(5)真理論としての如実法――法の無常と無性

 <事実>と<真実>との違いに就いては……。

 例えば、近眼の人には遠くは見えない、目の良い人には遠くも見える。この様に対境は同じであっても、一人一人の見え方は違って来ます。<実存>というものはこうしたものです。

 色盲の人は交通信号を見誤る・と言いますが、兎に角・夢であろうと錯覚であろうと幻であろうとも、その様に見えた・という事は、その本人に取っては動かす事の出来ない<事実>です。現量とはそういうものです。所がそれが<真実>であるかどうかは調べてみない事には判らない事です。調査か反省かが必要です。

 然しその調査された<真実>が正確に当嵌るのは、物理系諸科学というか・概して自然科学の部類に就いてでしょう。その反面又・社会科学や哲学上の<真理>と目されたものが「二百年と持った事が無い」(エンゲルス)という<事実>も在るのです。

 それは客観世界での話ですが、仏法では、客観世界ではなくて、主客未分の所を直観で把握する各人の体験世界が問題と成る訳ですね。仏法の直観真実は?……。

 その直観は凡夫の直観ではなくて仏様の直観です。その仏様の直観で現実の移ろって行く無常の世界を掴んだ時には、何時のが<実>で何時のが<非実>だ・という差別は無いでしょう。これはテレビの画面の例でも判る通りです。常に非実非虚=真です。実と単純に受容するのも間違い、虚と単純に拒絶するのも間違い。双照して抱取るのです。

 ですから<真実>と言って抑えるべき何物・何事も在りません。と同時に・仏様が抑えてみれば皆<真実>(如実)でして、そこがレンマなのです。正(まさ)しく<有に非ず無に非ず>です。有でもなく無でもなければこれは空です。

 こうして、仏様ではなくても、経文なり『中論』なりを読んで、無常と縁起とを土台にして・現実の世界をじっと思索して積重ねて行けば、空にぶつからざるを得ないのではないでしょうか。

 ここまで思索を進めて来れば、実体論の成立たない事は自明の事と成ります。

 空迄来たならば、今度は否定を通じて<無でもあり有でもある>という第四レンマに到達出来ます。型は肯定ですが内容的には引繰返しで、第三レンマ<有でもなく無でもない>を引繰返せば済む話ですから……。その時にはその人の論理態度も否定から肯定へと引繰返っています。この第四レンマは即ち<中>です。

 天台はこの<中>を化他の照立では<非空非有>と言い・自行の遮破では<非有非空>と言っております。この上半の<非有>とは、推理ではなくて反省ですから<無>ではなくて<有ならざる知り方>です。これで第二レンマ迄排除されています。

 <有ならざる知り方>には<非有非無と亦無亦有>との二つが在ります。そして<非空>で非有非無は排除され、残るのは<亦無亦有>しか有りません。それで<非有非空>は、<亦無亦有>を指す事に成ります。非有非空は亦無亦有と全等です。これが<中>のレンマです。

 ここの所が諸行無常から始る如実法としての真理論の骨格ですね。

 只ここで注意して置かなければ成らない事は、これは飽迄も仏法を理の範囲で論じたもので、いまだ事行の大事な部分には触れていない・という事です。只理論の華麗さだけに目を奪われて、それで判った積りに成ってはいけません。

 諸行無常・と言うと初門阿含部の教えだ・という事を理由にして軽視する傾向も在る・と思いますが、これは現実の事実の端的な指摘なのですね。メタ現量なのだ・と言ったら重要性が判るか・と思います。

 世間の現実を極めて正確に有りの儘に見た・という事実で、理論ではないのです。ですから、こういった考えに就いて、何か可怪しいな・と思ったら直ぐ諸行無常へ戻れば好いのです。すると又考える糸口が着いて来るものです。こうして無常という事実から始って、事実と論理とが絢(ない)合せになっている所がインド論理の特徴なのです。

