(4)三諦を暗示する三法印

 四句分別に着眼すると、外道から仏法に入って『法華経』に至る迄一貫した一つの論理の筋・というものが見えて参ります。この一貫した論理の筋が浮び上って来ないと、外道は外道・仏教は仏教・と別個なものとして在る、更に釈尊は釈尊・竜樹は竜樹・天台は天台・とそれぞれ別で、論理として一つに繋がって来ません。そこで、一貫性を求める見方が非常に大事に成って来る・と思います。

 外道とも繋り(共通部分)が無ければ破折さえ出来ません。天台の五時八数の教判とは別の視点で繋がって来ます。釈尊から天台迄の繋りに就いては、既に別の形で申し上げました。

 前に<諸行無常・諸法無我・涅槃寂静>の三法印の話が在りましたね。

 三法印と雖も・ちゃんと三諦に配当されています。『涅槃経』の偈の場合は二連四句に並べていますが、四つでも三つでも同じ事で、鬼神偈の四句は三つに纏ります。これも<繋り>です。

 諸行無常・是生滅法―――諸行無常………仮

 生滅滅已――――――――諸法無我……仮・空

 寂滅為楽――――――――涅槃寂静………中

 三諦に繋るものは論法の点からは四句分別ですが、悟りの内容という点では、阿含部の三法印が既に三諦に繋るものを持っている・という事ですか。

 三法印が三諦を暗示しているのです。諸行無常は世俗のメタ現量仮です。諸法無我は現量を推理し法理を考える訳ですから比量の俗諦です。俗諦ながらもこれを反省しさえすれば空諦です。無我は直ぐ・空なり・と反省されます。涅槃寂静は中諦です。仏法は『阿含』から一貫して三諦論です。

 ですから円融三諦には成っていないのですが、兎に角円融三諦の走りがそこに出ています。走り・と言うよりも・寧ろ・円融三諦が暗示されている・と言うべきでしょう。世俗に即して勝義在り・勝義に即して世俗在りで、結構、一念三千の暗示に成っています。世俗・勝義は相待で解るものです。

 四句分別と三法印との・三諦に対する関係を正確に捉えますと……。

 三法印が円融三諦を暗示し、四句分別の方は三諦への観のオルガノンに成っている訳です。このオルガノンに就いては、インド人以外・誰人も考え及ばなかった事です。

 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・という字面からは、何か非常に寂しい感じを受けてしまいますね。梵語の場合はどうなのでしょうか。その辺が判りませんが……。

 そこが問題なのです。決してそういう内容ではないのです。初門の阿含義と雖も、根本の悟り・所謂・仏に成る・というこの一点だけは一応の話しか在りませんが、法華の活の法門として見た時には、阿含法門と雖も勝義で包んで行ける・妙法体内の良い理論はいっぱい在ります。

 これ迄に、竜樹の思索が何時でも諸行無常・縁起という基本から出発している・という話が在りました。そうしますと、この無常・縁起を基本として考える事に由って、我々も空を会得する事は不可能ではない訳ですね。

 論理学的な反省さえ出来れば可能です。論理そのものの方ではなくて、基礎論が教えている反省の方ですが……。何かここに<有体>というものが在るとします。話をするにも自分一人で考えるにも、何かをテーマにしなければ話には成らないから、まず<有体>を先に立てる訳です。

 そうすると、竜樹に言わせれば、これは皆・空に成ってしまうのです。これは必ずしも仏法者でなくても、無常・縁起から出発して経文を頼りに順序に考えて行けば、空の近く迄は到達出来ない事はない・と思います。無常は物や事が辿る<道筋そのもの>だから空です。

 只・この無常・という事ですが、これは文字通り善悪無記な<常無し>の意味です。所が能く<情無し>の<無情>とごっちゃに成り、”平家物語式”の無情感として受取る間違いは厳に注意しなければなりません。変化して常が無い事は良い方・悪い方どちらへも変ります。我々は無常に導かれて良い方へ変れば宜しいのです。

