦無>の事例が見られます。

 「パリにあるメートル標準尺に就いては、これは一メートルの長さがあるともないともいえない

メートル原器は・計るものであって計られるものではありませんから、その長さを言う事は、長さの証拠には成らない訳です。これは<非有非無>の例です。

 「一個の物に就いてそれが自己と同一であると語ることは、全く何も語らない

これは・同義反復(トートロジーでしかない・という事です。私は私である・という言方と同じで、述語は主語を繰返しているだけで、何の叙述・伝達にも成っていない訳です。これは<亦有亦無>の例です。

 こんな風ですから、注意深く広く各方面を調べたら沢山見付かる・と思います。要するに、人が注意を向けないから隠れているのでしょう。不注意の死角に隠れている例では、ユークリッド幾何平面なんかがそうではないですか。

 中学時代迄は、ユークリッド平面が立派な実在で、これしか無いのだ・と思っていました。非ユークリッド平面が在る・などとは考えもしませんでした。

 常識では、ユークリッド平面は当然在る・としていますが、物理や天文の専門家の方から言わせれば、これは現実には何処にも無いものです。理想的な極限状態として形而上存在として有得る・というだけのものです。

 してみると、有るとも言えない・無いとも言えない、詰り非有非無の立派な事例なのではないでしょうか。実際には無いのに初等幾何学では設定されている。この局面では亦無亦有でしょう。

 してみると、よく見極めて行くと、洋の東西に関わらず、事例というものは在るものなのですね。事例が在れば「これを表現する言語手段は無いか」と誰でも考えそうです。

 ええ。ですから四句分別というものは、単なる思弁だ・とか・観念だ・とか言わずに、事象の事実に即して・もっともっと突詰めてみる必要が有るのではないですか。恐らく・インド人はこれを思弁から捻(ひねり)出したのではなくて、事実の方から導き出したのですから、これと同じ態度で接する事が肝心だ・と思います。


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