(6)有無二道本覚真徳とは!?

 四句分別は、仏法では智法であって境法ではない事は判ります。然し空仮中は境法に就いての智法です。同じ様に四句分別も境法に就いての智法ですから、この意味では境法にも通用しなければなりません。そこで人の一心一念詰り生命に就いて考えてみたい・と思います。生命というものの時間的側面から、不滅不生を介して四句分別の第三・第四レンマを見てみますと如何がでしょうか。

 人間が死ぬのは当然の事ですから、命に就いては誰でも有が無に成る・という事は承知するのです。ですが前世が無いとすると、今生きているのは無から有を生じた事になるのですが、これをどう説明したら宜しいのでしょうか。

 それこそ<絶対無>というものから有が生ずるのでしょうか。生命という存在の無は・何にも無い・という事です。何にも無いのにその無からどうして<存在が有る>事を生じ得ましょうか。有体は「無因からも生ぜず」の筈です。恐らくこの問いに答えて呉れる人は無いでしょう。

 常識では命という存在の有が無になるのは当り前だ・と思いますが、無が有になるのは当り前だ・とは思わないのです。存在の有は存在の無からは生じないからです。これは片手落ちで、どちらも極端ではないですか。一方が通用するものならもう一方も通用して然るべきです。

 有が無に成るのだったら、無が有に成ったとしても可怪しくはない筈でしょう。有無相通ず・と言いますから……。そこで四句分別の第三レンマ・第四レンマの・妥当だ・という事が信じられて来るのです。現量や比量としての命の有無は凡夫眼前の<見え>に過ぎないのですから……。

 世俗流に有と無とだけで考えると、有が無となる(死)という片方だけは承認出来ますが、無が有になる(生・誕生)というもう片方は承認出来ない訳ですね。

 生きているのが死んで無になる…これは<断見>です。何も無かったのが今世に生れて来た、前が無くていきなり有が始った……というのも断見です。所が人間というものは、そういう事が嫌だから、今度は反対に、続くのだ・という素朴な<常見>を持出して来る訳です。胃腸が弱いと便秘と下痢とが交互に現れますが、これは便秘と下痢とが裏返しである事を示します。同様に、お脳が弱いと断見を裏返して常見が現れます。

 この素朴実在論の常見から生れて来たものに、インドでは、転生輪廻説、バラモンや六師の<アートマン>(我・実体)、西洋では、有を支えて有たらしめている<サブスタンス><エッセンス>……日本語訳では<実体>と<本質>などが在りますが、こうした<断常の二見>を破り超えた所に仏法の<中道>が有るのです。

 有・無以外に非有非無・亦無亦有が在るので断常二見を超えられる。この話は既に済んでおります。理論の範囲内に在る限り、四句分別を承認する以外に・断常の二見を超える事は出来ないでしょう。超える方法は反省操作だけです。

 仏法は多くは事実論・実存論・自覚論であって認識論・存在論ではありません。然し、事実・実存・自覚を認識論化して説くのですし、客観世界ではないのに客観した形で述べますから、この局面からは存在論も登場し、境法としての四句も登場致します。生命の存在に関する四句判断の役はここです。

 そこで四句で生命の断常二見に拠る存在論を超えて、不断不常の中道の在り方をしている生命の在り方を顕すのです。不滅不生・というのがこれです。竜樹の強調する所です。然も仏法に於いては、四句分別は、一般論としてよりも、法門と仏身とに就いてより多く使われています。という事は衆生身も亦・然なりです。

 ですから、理論の範囲を追及する・という事でしたら、この四句分別という事を能く念頭に置かないと、東西の哲学では迚も理解も出来ないし、妄論だ・という結論が出て来ます。そこで、伝教大師が「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」(『要纂』)と言っているのは、やはり四句分別が頭に在るからでしょう。

 この妙用・真徳の説明は前にも出ていました。二道は二辺とは全く違った事です。

 繰返しますが、この有無二道は自覚への反省道です。これ以外では決してありません。反省でないと本覚という自覚は生じないのです。覚了しない真徳は在り得ません。仏様の主師親三徳を始めとする諸徳・一切徳詰り真徳・は覚了から生じたものです。この一句は由々しき大事の法門です。

 或る『大辞典』にこの『要纂』の文に就いて解説していますが、それには

 「十界の生命ことごとく生死の二法であることは明白である。しかもその生死の二法は一心の妙用 である。実際には生によってはじめて有になるのではなく、死によってはじめて無となるのでもない。生も死も本来本有のものであり、生命の本質(×)に具わる働きなのである。生も死も有も無もともに本覚一心の妙用であると覚知した時こそ、無の本質的実相(×)が解明されるのである」

という説明が成されております。能く考えてみると、文全体が二辺見で構成されていて、その上、この説明は何を言っているのかさっぱり解りません。生死=有無・に成っています。

 「生命の本質」「無の本質的実相」(註 無には本も質も実も相も在り得ない)などは外道説であって、無自性無本質を本領とする仏者の思想とは相容れるべくも無く、仏教の辞典には有るまじき語用です。「有・無」もどうやら存在論として考えている様です。反省判断である事など、てんで念頭に無い様です。人を迷わせるも甚だしい全く困った説明です。大非法です。

 今では論理学に於いてさえも、存在判断(存在の有無)は選言の特称判断だとされて、叙述判断の中へ解消されてしまっています。詰り・存在判断というものは無くなってしまった訳です。世俗でさえもこうなのに、伝教大師の有無二道を存在論にしてしまうとは何たる事でしょうか。

 仏法で存在論を展開するとはこれこそ”言語道断”です。仏法は智法を説くものであって徒(いたづ)らに境法を説くものではないのですから、存在論化した説明など在っては成りません。辞典の説明は伝教大師を讃めて大師の心を殺すものです。六師の法で仏法を解釈した摧尊入卑の見本です。

 四句の話へ戻りまして、このレンマ法は分別の形式であって悟りそのものではないが、悟りを追及する手懸りであり、又悟りを他人へ伝達する言表上の形式なのですね。詰り記号ですね。

 そうです。『止観』第十の巻「諸見を観ぜよ」の所に「四門(四教の四句分別の事)は理に通ずれば即ち正見を成じ、もし方便を失すれば四見(四句分別の見・という見惑)の中に堕す」と在ります。詰り、正見に通ずる使方をすべきで、執著すべきものではない。手投だ・という事を忘れるな・と言うのです。忘れれば、地獄へ堕ちる様に四句分別の見惑の中に堕込んで迷うだけだ・と言う。

 ですから通途の四句分別は・教行の内の教解の中だけの思考手段で、行証という修行面では用いて然も取払うべきなのです。実際に、絶言の四句・と言って取払ってしまうのです。次に行に於いて反省の縦型に四句分別を用いても・これも終局は心行所滅で消え去ります。

 天台の教法は<解→行>の方向を取っていますが、下種仏法では<行→解>の方向を取っていますから、末法では四句分別を喧しく取立て言立てる必要は無い訳です。台家は解行・末法は行解です。

 『止観』には「妙解に依って以って正行を立つ」と在り、これが正修止観の行方です。

 大止観行は我が一心を有(仮)・非有非無(空)・非空非有(中)・と論法反省(観心)する修行なので、四句反省を教え<解>させてから始めないと立行が成立しません。為に真向から四句分別が表へ出る訳です。末法は専ら受持一行から得解の方向へと進むので、四句の信解は行後で宜しいのです。名も知らぬ・では困りますが、四句分別を表立てない所以(ゆえん)です。


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