 <有体>から始る<空>への思索の筋道に就いては……。

 無常・という事は、今有っても直ぐにその儘ではなく成る事で、生じては滅する生滅法です。確かに諸行の個々の無常はそうですが、我々の一生涯を通じて時間・空間を長広に見れば<無常この事の常住>が見えて来るのではないでしょうか。見えるが、世の中に<無常>や<常住>や<縁起>という個象など存在せず、これは<道筋>で、<在る法>ではなくて<知る法>でしか有りません。

 こうしてまず<無常法の常住・縁起法の常住>が会得されます。すると五根五感の外部感覚の仮有の世界から、今度は意根との脈絡の世界へ入ります。これは有るとも言えず無いとも言えない世界です。仮名だけ・と言えばそうだし・それでも心には浮かんでいるのだ・と言えば・これも事実です。詰り空です。こうして常住法は空です。非有非無です。

 因縁は<生起→離散>で、Aなる無常は消え・Bなる無常が起る。そのBなる無常は消え・Cなる無常が起り、CDEと無限連鎖します。無始以来の<相続>です。我々の身辺は一瞬と雖も・どの空間・場所・と雖も無常に非ざる物事は在りません。無常が満ち満ちているばかりです。九界・世間法は何時でも何処でもそうです。その癖<無常>という事物事象は無くて、これは<在る法>ではなく<知る法>でしかありません。無常は<在る法>が辿る<道筋>です。

 ですから、時空的に集合論的に見ると、無常が常住している<相続>のなかで九界の我々は暮している訳です。これは仏界の<無常即常住>とは違うでしょうが、<知る法>たる<相続>さえ<知って>認めさえすれば、無常が常住している事には変り有りません。多様を統一する函数式的な常住・変化を通ずる統一的常住です。有体をスクリーンにして浮び出るのです。

 その<有体>というのは、外部感覚での所産知(現量)ですから、一瞬乃至或る時間幅のなかで、自己同一を認められたものを称して有体と言う訳ですね。

 その有体は自己同一を保存していながら無常でどんどん変って行く訳です。タバコなどは直ぐ変ってしまう。茶碗は壊れる迄は変らないが、ライターなどはこの中間で、油が段々と減って来て二・三ヵ月しか持ちません。因縁仮和合と因縁離散とが同時に進行しています。だから仮有です。不一不異です。長劫を一貫する自己同一は在り得ません。

 ですからその<有>は何時迄もその儘の有体ではなく、時間に連れて別の形の有体に成って行きます。この極端なのがテレビの画面です。その画像は確かに有体ですが、写真ではないから動く、今在った有体はもう無い。役者は変り、走ったり飛んだり出たり消えたりです。自己同一は、限定期間内での変る有体の”証人”です。地球上には四十六億年を超える自己同一は在りません。

 という事は、有体と言ってもこの有は、決して固定した有と断定する事は出来ない・実体が無い・という事を意味していますね。テレビの役者はその人自身として変らぬ実体が在るではないか・と言っても、その人も又テレビ画面同様・変ってばかりいる存在で、その人自体という不変体は持っていない……。ちゃんと歳も取るしシワも寄る……。

 ですから、真実の有・というものは、仏法では<如実>と表現されて、<如>の字が附いて初めて真実になる訳です。仏様の事を如来と言い、如来如実知見三界之相などと言います。竜樹に言わせれば不来不去で<来たものではない>筈ですが、世俗では<来たもの>です。そこで<如々として来たる>……如来と申します。

 「如」と言うと、普通は「同じ・等しい・似ている・有りの儘、その儘」等の意とされていますが……。

 唯「似ている・何々の如し」と類推法で考えている様な事ではありません。「その折々の真に迫る」の意だ・と山内氏が言うのは良い所を見ています。如実なものこそ真実なものである。こういう意味の如です。何だ彼んだと頭で捏繰回さない……顛倒人が思考造作を加えないのが如です。仏様は加えても宜しい。無作の事です。無為・とも言います。<如>は<離虚妄>の<知>です。

 という事は、一時間前の如実と今の如実とは、如は変り無くても実の内容は変っています。変っているけれども、如という概念に由って実であった事には変りは有りません。だから無常の世では<如実>こそが<真実>な訳です。<如>は<知る法>で<実>は<在る法>上の<知>で、これ(如実)は<法>です。如実の変化・如々とした転変、これを<常住無常法>と称するのでしょう。


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