 そこで<法>と言う場合も、これが論理の法なのか・事実の法なのか、区別するのに骨が折れる事が有りますね。無常・などもそうです。

 空の場合もそうです。事実の空を言っているのか理論としての空を言っているのか、ちょっと迷う時も有ります。方等部の『大宝積経』「普明菩薩会」に次の様に在りまして、事実の空か理論の空か迷うでしょう。でもこの場合は事実の空を言っているのです。「空(理論としての空)を以っての故に諸法を空(事実の空)となすに非ず・但・法の性おのずから空(事実の空)なり。無相を以っての故に法を無相となすに非ず、但・法おのずから無相なり。無願を以っての故に法を無願となすに非ず、但・法おのずから無願なり。是くの如く観ずるはこれ法の真実観なり」。

 これは仏様が大迦葉に説いた所の・三三昧・三解脱門・と言われるものですが……。

 『中論』第十八章で、『般若経』の<無相・空・無願(無為・無作の事)>の三三昧を論ずるのですが、この三三昧を詳しく説いているのが今の『大宝積経』の文なのです。詰り三三昧の説明の原文です。「無願」というのは「願を作さざれば是れ無作解脱なり」(『解脱道論』)という事で、平たく言えば<欲を舁かない・頭で捏繰廻さない>という事です。詰らぬ知欲を舁くから頭で捏繰廻して縛られてしまい、解脱出来なく成るのです。

 この経文を見ても明らかな様に、仏様は法に就いて現実と論理とを決して切離してはいません。絢合せの儘説いて示して会得させる様に仕向けております。

 三三昧の内容は……。

 無相は無実体相の事ですから縁起相を指し、これは仮です。空はその仮が空だ・という事。無願は無作解脱で中です。やはり空仮中です。従って「法の真実観」とは三観を指す事に成ります。

 法・法・と言うけれ共、まず事物事象の全体が法なのであり、この事法に就いて理法を見れば、その法(理法)は現実の出来事と一緒であって、法(理法)が在るから・法(理法)に従って現実(事法)が動いているのではない。理法は事法の上に泛び出るだけです。

 然も又、法(理法)に従わないで動いている現実(事法)も無い・と言うのです。片寄って一方だけを取るな・という事です。理法は分別の上の事ですから、無分別の立場に居る仏様は、両非で真相を教えている訳です。元来の無分別事法は分別法には従うものではない事を教えています。<無願>……頭で捏繰廻さない・とはこういう事なのです。

 そこが世俗の学問の考え方と違う所で、仏法では、まず現実が有って・その現実に就いてこそ仏法が有るという考えですね。

 空は反省判断ですから概念抜きです。理でもありません。理抜き概念抜きなら概念である<性>など空には無い訳です。「空性に因って諸法を空と為すに非ず」で、空に「性分」などは無い・と言っています。空に性分が無かったら、諸法を空なりと主張する以上、色々な型の法・色々な種類の法が有って、皆、各々の性が違っているのに可怪しいではないか……との反論が出そうです。

 けれども、性に違いが有るのは諸法を人が使った時の話で、本有理ではないのです。法は使って反省してこそ初めて真実の法であって、すると、法常無性です。法は常に無性・無自性なのです。反論の様に、空や法を分けて浮上がらせたら、そこから直ぐ実体化の危険が生じて来ます。空性は事物の方に在るのでして空の方に在るのではありません。

 人生の順序としても、この世に誕生した時から仏法を体験している人は無い訳で、兎に角・世俗の事実からしか始りません。その現実世界の事実は諸行無常である以外は無い訳ですね。

 ですから竜樹も『中論』で「不滅不生」と言っています。その無常生滅の奥を見よ・と言うのです。滅せず生ぜず、滅して滅せず・生ぜずして生ず・というのは、論理学の純論理から言えば目茶苦茶で、有得ない事です。けれども仏法では排中律の手が届かない所(横でなく縦)を言っているのですからちっとも可怪しくありません。矛盾律・排中律・同一律を縦・横の理論で排除しているのではないのです。それを表現に書表せば四句分別に成るのです。


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